迦陵頻伽


 暇さえあればスタジオにこもり、ひたすらに鍵盤に向かうという生活が、もう数週間余り続いている。
 鍵盤は勿論88鍵のアコーディオン……ではなくて、ピアノだ。スタンウェイのグランドピアノ──まるで素人が触るには、あまりに過ぎた名器である。

 ピアノとは非常に特殊な楽器だ。
 弦楽器や管楽器のように、最初にまともな音を鳴らすのに努力は一切必要ない。押せば鳴る、実に単純な仕組みだ。だがその習得は困難きわまりなく、技術を維持するにも不屈の努力を必要とする。
 その88鍵は、オーケストラの全ての音域をカバーするために存在する。一人の奏者が十の指を駆使して、管弦楽のすべてを表現する──それがピアノだ。
 周一が鳴らすその透明な響きからは、「お前なんかオモチャのピアノがお似合いだバーカ」という嘲りが聞こえてくるようである。いずれにせよこの楽器、到底数週間などという屁にもならないような短時間ではまずもって習得できるものではない。せいぜいが「ネコふんじゃった」なる残忍きわまりない悪徳のテーマを、見よう見まねで弾けるようになるくらいだ。

 ただ──幸いなのは、周一は演奏法を体得する必要に迫られているわけではないということだ。
 間もなくクランクインの映画の主題は音楽で、周一の役は不世出の天才ピアニスト。かつて輝かしい将来を約束されながら、恋人の死をきっかけに心を病んだという青年が、ピアノに向かう時に必ず弾くという自作曲──。
 ピアノ演奏の技術をきっちりと体得しようという人間ならば、それに見合ったメソッドがある。それを順にこなしていくのがピアノの習練だが、周一の場合はたった一曲を、作中で弾きこなせればそれでいいのだ。
 実際そうして、演奏の経験の無い者が一曲の高度な曲を弾きこなすために、敢えてその曲の習得だけに打ち込むことがある──それはそれで大したものだが、その後も道を志すつもりならば、そうした全力の一投は自滅行為となることが多い。その一曲を習得するために身に付いた、あらゆる曲を弾くには適さぬ悪癖が、一生抜けなくなることがしばしばあるからである。

 ──ともあれ、周一がこのような憂き目に遭わねばならぬのは、妙なこだわりのある映画監督が、演奏シーンにスタントを使うことをよしとしない方針であったからだ。観るほうからすれば、本人が演奏していようがいなかろうが、さして大きな問題ではあるまい。しかし監督本人が元々市民オーケストラに所属していたコンダクターであったということもあって、どうしてもそこは譲れないというのである。
 かくしてスケジュールの合間をぬって、周一はひたすら稽古を続けた。その甲斐あって、それなりに聴けた代物にはなりつつあるのだが。
 最初でこそ、もの悲しく叙情的な短調の曲調に聞き惚れもした。しかし延々と同じ旋律を聞き続けるにつれ、それは段々と耳障りになる──胸の懊悩を表現するかのような、サビに多用される短くも印象に残るフェルマータは、もはや納豆をかきまぜる時の粘つきのように聞こえ、終盤の大げさになり過ぎない盛り上がりは、大山倍達vs47頭の牛の戦いを無音のスローモーションで見せられるかのように、うっとうしくもむさ苦しい。
 和音を多用しない曲調とコンパクトにまとめられた規則性のある音階は、どこか日本の古い唄のような哀愁と、ヨーロッパの古楽のような印象がある。たとえるならカッチーニの「アマリッリ」のような曲調だ。
 冒頭で流れ、作中で幾度と流れ、スタッフロールでも流れるその曲は、【gravecembalo col piano e forte】──その意はつまり「ピアノ」だ。

 てらいやがって、あの似非インテリめ。

 周一は毒づきながら鍵盤を叩き続ける。叙情的なはずの主旋律は、苛立ちによってもはや別の奇怪な曲に成り果てていた。まるで道成寺伝説の清姫が、安珍憎さに殺意丸出しの大蛇と化していく過程のような──。

