Smile again
Dear karu様


 最近、静司が可愛い。

 ──よく笑うのだ。
 笑うといっても、恐らくは彼と関わった全ての人間が見たことのある例のどす黒さ丸出しのアルカイックスマイルじゃなくて、何というか──幸せそうな、と言うと大袈裟なのかもしれないけれど。まして、自分と居る時にだけその顔を見せるのだという自惚れも、間抜けなのかもしれないけれど。
 とにかく、これまでは見せてはくれなかった顔を見るにつけ、愛しさはますます募る。

 祓い屋の中では、私が「名取」と知ってわざわざ構ってきたのは静司くらいのものだ。
 思えばあの頃から静司はいつも笑っていた。最初は上から目線の薄ら笑いに始まって、多少気心が知れれば微笑んで、時には人をネタに爆笑したり。
 でも、最近はちょっと違う。
 まるで隙だらけの顔。あのツンケンした高嶺の華という体裁を、完全に無視した無防備な笑顔。もし彼の冷酷さを知る人間が目にしたら驚愕するだろうその笑顔を、果たしてほかの誰が知っているのだろう。考えたら猛烈に嫉妬してしまう──だから考えない。何故ならば。
 ……そんな顔を見せるのは、大抵がセックスの後だからだ。
 厳密には、セックスの後、後戯が長いかどうかは別にして──たとえ疲れてさっさと寝てしまうにしても、射精してくたくたになった身体を抱き寄せて、腕に抱き込んだ時に、見せる顔なのだ。

 つまり──まさに、今。

 意外なことに、子どもみたいに人の胸でゴロゴロするのを好む静司は、じゃれあうとすぐに私の胸の上に頭を乗せてくる。まるでそうしたら安心するみたいに、放っておいたら懲りない猫の子のように何時間でもそうしている。
 愛らしいから好きにさせているけれど、ある時ふいにそのままの状態で眠っている静司の顔を見たら──余りにも可愛くて、思わずむせかえりそうになった。
 それは無防備で、無垢で、幸せそうで、堪らなく愛おしくて。
 そしてそれは、確かに微笑んでいた。猫が眠ると笑っているように見えるように、口角をほんのわずかにほころばせて。

 この的場静司なる男、一部の筋では尻が軽いと悪名高い。
 その巷の悪名自体を弁護する気は甚だ無いが、少なくとも静司が利用価値があると見なした相手に行使するのは「情」ではなく「色」──つまりハニートラップでしかない。他人の色欲につけこんで、自分の思うように操ろうという意図が、はたからは丸見えなのである。
 これは要は、イヴと蛇のいずれに非があるかという命題だ。
 蛇に姿を変えたサタンに唆されて知恵の実を口にしたイヴ、はなから周到な意図をもってイヴに近付いた悪しき蛇──愚かなのは完全にイヴのほうである。蛇は最初から悪をなすためにイヴを誘惑するのだから、その謀にまんまとのせられるイヴが間抜けだという話だ。悪意それ自体が絶対悪だという抹香臭い性善説を信じる幸福者には通じない理論だが、静司が常に蛇であり、常に誘惑者である以上、その思惑に絡め取られる間抜けは、所詮は色欲を満たしてやれば主権者の意のままに動くロボットに過ぎない。
 ──自分がその犠牲者の一人かどうか?
 そこは自分のことだけに微妙な気はするけれど、だとしたら静司は静司らしからぬリスクを冒している気がする。
 実は私のマンションに出入りする静司の姿が、週刊誌の張り込み班に撮られたことは何度かある。セキュリティ完備のマンションでも、あのスクープ狙いの張り込み班の目はえげつないもので、他の住人を抱き込んだり、隣接マンションから廊下を撮影されることもしょっちゅうだ。
 見ての通りの細面、化粧でつぶしのきく女の中にあっても、圧倒的に美貌の際立つ静司が女と間違われることは少なくない。まして世間様に顔を知られ、祓い屋内でも静司とは別の意味で名の知れた私との醜聞が立つことが、的場一門の長である静司を窮地に立たせることはあれど、メリットをもたらすことはまあまずない。
 そこで政財界及びマスコミにも顔の利く的場家が、各週刊誌、新聞社のデスクを通してスクープを抑え込むことは珍しくはなく、そうやって未だに不適切な画像は世間に出回ることなく済んでいる──そんな事情を思えばとみに、静司に余計な意図などあるはずがないと考えてしまうのは──私が浅はかなのだろうか?

 ちょっと目元が和らいで口角が上がるだけで、驚くほど印象が変わる静司の寝顔は、本当に子猫の寝顔のようだ。さっきまで散々激しい性行為に悶えていた濃密な色気は抜け落ちて、今はただ、そうされるのが嬉しくて仕方がない──そんな顔をして眠っている。
「………せいじ」
 愛し子をあやすように甘く名を呼ぶと、聞こえているのか、すり、と胸に頬を押し付けてくる。思わず力を込めて腕に抱き込むも、間延びした呻きがかすかに聞こえたきり、呼吸は相変わらず規則正しく、起き出す気配はまるでない。
「……」
 ──だが、その可愛い顔を見つめるにつけ、にわかに別の不安が浮き上がる。大の男が何を一人で赤くなったり青くなったりしているのか、俯瞰で考えると間抜けきわまりないのだが、ふと思う。

