オフィーリアの恍惚


 風呂上がりの濡れた髪から滴る水滴が、首筋を伝って胸板を這う。髪はしっとりとしなだれて、いつものくせ毛とは違った印象に視線が引き寄せられる。前髪が表情を隠すと、どこかミステリアスに見える──まるでいつもの名取周一ではないように。
 彼は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一気にあおる。反った喉から見える喉仏の隆起に、静司は無意識に自分の喉元へとそっと指先を遣る。同じもの──である筈が、彼のものがひどく官能的に見える理由を、静司の躯は知っている。
 周一はビーフィーターの瓶を片手にジーパン一枚でソファに腰掛ける。片手に持っているのは、おそらく舞台の台本だ。
 長い脚。足は大きいが、これひとつも不様ではない。筋肉が描く理想的な黄金美──なのかどうかは知らないが、その全体像の審美性は疑うべくもない。

 周一には多少神経質なところがある。役者であるところが多分に影響しているのだろうが、大事な時には、ことに同衾するのを避けたがるきらいがある。勿論はっきりとは言わないが──静司がいるならソファで寝ることが多いし、夜間は大抵脚本だの仕事の資料だのを読んでいたりするので、にわかに来たからといって必ず相手にしてもらえるというわけではないのだ。

 そんな周一が、静司は好きだ。
 好きの嫌いので一生を目茶苦茶にする輩がある一方、当然のように己を律する彼が。そのことで一抹の哀しみを感じる自分との滑稽な齟齬が。いくら情熱を燃やしても、朝には靄と消えてしまう──儚い情動に突き動かされるこの躯。愛してくれとは決して言えない、だが求めて止まぬ、それは実体の無い影踏みだ。

 ──そこには、被虐的な悦びが潜む。無下にされ、打ち捨てられる想いは否応無く膨れ上がる。
 飢餓感が獰猛さを生むように、涸渇した欲求が、相手を欲して千々に乱れる。あなたが欲しいんだ、周一さん。あなたの腕が、胸が、匂いが、アレが、精液が──欲しくてたまらないんだ。
 相手が己を律するだけ、自分は貪欲で恥を知らないけだものになる。

 ベッドで頭からシーツを被っても、ほんの数メートル先に居る周一を意識すればもう冷静ではいられない。その些末な認識に、全身が異様なほど敏感になる。あの男がこの身体に触れたこと。散々に躯の奧深くを犯したこと。互いの性器を舐めあって、あられもない格好で卑猥な言葉を吐き散らして。幾度ともなく抜き差しされる性器、間抜け面で射精して、睦事を交わし、何かがはち切れたようにこの身を溶かして愛した墜の刻──。
(どうしよう……)
 性的興奮を丸出しに紅をはいた頬を、静司は枕にうずめる。
 傍らに居る周一とのメンタリティの落差に、いたたまれない気持ちになる。シーツに膨らんだ性器を押し付けると、声が洩れそうになる。知られちゃいけない。邪魔をしてはいけないから──でも、せめてあなたの影を追うことだけは許して欲しい。
(……何で、こんなふうになるんだ)
 それは散文的な問い──性感にまつわる雄の肉体の変容、一度でも果てれば容易くは隠匿できない名残への理不尽な憤りだ。隠れて慰むこともできやしない。出すか出さないかくらい、コントロールできたっていいじゃないか?
(……そんなに、あの優男とやりたいのか。この変態め)
 自らを詰って、足蹴にすれど、無駄。腹とシーツの間にこすれてじくじくと染み渡る透明な液体が、静司の理性を削いでいく。
 ゆるゆると、腰が妖しく蠢く。
 嗚呼、と漏れる吐息が淫らに濡れる。

 ──犯されたい。

 溶けるような柔な愛撫ではなくて、無茶苦茶になぶって、硬い雄の欲望に乱暴に突かれたい。野蛮な男の貌をした本性を丸出しにしたあの人の──暴虐に貫かれて、思うままに突きまくられて、そのまま打ち捨てられたい。
 枕の端を噛んで、虚妄の搦め手に堪える。瞼の裏にこびりつく彼の人の細部──温和な表情に隠れた支配欲、狂おしいほど優しい声、うなじの感触、薄い色素に、思いのほか男っぽい体臭、びっくりするほど高い体温、大きな骨張った手、長い薬指、重量のある性器──歪んだ嗜虐性。