 最後のリタルダンド、切ないピアニシモの一音で曲は終わる。

 しかし周一は譜面の指定を無視して叩き付けるように鍵盤を押し潰し、無惨な【gravecembalo col piano e forte】は終曲。ペダルを離し、残響が消えた後も残るのは、規則正しいメトロノームの音。
 壁に投げ付けて粉々にしてやりたかったが、そこは常識人の理性が打ち勝った。








 ローランドの電子ピアノが周一のマンションに搬入されたのは、その数日後だった。
 毎度のタイトなスケジュールにスタジオ通いもいい加減辛くなってきたための苦肉の策──というか、一番現実的な対応である。
 電子ピアノは様々なラインナップの中でも安価で、邪魔にならないスマートなモデルを選んだ。作中で使われるピアノは調律されていない古びたアップライトなので、スタジオにあるスタンウェイのグランドピアノよりはまだ少しイメージも近い。
 勿論恒久的に修練にいそしむつもりはないので、本物のピアノを買うなどという選択肢は当然無かった。それでもゆうに七万はかかっている──領収書を監督の名前にして送り付けてやりたい気持ちであったが、そこもまた我慢が大好きな日本人らしく辛抱した。こういう場合は経費で落とせるのか、今度事務所の経理に聞いてみようと思いながら、周一は何もない部屋にピアノが業者によって設置されるのをぼんやりと見詰めていた。








