愚者たちの選択【第一話】
Dear karu様


 見慣れないコンクリートの天井を目にするたびに、静司は強い違和感をおぼえては狼狽える。
 天井画も無ければ、欄間も無い、木目さえ無い、きわめて簡潔にまとめられた部屋。慣れ親しんだ生活環境とは異なる、打ちっぱなしのコンクリートの奇妙な世界に、自分の存在は間違いなく異分子だ。
 午前二時。
 静司の場合、一夜の間に覚醒は何度もおとずれる。たとえ一旦眠りについても、それきり朝まで意識が無いなどということは滅多にない。彼が無意識に身に付けた警戒心は、眠りと覚醒との距離をきわめて近いものにした。その境界の壁が、息のひと吹きで壊れてしまうくらいに。
 巨大なベッドの真ん中で、静司はそっと身を起こすと、向こうのソファーベッドに半裸の男が寝転がっているのが見える──家主の名取周一だ。
 昨日の朝一番にやって来たハウスクリーニングと修理屋をチップでスマートに買収し、ほぼ一日にして部屋をあらかた修復させた周一は、静司にベッドを譲り、自分はソファーベッドで眠ることにした。
 理由は、自分が何処でも眠れるから、ということらしい。確かに周一は硬い床の上でも平気で寝ているし、最悪の場合、ブルーシートを敷いただけの地道でも眠ることができるだろう。ゆえにこれは合理的な分配であると彼は言う。
 が、しかし。
「……」
 白襦袢に帯だけを結んだ寝間着姿で、静司は眠る男をじっと見つめる。
 こちらの都合で唐突に押し掛けて、散々部屋を破壊した挙げ句、ベッドまで占領したうえに上げ膳据え膳の自分だ。第一既に的場との契約は終了しているにも拘わらず、自分はこうして他人の寝床に居座っているわけである。本来ならば部屋の現状回復の修繕費の領収書を持って、とっとと帰るのが筋なのだが。
 静司はシーツの中で両膝を立て、膝の上に傾けた頬を押し付ける。ほどいた長い黒髪が、さらりと肩から落ちた。
(……うそつき)
 少し潤んだ瞳は、まだ飽きもせずにひたすら周一を見つめ続ける。そこには思慕、鬱憤、後ろめたさ、様々な感慨が混在している。
 それらが織り成すのは非常に複雑な感情で、今となってはそれを単純に恋慕とは呼ぶことは出来ない。静司は時として彼を蔑み、嘲りながらも羨み、嫉視しながらも、常に彼が恋しくてならない。矛盾が生む葛藤──気分の浮き沈みの激しい静司にとっては、辻褄の合わないことなど数えればきりがないのだが、何故その矛盾だけは葛藤を生むのか、考えるほどに判らなくなる。今は些細な事柄が憤懣の矛先だ。
(……セクハラ紛いの事、言ってた癖に)
 妖の毒気にあてられたのが理由とはいえ、一昨日前にはこのベッドの上で、自分はこの男に抱かれて乱れ悶えていたのである。正気なら言えないような言葉を吐き散らして、とんでもなく卑猥な格好を晒して。この体は彼を受け入れる悦びに打ち震え、奥深くで彼の射精を受け止めた瞬間──もう死んでもいいとさえ思った。
 それでも。
(それでも、夜は明ける──か)
 ──明けなくてよかったのに。
 静司はふう、とため息をつく。
 結局あれきり、周一は静司に触れようとはしなかった。一週間コンドームが必要だ、などとくだらぬ下ネタは言う癖に、実際には潔癖なほど、指一本触れることもない。こうやって寝床さえきっちり分けようとするくらいだから、そこら辺の線引きはもう徹底しようという肚だろう。
 それ以前に、周一のことである。不運にも暴行を受けた自分に対して慮ってのことなのかもしれない。静司にしてみれば、妖の第一目的が自分の命ではなかったことが寧ろ有り難いくらいだが、確かに普通に考えても、レイプされたばかりの相手に、むやみな身体的干渉を推奨するということはあるまい。