 元より、優しい男になど用はない。

 僅かに躯をよじると、切れる吐息が洩れる。呑み込もうとすると、擦れる性器に意識が集中してしまう。
 周一は澄ました顔で脚を組んでいる──その瞳がチラリと此方に向けられる。静司の蕩けた瞳、淫らに上気した頬は、その目に映っただろうか。駆け引きと失態に明確な線引きがあるわけではない以上、決して挑発したわけではない。
 ソファがぎし、と鳴って、周一が立ち上がる。片手には台本。もう一方にはジンの瓶。歩みを詰める音は絶望のようで、浅ましい期待のようで──だが、初めて静司は台本に走り書かれたタイトルを目にしてぎょっとする。
 ──『ハムレット』。
 表紙に走り書かれた役名を見るにつけ、静司は思わず吹き出しそうになる。ハムレット──名取周一。
 大根役者のことを英語では「a ham actor」と呼ぶ。それは、ハムレットの役は誰が演じても名作になる(実際にはそんなことはないが)というところからきているらしい。だから下手な役者ほどハムレットをやりたがる、という滑稽な矛盾。
 周一はベッドの傍らに腰掛けて、台本を置き、ベッドサイドにビーフィーターの瓶を置く。芳しいねずの実とシトラスの爽やかな匂いが鼻をかすめる。
「『……おまえは貞淑か?』」
 おもむろに、周一は言った。
「え?」
「『おまえは美しいか?』」
「……なぜそのような?」
 言ってしまってから、此の四度の会話の反復が、意図せず『ハムレット』のワンシーンになっていることに静司は気付く。
 周一は野卑で残忍にニヤリと嗤う。あざけりの相──これは、名取周一ではない。あの繊細で陰鬱なデンマークの王子、ハムレットの貌だ。
「『……なに、おまえが貞淑でもあり、美しくもあるというなら、その貞淑には美しさをあまり親しく近づけぬがいいと思ってな』」
 抑揚を排し、なおからかうようでいてサディスティックな周一の台詞は、奇妙なほどに生々しい。
 動揺と興奮に胸を揺さぶられながら、静司は答えた。まるで是まさに──愛しいハムレットに追い詰められるオフィーリアのように。
「『……美しさには貞淑こそもっとも似つかわしいのでは?』」
 呟くように言った静司の懐にスッと身を入れて、周一はその紅潮した淫らな頬を正面から両手で包む。
「『──いや、そうではない。美しさは淑女をたちまち売女に変える、貞淑をもって美を貞淑に変えようとしても力がおよばぬのだ。このことは、以前は逆説であったが、いまでは時勢がりっぱな実例を見せてくれる。以前はおれもおまえを愛していた』」
「『そのように、ハムレット様が、信じさせてくださいました』」
 頬を包む手に自らの手を添えて、静司がオフィーリアを諳じる。
「『──信じてはならなかったのだ。もとの木がいやしければ、どんな美徳を接ぎ木しようと無駄だ。いやしくば花は咲きはせぬ。おれはおまえを愛してはいなかった』」
 支離滅裂で残酷なハムレットの告白が、二人の奇妙な関係とクロスオーバーする。言いながらも、周一の手は、静司の秘されたシーツの中へと延びていく。
「『……と、すれば、私の思いちがいは一層、みじめなものに──』」
 濡れたシーツの中で細く糸がひく。自慰の名残を端から思わせぶりに見つめる周一の目は意地が悪い。それはまさに値踏み──思い込みの激しく、傲慢なハムレットそのままに。
「『尼寺へ行くがいい。罪深き子の、親となったところで何になる?』」
 鼓膜の間近に優しい声音の残忍な言葉。周一の手がシーツ越しの下腹を撫でる。無論外からは見えないが──女よりも淫蕩な、愛の交歓における周一の肉の鞘。
「……っ、ぁっ!」
「……『──おれはこれで、けっこうまともな男のつもりだ、それでもなお、わが身のもつ悪徳をいくらでも数えられる。母よ、なぜおれを生んだ、と恨みたくなるほどだ』」
 寸分違わず台本通りの『ハムレット』である筈が、まるで時と場を変えただけの自然なやり取りのようにさえ思える。おもむろに口づけられて、戸惑う隻眼のオフィーリアはさらに惑い、さらに欲望を募らせる。美しさは淑女をたちまち淫乱に変える──まさにそうだ。否、女にあらずとも。美しさは時に呪いだ。ただただハムレット一人を愛した無垢なるオフィーリアには、なおのこと重くのしかかる呪詛のごとき言葉。
「『おれは傲慢だ。執念深い。野心も強い。その気になればどんな罪でもおかすだろう』」
 唇の狭間で囁く言葉が奇妙に真に迫る。その虚構と現実の狭間が見えなくなる。
 ──なるほど、これは下手な俳優をハムレットに、という安易な選抜ではあるまい。
「『それをいちいち、考えにまとめる頭も、形に描く想像力も、実行に移す時間もないぐらいだ。このおれのような連中が天地のあいだを這いずりまわって、いったいどんなことをする?おれたちは悪党だ、一人残らず。だれも信じてはならぬ──』」
 台詞が尽いた次の瞬間、シーツを剥がれ、猥褻な名残が露になる。何をしていたかはもはや一目瞭然。はだけた袷に、帯は乱れ、おさまらぬ雄芯は隠すこともできず、淫乱の蜜は押し留めるすべもない。
 周一は瞳を伏せ──ややあって再び開眼する。
「……」
 仮面を外した、と静司は思った。鬱々とした復讐の徒の仮面──いかにしても父王の仇をとらんと心を乱す、潔癖で陰鬱な王子ハムレット仮面を。
「──だが、私のオフィーリアは大胆だな」
「……」
 周一は歯を見せて笑う。やや大きな口から覗く殊更長い犬歯に、静司はドキリとする。洗練された中に残る粗野はまるで──隠された獣性の名残のようで何とも妖艶だ。
「気を引こうとした?」
「……」
 静司は真っ赤になってゆるゆると首を振る。
「でも私のことを考えていた──違うかい?」
 そこは言うまでもない──そうでなければ、こんなシチュエーションでこんな真似は決してすまい。
「まったく君は。無防備なのか確信犯なのか──天性の淫乱なのか、判別しかねる」
「だっ誰が」
「私に見とれてた」
 唇にやんわりと指を押し付けられて、静司は黙る。
「周一さ……」
「黙って」
 指を離した唇に、野卑に笑ったままの形の唇が荒々しく押し付けられる。是非を問う口付け──このまま愛し合う?それとも──。
「……ん、ぅ、んっ……」
 ちゅ、ちゅ、と濡れた音が唇の狭間に鳴る。
 薄目を開けて周一を見る。──どこが陰鬱で繊細だ。ミステリアスに見えるのは、役の仮面を被っているから──垣間見たストイックにして官能的な印象は、名取周一ではなくて、彼が演じる陰鬱な男の貌ではないか。