「周一さん、あれって、何?」
 リビングのソファで寝転がる、最近とみに図々しくなってきた商売仇が、コーヒーの匂いのするシュガーミルクを舌先でつつきながら怪訝な顔をする。
「あれ?」
「あれですよ、ほら、あの、四角くて長細い、なんかピアノみたいな」
「ピアノです」
「ふーん、ピアノ……」
 静司はどことなくうつろに頷いて、ピアノと周一を見比べる。イメージの隙間を埋めようとしているのは明らかで、周一は微妙にむかついた。
「あっ。いえ、人の趣味にとやかく言うわけじゃないんですが」
「……とやかく言う前に、君は何をやってるんですか。大邸宅にごっついツラ揃えて、実は的場一門ってヒマ人集団だったりします?」
 静司は白い手をヒラヒラさせて笑った。
「やだな、リサーチですよ。妖祓いなんて完全な買い手市場じゃないですか。同業者の仔細を調べるのも仕事のうちですから」
 と、いいつつ寝そべって、延々とシュガーミルクを飲んでいるだけである。あの見た目と匂いだけがコーヒーの茶色い液体による糖分摂取量は、常人の一日平均の数倍にのぼるのは間違いない。
「……で、周一さんは一体何を血迷ったんですか」
「私の趣味じゃない」
「えっ」
 静司の顔面がサッと青くなる。
 ──この下世話な痴れ者が、何を想像したかは大体判る。部屋に出入りする女の私物だとでも思っているのだ。付き合いもいい加減長くなると、そんなことは言葉にせずとも即座に判るのだ。
 この手の誤解は解いておくに限る──さもなくばピアノに対抗して、明日にでも巨大な食器棚でも搬入してきそうな勢いだ。
「撮影に必要で。ピアノを弾くシーンがあるんです」
「……周一さんが?」
 静司は首をニューとのばしてこちらを覗き込んでくる。何だか可愛いな、と思ったがそこは自制した。
「そうですよ。恋人を亡くした狂気のピアニスト」
 静司はぷぷぷと笑った。
「どんな話?」
「……」
 適当に説明しようとして、ふいに言葉が詰まる。普段は周一の芸能活動になど微塵も興味を見せないくせに、一体何を目論んでいるのやら。
「私は不世出の天才ピアニストの役で」
「うん」
「死んだ恋人は若くして高名なソプラノ歌手」
「うん」
「……主人公は、恋人の死をきっかけに心を病みます。彼がピアノに向かう時に必ず弾くという自作曲は、その死んだ恋人に捧げるための曲でした。それが【gravecembalo col piano e forte】──私が作中で弾くメインテーマです」
「オチは?」
「……」
 基本的に、公開されていない舞台や映画の脚本は、外にばらしてはいけないことになっている。それは当然なのだが──まあいい。静司の口から他人に情報が洩れる危険があるのは、こんなつまらぬネタではなく、莫大な実利が生じる場合だけだ。
「恋人を殺したのは実は主人公です」
「ベタだな」
「ベタですね。彼女の才能と名声に激しい嫉妬をして、殺してしまうんですよ。主人公は、その彼女に赦しを請うように、狂ったように同じ曲を弾き続けます。やがてそれが皮肉にも、彼が世間に認められる足掛かりになるのですが──彼は益々荒廃し、最後には死んでしまいます」
「サスペンスじゃないですか」
「ストーリーはね。ただ、脚本は恋愛映画仕立てになっていますよ。主人公の愛憎がテーマなのでね」
 話している間、静司は周一をじっと見詰めている──何を求めているかは明らかであった。
「………まだ完璧とはとても」
 静司は鼻息荒く言った。
「別に完璧な演奏なんて聴きたくありませんよ。完璧なピアノならギレリスでも聴いてりゃいい」
「それはそうですが」
「芸事の上達のコツはギャラリーを設定することです。別にコンクールに出ろなんて言ってないんですから、リラックスしたらいかがです?」
 そう言って静司はまたしてもゴロンとソファに寝転がり、周一はしぶしぶピアノへと向かう──恋人との圧倒的な力関係。バランスを崩し、嫉妬を招き、ついには殺してしまうまでに狂気に陥る男──。
 身勝手な嫉妬。いや、身勝手でない嫉妬などあるのだろうか。心は常に私秘的な問題なのだ。
 周一は鍵盤に向かう。
 長い指が最初の一音をつむぎだす。
 旋律そのものは静謐な古楽調だ。静かに始まる、平均律以前を思わせる寂しげな曲──【gravecembalo col piano e forte】。
 録音データを何度も再生し、スタジオで腐るほど弾いたあの曲の、あの煩いフェルマータは今──狂気を孕んだ緩急に姿を変えていた。
「……」
 予想外の出来に、静司は思わず身を起こしてこちらを凝視している。起きたり寝たり、忙しい男である。
 一度だけ転調し、カデンツァで流れるような悲哀を表現する間奏部は、まるで慟哭を心ごと旋律にしたような悲しみが溢れる。曲の中で唯一和音がふんだんに配される箇所──そこから曲の結びへと流れていくも、そこにはもはや、大山倍達も47頭の牛もいなかった。
 曲はオリジナルバージョンでは3分少々の短い構成だが、名取周一が狂気と悲哀を表現するにはどうやら十分過ぎる時間であるらしかった。両者それぞれにネタにしてやろうという試みは、完全に不発であった。
「……もう一回」
 いつの間にかまたしてもソファに寝そべった静司は言った。
「え?またですか!?」
「練習しないと。そのためにわざわざピアノを買ったんでしょう?聴いててあげますよ」
「……」
 ──無論、その通りなのだが。誰かに聴かれていては、どうにもやりにくい。
 そう正直に伝えると、静司はニッコリと笑った。
「じゃ、あと二回」
「え?」
「あと二回だけ、聴かせてください。憶えます」
「……」
 意味をはかりかね、周一は片眉を器用にはねあげる。
 ──そうまでして、憶えたいのか?
 周一は相変わらず不可解な静司に、言われるがまま鍵盤を鳴らした。一度目よりは淡泊な出来は自分も納得がいかず、約束も忘れて二度、三度、四度と繰り返す。だが、成功と失敗の分岐がまるで見えない。まさに素人の証だな、と思わず周一は笑った。
(まあ、一番いい出来のカットを使えばいいだけの話だけど)
 ──実際の撮影では、恐らくそうなるだろう。
 だが今、撮影のことなどほとんど念頭には無かった。ソファに俯せに寝そべって、低い音で主旋律をなぞる静司がたまらなく艶っぽい──。
 静司は周一の奏でる旋律を求め、周一は奏でる旋律を彩る静司の声に触発される情動を隠すことができない。