 ──にも拘わらず周一が、的場からの依頼完了後も、依頼元に一切報告を入れていないことを静司は知っている。どういうつもりか本気で丸々一週間のあいだ、自分をこのマンションに滞在させておくつもりなのだ。
「周一さん」
 唄うように名前を呼ぶも、がらんとした部屋に聞こえるのは、穏やかな寝息だけ。
「一人じゃ広すぎますよ、このベッド」
 呟いて、微笑む。答えは勿論無い。
 まったくこの男、消極的なのか、積極的なのか──有事には有無も言わさずあんな真似をやってのける癖に、平時となるやこの体たらくだ。大言壮語の嘘つき野郎。あんなこと言って、コンドームだって買わなかった──いや、別に買ってほしかったわけじゃないけど。
 静司は膝に小さな顎をのせて、しばらく周一の寝顔を見つめ続けていた。見つめても見つめても、彼が目覚める気配は無かった。
 痺れを切らして静司はそっとベッドを抜け出した。裸足のままフローリングに立つと、ひんやりとした硬質な冷たさが伝わる。そして、一歩、二歩と、爪先から足を下ろし、獲物に接近する猫のようにゆっくりとソファーベッドへと近付いていく。
 周一の頭側に腰掛けると、思いの外柔らかい素材のソファがたわんで、静司の小さな尻が軽く沈んだ。あ、という間抜けた声が、意図せず唇からこぼれて夜の部屋に舞った。
「……ん」
 さすがに身じろぎした周一が延ばした手が、静司の脚に触れる。異物感に僅かに薄目を開けた周一の瞳が、その視界に静司を認める。
 ──視線が合うと、時間が止まる。いや、時間感覚に違和が生じるのだ。それは確かな実感であり、ロマンティックな比喩ではない。時間感覚──カイノスの罠。
「………牡丹」
「え?」
 思わぬ言葉に問い返すと、周一はまだ眠そうな表情のまま、ぼんやりと微笑んだ。
「……麗人が着座する姿の喩えですよ。目覚めには──少々刺激的過ぎますね」
「まだ夜中ですよ。もっとお眠りなさい」
 延ばされた手を取り、静司は穏やかに諭した。
「……でも、君は眠れない」
「おれはいつもこうです」
「……不眠症?」
「そう」
 今度は静司が苦笑する。しかし思い返せば、これまでに周一と同衾するのに、不眠の影がよぎったことは不思議と一度も無かった。それは勿論肉体的な疲労や情事の後の脱力が後押ししたこともあるが──人肌に触れていることのもたらす安堵感は無視できない材料であったに違いない。
 現に、今もそうだ。
 仰臥する周一が延ばした手は、いつの間にか静司の手に重なっている。まるで──恋人同士のスキンシップのように。触れられれば胸は高鳴るのに、いつもは空に舞うばかりの風船が誰かの手に繋ぎ止められているみたいに、不安定な心が穏やかに凪いでいく。
「ねえ静司」
「はい?」
「……こうやって触れられるのは嫌ですか?」
「いいえ」
「そうか、良かった」
 周一は微笑する。それにつられて、静司の口元もほころぶ。周一もそれを懸念したのだろうが、想定される類の嫌悪は微塵も無い。目先の姿形に惑わされて、あれほどの愚行を犯したにもかかわらず──懲りない奴だと内心自嘲する。もしも彼が偽物だったら、今度こそとどめを刺されるのだろうに。
 それくらい、自分はどうしようもなくこの男に惹かれ溺れて、素知らぬ振りをしながら、己も知らぬ間にこんなにも愚かになって。そしてそれは多分、あの石月渓谷の会合で初めて出逢ったあの日、総ての偽りを暴き立て、邪であれば太陽でも焼き付くそうとするかのような瞳に、この冷めた魂が魅入られた瞬間から連綿と続いている──。
 静司は天井を仰ぐ。独りならきっと息苦しい、コンクリートの箱の中。