 実は私はとんでもない勘違いをしているのかもしれない──。

 行為は双方合意の上で行われている──つもりだ。実際のところ、静司が誘いを拒むことはまずない。
 でも、本当は違うのかもしれない。互いに目的が異なるのかもしれない。
 そう考えた途端、どっと汗が出て──かと思うとサッと血の気が引いた。
 私の目的はセックスでも、静司の目的は違うのかもしれない。それは騙す騙されるの駆け引きでさえなく、ただ、着眼点が異なっているのかもしれないという、蛇とイヴの関係よりももっと微妙で、致命的なズレなのかもしれないと思い到って、私は腕の中の眠る恋人に目を落とし、思わず強烈な目眩を覚えた。

 静司はもしかして、ただこうして抱いてほしいがために、行為に応じるのではないだろうか──。

 たとえ、それが全てではなくともだ。
 第一、少し考えれば判ることではないか?行為に及ばずとも、静司が胸に顔を乗せて、抱いて貰おうとする仕草。ともすれば飽きずに何時間も構って貰おうと、抱いて貰おうと体を寄せる仕草。抱いてやれば見せる、この安堵。
 それをブロックサインと受け取って、仕方ないと行為にだけ及んだことは何回あった?疲れを理由にほったらかして、適当に寝かしつけたことは?朝にマネージャーが来るからと、深夜にタクシーを呼んでマンションから追い出したことは?

 第一、こんな顔を見るようになったのは、ごく最近のことだ。
 逆を返せば、行為の後に静司を抱いて眠る習慣がついたのはごく最近になってからのことということだ。抱き合って眠ったことはあっても、これまでに気付いたことは無かった。そもそも静司にそんな甘え癖があるなんて考えたことも無かった──思いやりもしなかった。互いの関係線上で何かを期待することは勿論、何かをしてやることさえ考えもしなかった。互いに踏み込むことが困難なしがらみをもつ身の上で、人並みの欲求は許されぬという建前で。
 こんなふうに目を閉じるだけで、びっくりするほど幼く見える。その愛らしさにいたたまれなくなるくらいに──どれだけ慈しんでやれば、この罪悪感にも似た愛おしさが払拭されるのか判らないくらいに。
 つまるところ、この愛らしさは、己の愚かさの裏返しではないのかという矛盾。
「………」
 七転八倒したい心の乱れを抑え込み、静司の髪を愛撫する。市販のシャンプーで適当に洗っていると言うにも関わらず、絹糸のように細く、だが強く、しなやかで、光り輝く艶やかな鴉の濡れ羽色。
 その時、ふつと糸が切れたように、静司の目がかすかに開く。うとうととした、眠たそうで愛らしい寝惚け眼。
「……どうしたんですか……?どきどき、してる……?」
 まだ半分夢の中に居るみたいに、どこか舌足らずに静司は言う。くっついた胸の鼓動が響くのだろうか。寝た子を起こすほどの動悸──一体どんなに動揺しているんだ、私は。
「済まない、夢を見て──」
 やんわりと体を引き離そうとするが、ぴったりとくっついた静司はそれには応じない。
「いや」
「静司?」
「……もう、はなれるのは、いや……」
「………」

 ──もう、離れるのは、いや。

 恐らくはまだ半分夢うつつで、静司はぴたりと体を寄せてくる。半分閉じたような目をしばたたかせて、私の胸に頬を当てる。その肌は、柔らかくて、すべらかで、芳しい。
 髪に鼻先を当てると、既に静司の呼吸は寝息に変わっていた。
 もう一度、言葉を胸の内で反芻する。
(もう、離れるのは、嫌──)
 ──自分たちは、そんなにも長い間、離れていただろうか?
 これは同じものを見る者の、単なる認識の違いなのだろうか。月に一度でも逢えれば満足する者と、それでは足りぬと言う者と。

 ……君が、たまらなく可愛い。

 隠し立てできない、正直な気持ちだった。
 百万回くらい言ってやりたい。確かに今までの認識は過ちかもしれないが、もしも私の仮説に不備がなければ、まだ手遅れではないだろう?こんな風に可愛い寝顔を見せてくれるのだから──こんな風に、微笑んでくれるのだから。

 セックスをしなくても抱いて寝て、うんと撫でて可愛がって。胸の上で遊ばせて、互いの体を寄せ合って、体温と鼓動を共有できるくらい、溶け合うほどに近付いて。
 そうしたらこの愛らしい寝顔を、これからもずっと見続けていられるだろうか。美人は三日見たら飽きるなんて、ありゃ嘘だ。百日見たって飽きやしない。三日で飽きる美人など、所詮程度が知れている。

 もしもこれが、静司一流のハニートラップだったとしても、構わない。同じ顔をほかの誰かにも見せているのを知ったら嫉妬に狂ってしまいそうだけれど。
 哀れな馬鹿者の末席に名前を加えて貰えれば──幸いってやつだ。間抜けな蛇の餌食と、闇にほくそ笑んでいたとしても。

 どうかもっと、笑っておくれ。わたしの愛しい恋人よ。

 これからは君が望むだけ、何夜だって抱いて眠ってあげるから──。


【了】


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