もし私がふたたび恋に落ちたら


 最寄り駅の最終列車は午後十時五十分。首都圏の公共交通機関と比べると、信じられないようなダイヤである。
 それは、ある春の夜。
 駅へ向かう最中、すっかり様変わりした葉桜と、満開の八重桜を見た。片手にボストンバックを下げて、静司は走って最終列車を待つ駅の構内へと向かう。
 間もなく午後十時五十分。家人を撒くのに少々難儀して時間が詰めた。最後には置き手紙を残して窓から飛び降りたものだから、足を痛めてひどく歩きにくい。
 切符を買って、無人の改札を通り抜ける。いまだに改札機が設置されていない上に、午後十時半以降は駅員もいなくなるため、午後十時半以降にこの駅で下車する人々は、馬鹿正直に切符を買ったりはしない。不正の横行は、毎夜そこいらに点々と落ちている一区間分の切符が物語っているが、当の駅や鉄道線自体がこれを是正しようとしないのだからどうしようもない。
 静司は改札を抜けて、人気の無い構内に躍り出る。閑散とした、寂れた私鉄線は時代を逆行したような様子だ。電光掲示板だけが真新しく、最終列車が前駅で停車している旨を表示している。
(間に合った)
 車線を挟んだ向こう側のホームには、人ひとりの姿も無い。こちら側には静司と、古ぼけたベンチに目深帽をかぶった男の姿。静司はそれが誰であるかを知っている。
 構内に電車到着の注意を促すアナウンスが流れると、背後に腰掛けたその男がやにわに立ち上がり、ゆっくりと背後から静司に近付いてくる。
 ──そして、静司は勢いよく振り返った。その目線が交錯した瞬間、静司は躊躇い無く男に抱きついた。
「………来ないかと思った」
 男は言った。
「約束したじゃないですか」
 静司は答えた。男は答える代わりに、静司の身体を強く抱き締めた。男は──男と言い切るには些か未成熟な、端正な顔立ちの少年だった。
 名取周一であった。







 最終列車で、最後の駅まで。
 あまり距離の無い私鉄線で、それほど時間はかからない。最終ダイヤの時刻が早いため、そこから公営鉄道に乗り換えて、そこからまた最後の駅まで。到着には日を跨ぐ必要がある。
 乗客のいない列車の中で、二人は並びあって座った。古い車体は揺れが激しい。周一よりも幾分小柄な静司は、その肩にもたれかかるような格好になる。
「疲れた?静司」
 顔を覗き込むようにして、周一が訊ねる。
「いえ、何だか落ち着かなくて」
「大丈夫か?気分悪い?」
 両手で頬を挟んで、周一は静司の小さな顔を優しく傾ける。
 まるで恋人のような大胆な行動に──静司の頬は紅潮した。
「ち、違います。その、ええと……」
 リアリティに欠ける状況がそうさせるだけなのだ。それを伝えたくても──言葉がもう出てこない。元々色白な静司は、実は生理反応がすぐ顔色に出てしまうタイプだ。動揺を抑えるための情緒訓練は覿面に静司の人格に影響をもたらしていたが、今回ばかりは事情が異なる。
「もしかして、ドキドキしてる?」
「してますよ。当たり前でしょう」
「ドキドキしてるだけ?」
「そうですよ。別にどこも悪くありません」
 それを聞いて、周一はニヤリと笑った。
「そうか。良かった」
 そう言って、周一は静司の唇に自分の唇を押し付けた。
 慣れない、稚拙なキスだった。
 最初は互いの唇に触れ合って、やがて少しだけ角度が変わる。そうしたら、閉じていた入り口が少しだけ開いて──そこにゆっくりと周一の舌先が潜り込んでくる。列車の揺れが時間をカウントしているみたいだった。
 やんわりと歯列を割って、舌が入り込んでくる。静司がおずおずとそれに応える。初めてのキス。そっと濡れた舌をからめると、軽く吸い上げられて静司は小さく呻いた。下腹部が、ズクン、と疼いた。
 互いの柔らかい舌を味わって、静司も徐々に大胆になる。周一が下唇を啄むと、静司も応酬する。恋人同士でなければあり得ないようなキス。キス。キスの応酬。
 二駅ばかり進んだところで、二人連れの老夫婦が乗り込んでくるまでそれは続いた。
「……残念だな」
 ぼそりと周一が呟く。
「周一さん、ミカン食べたでしょう」
「お前こそ、カレー食ったろ」
「!!!」
 静司の鼻息がへんな音を鳴らして噴射される。老夫婦がこちらを見て、静司はあわてて咳をして誤魔化した。
「……カ、カ、カレーパン買って、食べたんです。さっき、コンビニで」
「何恥ずかしがってんだよ……ごめん、言っちゃまずかった?」
「い、いえ」
 的場の次期頭主の最右翼たる静司である。常に堂々たる態度であるよう教育されてきた彼としては、家でみみちくレトルトカレーを食っている姿を想像されることなど恥辱に等しい。コンビニのカレーパンもそう大して変わらないが、何となく国民食であるカレーの気配は静司の心の琴線に触れるのだ。それは静司が密かに学食のカレーやレトルトカレーを好んでいることと決して無関係ではない。
 やっとで呼吸を整えて、静司はいつもの澄ました表情に戻る。
「……」
 ──そうだ。もう自分は的場の次期頭主などではない。レトルトカレーを食おうが、カレーパンにがっつこうが、まんじゅう食おうがメンチカツをかじりながら歩こうが、気にするようなことはないのだ。駅のホームで周一と再会し、抱き合ったあの瞬間から、自分はもう的場家の人間ではなくなったのだから。