 穏やかな時間に、もつれあう指先が暖かい。石の体が、周一の触れた部分から人間のそれに変わっていくかのようだ。ああ、でも、それでも、どうせ。
「…………どうせ、今だけの平穏です」
 諦感を露に、ため息混じり。
 挑むように、周一は答える。
「だから今を大事にするんです」
 静司は鼻で笑った。
「……説教臭いな。有り体な文句もここまできたら骨董品ですよ。あとは?人という字は……とかですか?」
 笑みを含んだ口調で周一が答える。
「しかし真理ではないですか。『生まれてきた以上、死なねばならぬこと以外に確かなことは何もない』──単純にして貴重な真理だ。そして、我々の意識は今ここにしか存在しない。過去にも未来にもありはしないんです。静司、判っていますか?君が今、この瞬間、どこに誰と居るのかを──」
 いつの間にか身体を起こした周一が、静司の瞳を真正面から見据える。反射的に目を逸らそうとするも、ワンテンポのタイミングのズレがその機会を逸した。
「……」
 端整な美貌だ。一見穏やかで優しげな美男子。けれどもわずかな表情で印象がガラリと変わる──軽薄な女どもがキャッキャと騒ぐのも判る。
 ──なのに今は、男の貌をしている。彼女らは俳優名取周一の、この貌を知っているのだろうか。或いはこれは、自分だけの特権なのだろうか。
「……」
 言葉はなく、どちらからともなく唇があわさる。唇──粘膜が体表に露出した淫靡なパーツ。意中の相手を誘惑するために存在するもの。口づけのための免罪符。
 周一の腕が静司の肩を引き寄せる。腕におさめるように抱かれながら、軽いキスを何度も繰り返す。最初はゆっくりと──でも、すぐにそんな余裕は無くなってしまう。吸いあう唇の奥で、舌の先端を互いに愛撫する。
 渇きを剥き出しに下唇にむしゃぶりつかれ、吸われると、静司も負けじと応酬する。とろけた舌を差し入れ、絡ませあって、まるでセックスをしているみたいに、何度も挿入を繰り返す。差し入れられる舌を、静司は唇で締め付ける。そこに何度も割り入っては口の中を犯して──こんな淫らな口づけは初めてだ。初めてなのに、教わらずとも、応えてしまう。
 身体が消えて、鋭敏になった舌と唇の感覚だけが残ったかのようだ。全身が丸ごと唇になってしまったような錯覚。
 背中を強く抱かれると、互いの体が密着する。これ以上は不可能だというくらい、静司も周一の身体を掻き抱いて引き寄せる。
 ──浮き名を流すことも仕事のひとつで、実際に数多の女性と関係を持っているだろう周一にとっては、こんなものはただのスキンシップの一環に過ぎないのかもしれない。わかっていてやっているのかもしれない。芸能界というやくざな業界に身を置く彼のこと、自分以外の男性と関係していたところで別段不思議ではない。
 だけど、静司にとっては違う。──そんなのは嫌だ。
 世間の基準で言えば、二十歳もとうに過ぎた一人前の男が何を青臭い、と詰られるかもしれない。だがそれは、彼がほかの誰かと寝ることが、ではない。寝たいなら寝ればいい。必要ならいくらでも。
 ただ、周一から今、自分に向けられている感情が、一つの単なる汎用例であるとは考えたくない──それだけだ。誰の代わりでもない唯一でありたい。自分にとって周一がそうであるように。
 まるで同じ感情の実存と共有を求めるなど、それこそ幼稚な望みだ。桃の木に林檎がなることを望むように。互いが独立した固有の人格である限り、そんなことは不可能なのだ。それを望むなら己を愛するしか無い。それを真に望む愚か者は、他人を愛してはならない──。
「静司?」
 唇を離して、周一が自分の顔を覗き込んでくる。瞳の奥が突っ張って、気を抜けば感情の塊が零れ落ちてしまいそうだ。望みは何かと問われても、はっきりと答えられない感情の渦。言葉にすれば嘘になる何か。女々しいと云うならば言うがいい──。