(そんなものをズリネタにして──)

 してやられた、と静司は笑う。これはまた周到な、ハムレットの罠にかかったオフィーリアが、淫乱の尻尾を出す照魔鏡。
 尼寺に行け、とは、体を売れという蔑みの句でもある。奇しくも無垢なるオフィーリアは、劇中でハムレットの狂気を試すという行為によって、知らずと悪徳の轍を踏む。少なくとも、彼女の無力な無垢を善とする前提ならば──だが。
 嫌な謀の応酬だ。
 周一は多分、最初から見られているのを知っていた。静司が尻尾を出すのを待っていた。選択権を相手に委ね、自分は自由自適に舞台稽古。黙ってハムレットの仮面を被って、愚かなオフィーリアはたやすく陥落。
 一方で、「a ham actor」を嘲った静司は、最初からその手中。ハムレットに目を奪われ、気を取られ、体が疼けば、もう即座に美しさと貞淑など泣き別れだ。

 しかし、オフィーリアとは、無知なだけでなく、無恥な女だ、と静司は思う。ハムレットを愛すると云いながら自らは何もせず、人に言われるまま相手を試し、ただ運命の流転に耐えられずに狂死した脆き女。
 尼寺へと罵られたなら、それをなじるか、或いはそれに相応しく真に淫らに徹すればよかったものを。貞節を気取った蒙昧で無力な馬鹿娘──。

 無力なものは嫌いだ。嵌められたなら、嵌め返せ。

 太ももに糸をひく無色の粘りを、周一の舌が絡め取る。
「ふっ……!」
「いやらしい子だ。いっぱい汚してるじゃないか」
「……キレイに舐めてよ」
 けれども静司にしてみれば、あの高慢な周一の態度を改めさせ、股の間に這いつくばらせたなら──仕掛けは上々。
 あとは魅惑の餌に食い付いて侵入してくる悪党を、絞め殺してしまうだけだ。

 その気になればどんな罪でも犯すだと?ああ、やってみるがいい、我が愛しいハムレット──射精する瞬間にさえ、そんなことを考えていられるというのなら。

 股間にむしゃぶりつく周一の濡れた髪を掻き回して、静司は一際高く悲鳴をあげた。
「……まだ出てる。どうしたの?すごい量……おもらししたみたいだ」
 静司の白い喉が、快楽の余韻に仰け反った。
「やだ──やめないで」
「……もっとしゃぶって欲しい?」
「うん──」
 もっと舐めて、もっとしゃぶって、うんと可愛がって。蕩ける淫芯、ここが理不尽に生々しく、隠しようもなく淫らなのは、きっとこうやって愛されるため。
 謀の収穫とはいえ、その果実──手にした刺激に静司は仰け反る。そのために生きていると感じる、恋人との交歓。愚昧なのは、いずれも同じか。
 乱れる呼吸の狭間に、犯して、と静司は口走る。
 途端に周一の眉がひそめられるのを見て──その体が暴虐を望む反面、恋う男に慈しまれ、愛される矛盾の恍惚に、静司の躯は震えた。


【了】


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