『四月十五日、上り最終列車』

 ある日、静司のもとに飛ばされてきた紙の式に書かれていたメッセージの意味は、すぐに判った。

『一緒に逃げよう』

 式の主は、そう言ったのだ。

 ──追手はすぐにかかるだろう。こんな時ばかりは警察も抱き込んで大掛かりな捜索が行われることは目に見えている。頭主は怒り狂うに違いなく、捕まって下手をすれば、一生座敷牢なんてこともあり得ない話ではない。いや、それで済めば可愛いものだ。
 先のことを思うと、暗澹たる気持ちになる。もしも捕まって、連れ戻されたら──少なくとも自分は殺されはしないだろうが、周一はどうなるのだろう。一門には名取家の復権を面白く思わない連中も多く、的場の総帥の脇をかためる連中など大半がそうだ。次期頭主を誘拐したなどと因縁をつけられて、人知れず闇に葬られる──などということも正直やりかねない。
「静司」
 額を小突かれて、ハッと我に還る。相変わらずの列車の揺れに、思わずほっとした。
「また余計なこと考えてるだろ」
「だって、周一さん──」
 ──おれは、おれたちは、この先、どうやって。
「大丈夫だって」
 老夫婦が向かいで見ているのも構わず、周一は静司の頭を片腕で抱き寄せる。鼓動が跳ねる一方、端からはどんなふうに見えるのだろうかとふと思う。仲のいい兄弟……にしては親密すぎやしないか。大体、まったく似ていないし。
「ちゃんと守るよ。安心して」
 そして、こめかみにキス。
「……周一さん」
「何」
 すぐ横の周一の顔を手のひらでぐいと押し退ける。
 ……人前で、今のはさすがにまずいだろう。
「俳優にでもなったら?お似合いですよ」
「あれ、今のキュンとこなかった?」
「ほら、やっぱり演技」
「演技じゃないよ。静司。好きだよ」
「……」
 さらりと──とんでもない台詞。静司は血の気がひくのを感じた。
 嫌なのではない。むしろその反対だ。それに、そんなこと、とうに知っている。知らなければこんなところに座っていやしない。けれども、それを言葉にすると、同時に不安も浮き彫りになる。世界は確実に自分たちを置き去りにしている。それを追うことなく、互いの存在以外を見ようとしない、愚かな慕情。そのしっぺ返しが怖いのだ。禍福はあざなわれた縄の如しなどとは、嘘も甚だしい。運命とはまさに梃子の原理で出来ているのに。
「お前が、好きだよ」
 もう一度繰り返す、愚か者の告白。
 静司は、その瞳を見た。
 何故か涙が出そうになって、寸でのところで──それを堪えた。