「静司──ごめん」
 弁解するよりも早く、周一の表情が曇る。静司は奥歯を噛み締める。違う、と胸の内で叫ぶも声にはならない。それはどこにも届かない。
 言葉は虚ろでも、言葉でなければ伝わらない──人間はそうする以外に気持ちを伝えるすべを持たない。けれども、自分たちの間に横たわる壁、しがらみと不文律が、身に染み着いた自尊が、未知を畏れる恐懦が──互いの身体に触れる以上の繋がりを許さない。心を寄せ合えば、真に人との繋がりを求めてしまえば、異形であるがゆえに絶対的であった魂の無欠性は失われてしまうだろう。妖を凌駕する力とは、妖以上の異形へと自らを変ずることによって生み出される。それは孤高であらねばならない。孤独であらねばならない。
 けれどもその原則とて、実際にはとうに崩れ落ちている。己の目を欺くことはできないからだ。けれども、言葉にしなければ、伝わらなければ、触れなければ、見なければ──いずれは意識の中から消し去ることができる。皮肉にも人間の卑俗な狡さを利用して、非人間的な高潔さを保ち続ける矛盾。

『それは君の力、技巧、知謀、命さえ、総てを秤にかけても足りないほどだ。だから、君は私を受け入れる以外に選択肢は無い。偽物だとわかっていても』

 的場別邸を襲った妖は、静司がいかにしても周一の姿を拒絶できないという滑稽な事態をこう評した。大した慧眼だ──心を読み取れば容易く知り得ることでありながら、人間のものでしかあり得ない脆弱さの所在を見抜くのというのは、人外である存在にとって果たしてどういうことなのか──それは永劫の不可知だが、確かに言葉はごまかしようのない真実だった。
 周一自らの手でやんわりとその胸から引き離され、静司はその顔を見つめ返す。彼の表情にありありと浮かんだ悔恨と自責に、静司は歯をくいしばる。
 ──いつでもこうだ。
 大事なことは何も言えずに、横たわる壁を越えられずに、最後には互いに諦めて背を向けて。
 周一は、諭すように言った。
「……まだ早いですよ。眠れなくても、せめて横になって」
「……」
 無言のまま、静司は頷く。離された身体は、ゆっくりと立ち上がる。ほんの少しだけ離れたベッドまでの距離が、急に果てしないように感じる。
「……おやすみなさい、周一さん」
「ああ、おやすみ」
 少しだけ翳りのある微笑みと共にひらひらと振る指先に、かすかに自分の指先を触れ合わせる。
 微笑もうとしても、顔が強張ってしまう。些細なずれと些細な煩悶に、この不様な顛末。
「……」
 ──その手を取るのは、いつだろう。いつかは本当に来るのだろうか。たとえその日が来たとして、それは夜明けだろうか、落日だろうか。何も失わず、それを得ることはできるのだろうか。
 ベッドにもぐり、シーツを被って目を閉じる。キスの名残を指先で辿ると、脳裏にこびりついていた言葉の残骸はバラバラになって砕けていった。
 こうやって自分たちは、理解の機会を逃していくのだ。誤解も嘘も真実も、その内訳も区別もなされないまま、互いの中で怪物になっていく。彼の中の的場静司とは果たしてどんな化物だろうか。そして、自分の中の名取周一も。
 知ることから逃げてきた──そしてこれからも逃げ続ける自分たちの、闇に浮かぶ舟は、これから何処へ向かうのだろうか。

 ──もう少し、キスしていたかった。一番の願いはただ、それだけだったのに。
 それさえも、叶わずに。


【続】


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