 それは劣情ではなく。
 ただただ美しいと──。

 周一は無我夢中で鍵盤に指を滑らせる。まさに神憑りとはこのこと──それはほんの少し前まで鍵盤に触れたことの無い人間の演奏などでは無かった。緩急自在、ピアノ、フォルテ、絶妙のカデンツァ、なめからなアルペジオ──その旋律に乗る声を支えるために、知りうる限りのあらゆる技巧を使いこなす。
 そして、曲が終われば再び──。

 再び短い前奏が始まる。
 そして、今度は主旋律が始まると共に。

 寝そべる静司の薄い唇から、低く、優しく、どこか艶かしくも、慈しむような唄が──。

「……」
 鍵盤を滑る指は止まらない。けれども、周一の鼓動は早鐘のようだ。あのいい加減耳慣れた旋律に乗ってただよう、即興の詞。
 ──それは、余りにも。

 ああ、余りにも──。




 震えうらぶる心のうろに
 咲くは闇夜に開く華
 夜毎にめでるは渇くが愛か
 藍が哀とて夢は夢

 遠い遠い其の昔
 戯言(げごん)に根差した縁の瑕は
 あな昏き此の血の底は其処
 奇める楔を埋め込んで

 雨音足音乱れ合う
 衣擦れ舌づけ淫れ逢う
 いやさきいやはて妄れ遇い
 然れど諸々定むは天

 愛が哀とて夢は夢
 夢を努(ゆめ)とて哀に遭う
 手折る華は泡沫に
 殺むる闇こそいと恋し……




 かすかに震える指は、それでも鍵盤を叩くことを止めなかった。
 言葉遊びのような韻と、静司自身の身の上を思わせる美文調の詞が、即興でその唇から流れ出してくる。まるで天上の歌のように神々しくも、子守唄のように優しく、そして恋の歌のように切ない。

 静司が口にした詞を織り上げるように、鍵盤が最後の旋律を奏でる。
 最後の音が──いつもとはまったく違って聴こえた。残響を追いたくなるような、悲哀を湛えた渾身の一音。
 それは【gravecembalo col piano e forte】──まさにこれこそが、管弦楽すべての音を奏でる、ピアノという楽器の音色そのものだった。

「………」
「すごいじゃん、周一さん」
 猫のように笑う静司を、周一は馬鹿のように見詰める。
「…………君だよ」
「うん?」
「凄いのは、君だよ静司」
「え?そう?」
「うん──」
「誉め合いとかまじキモい」
 肩をすくめた静司に、周一は思わず笑みをこぼす。
「……ほんとだな」
 ──そして、顔を合わせて互いに笑い出す。

 周一はほんの先日まで、憎々しげに叩き続けた鍵盤を優しく撫でた。どうやら七万のローランドピアノは、そう高い買い物ではなかったようだ。
 ──妙な楽器だ。
 鍵盤を押せば音は鳴るのに、ただ鳴らすだけではどうにもならぬ。
 まるで、それは心の妙。
 魂の歌声に導かれ、玄妙の音色を綴れ織る、変幻自在の心の彩──私秘性を音に映し出す、水鏡のような。
「静司」
 どこか恭しく、周一は言った。
「はい?」
「……また、唄ってくれますか」
「……」
 切れ上がった眼が、急にきょとんと丸くなる。それは子どものようにまじまじと周一を見て──思わぬ言葉であったのか、少し照れたように、静司は破顔した。
「じゃあ、また来てもいいってことですよね」
「……」
 降参だ、と周一は両手を挙げた。


【了】


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