 終点の駅からは、公営交通に乗り換えなければならない。足を痛めた静司を支え、周一はすべての荷物──ボストンバック二つ分の大荷物を抱えて構内を疾走する。二人は走ってJRの終電ギリギリに滑り込んだ。
「間に合った!!」
 ぷしゅう、と開閉音が鳴って、電車のドアが閉じる。二人はしばらく息をきらして喘ぎ、顔をあわせて笑い転げた。数少ない乗客が、怪訝な顔をして二人を見遣った。
 JR線はさらに時間をかけて長距離を走る。終点は兵庫県西明石だ。地元を離れれば離れるほど、静司の胸のつかえは軽くなった。本当に自由になったような錯覚──錯覚であると分かっていても、感じずにはいられない自由。
「周一さん、明石焼き食べたことあります?」
 唐突に思い立って、静司は言った。
「……西明石だからか。お前、馬鹿だな、今時明石焼きなんか冷凍でどこにでも売ってるだろうに……」
 心底憐れまれたが、静司は引かなかった。
「朝ごはんは明石焼きにしましょうか。この世のものとは思えぬ美味という噂です。何せ本場ですからね」
「いや、多分どこで食っても変わらんと思うぞ……」
 ──まあ、別にそれでもいいけどな。
 そう言って、縦並びのシートに並んで座る。手を握りあって、どこからどう見ても完全なホモカップルである。
「西明石に着いたらな」
「はい。明石焼きですね」
「違う。そこで一泊して──新幹線に乗るぞ。山陽新幹線だ」
「どこまでいくんですか?」
 静司は嬉しそうに笑う。
「新大阪、京都を通りすぎて、東海道新幹線に乗り継ぐ。東京まで行くかどうかは途中で決めよう──おれたちが思う場所へ行こう」
 ──思う場所へ行こう。
 頭の中でその言葉を反芻する。自分たちの思う場所へ。自分たちの決めた場所へ。そんなことが、本当にできるのだろうか。本当にに──許されるのだろうか。不安はまだ消えない。影のように、ぴったりと心に寄り添って。
「周一さん」
「うん?」
「キスしてください」
 静司の要求は何無く叶えられる。優しく、もはや愛情を隠さない口づけ。丁重に、大切に唇を愛撫して、そして、深く口づける。
「……運命の女神フォルトゥーナは、盲目なのです」
 唇が離れるや、静司は囁くように言った。
「カルミナ・ブラーナ?」
「言うと思った」
 静司はふふ、と笑った。
「人の運命の司るのに、彼女自身が盲目なものだから、人の運命はこんなにも不条理なんです。良いことをすれば報われる、悪いことをすれば報いがある──そんなのは妄想でしょう」
「そうかもな」
「周一さん、前におれに言ったでしょう。的場だっていつまでもトップではいられないかもって。……本当は、その通りなんですよ。今はどうであっても、明日は分からない。次の一瞬だって保証はない」
「そうだな」
「だから、おれたちも」
「だからお前は、うまく生きろと言ったんだろう」
 ぴしゃりと静司の悲観を遮る。静司は我に返ったように周一の顔を見た。
「いいか。だから人間には経験則ってものがあるんだ。それは完璧じゃない。それでも運命の女神とやらの罠にはまっちまうことはあるんだろうさ。でも少なくとも人間は一回かかった罠に、二回目はそう簡単にはかからない。わかるか?もし今回俺たちが失敗したら」
「──はい」
「またやり直すんだよ。一からな。何年かかっても、どんなことになっても、おれは」
 周一は静司を抱きすくめた。こんなに愛おしいものはない──両腕はそう語った。逃がさないようにしっかりと、けれども静司を苦しませないように。
「おれは、何度でも、お前を」
「周一さん、駄目だ」
「静司」
「駄目です、それ以上は」
 押し返そうとする手は力無く、抗議する声がかすれた。
 もし立場が逆ならば、きっと同じ気持ちを抱くのだろうと静司は思う。けれども、彼はまだ知らない。的場のやり方を彼は知らないのだ。老獪で執拗で悪辣で、反対者が意気盛んであればあるほど、その気概を芯から削ぎ落として二度と再起できぬように図るようなえげつない連中。運命の女神が中心に乗る天秤は、今でこそ自分たちのほうに傾いているように見えても、盲目の彼女がふいにバランスを崩したなら、それだけで──。
「……静司、少し眠れよ」
「……」
「随分ナーバスになってる。大丈夫、明日には」
 ──明日には、自由になれるさ。
 周一は、笑って言った。それでも、どこか寂しそうな笑顔だと静司は思った。彼も心のどこかでは、この逃避行が、所詮は茶番に過ぎないことを理解しているのかもしれない。

 そして確かに、17才と18才の一夜の旅は、間もなく終わりを迎えようとしていた。









 JR西明石駅の改札を出たところに、二人の老夫婦が立っていた。真っ先にその違和感に気付いたのは周一だった。
「静司、隠れろ」
「え?」
「おれの後ろに──」
 指示を出すまでもなく、老夫婦は静司と周一の存在に気付いた。そして、静司もまた、後れ馳せながらその状況を悟った。
 身を隠すには余りにも人が少なすぎた。向こうもそれを熟知していて、こちらの警戒心を解く時間の余裕を与えたのだろう。捕らえるのはいつでも出来る。それならば最も捕らえやすい状況でそれを遂行するべきだ、と。
 最初の私鉄線で乗り込んできた老夫婦。あれが、的場の追手だったとは。ならば自分たちは、最初から捕われていたも同然だったのか。
「静司殿」
 老女のほうがよたよたと進み出た。動きは間違いなく老齢に相応しいそれだが、外見に反する猛烈な威圧感。反射的に周一が静司の前に立ちはだかる。だが──そんなものは何にもならない。
「……」
「お戻りくださいますね」
 背筋が冷たくなる、有無も言わせぬ口調。
「………名取のことは」
「今ならば不問に処すとの頭主の御判断です」
 ──今ならば。その言葉を噛み砕くように胸の内で繰り返す。胸糞悪い言葉だ。だが、今は楯突く気概さえない。
「……」
 静司は、周一の後ろから歩み出る。顔面が蒼白になっているのは自分でもわかった。全身の血流が停滞して、体の底に溜まったかのようだった。
「さあ」
 促されると、静司はまるで罪人のように、両手を組んで前に差し出した。老女はその両手首にしゅるりと呪印の施された拘束具を巻き付けると、唐突にその端から連なる頑健な鉄輪と鎖を思い切り引いた。
「あッ!?」
 手首の拘束具に引っ張られ、静司の身体は地面に這わされ引き摺られるような格好になった。反射的に周一が躍り出ると、今度は傍らの老人が杖一本で周一をいなした。闘犬を馴らすように顎の下に杖を水平に穿たれて、一瞬身動きが取れなくなる。
「貴様ッ!!」
「落ち着け、小僧」
 吼える周一に、老人が言った。まるで経でも唱えるような平坦な語調だった。
「──頭主の御判断はきわめて寛大なものだ。次期頭主である静司殿を拐かした貴様を不問に処すというのだからな。だが我々の任務は静司殿を無事に邸へと連れ帰ること」
「その次期頭主への扱いがこれか!?その鎖を外せ!!静司はもうどこにも逃げやしない!最初から──」
「最初から、何だ」
「──最初からこいつは、上手くいかないことなんか、わかってた!」
 静司は弾かれるように、周一を見た。圧し殺した怒りが横鎰する、凄まじい憤怒の形相が、二人の追手を鏃のように射竦めていた。
「──その願いは聞き入れ兼ねるな。確かに静司殿は次期頭主と目される御方。しかし頭主はご存命であらせられる。我々は的場家頭主にお仕えする者。未だ静司殿にお仕えする身分ではない」
「御託はいい……そいつを離せ!」
 握り込む拳に血が滲んでいる。二人の追手にも、その恐ろしいまでの激情に対峙して、僅かな焦りを見せはじめていた。
「──いいか、よく聞け。静司を離せば、おれはもう何もしない。お前らがどんな妖を従えてるかは知らないが」
 周一は、目の前の小柄な老人の胸に掴みかかった。怒りの色が瞳に、血管に、声に、呼気に、彼を形作るあらゆる部分に浮かび上がる。その形相たるや、もはや明らかに理性を欠いた暴虐の化身そのものだ。言葉、身振り、その全てに、圧倒するような殺気が宿る。
「必要もないのに、命を天秤にかけるのか。貴様ら的場一門ってのは」
「……」
 容赦無い締め付けに足をばたつかせた老人をモノのように放り出し、周一は硬直した老女に向き直った。
「………で、どうするんだ。ばあさん」
 ヤモリの痣が、周一の顔面を横切った。










 それきりだった。
 結局、解放された静司は空路で帰されることとなった。それきり、周一と逢うことは許されなかった。
 その後、静司は的場邸へと連れ戻された。聞くところでは周一はどうやら本当に「無罪放免」で済みそうだったが、追手に対する暴力行為や恐喝に関しては、あとでネチネチと言われそうな雰囲気だった。

 ──ただ、静司の考えはこれを機に、少し変わっていった。それは、自分は的場の後継者としての運命を受け入れるべきではないかということであった。
 一枚岩でない一門の面々を統括し、馬鹿げた因習には鉄槌を。それが出来るのが自分なのではないか──そう考え始めたのだった。的場が危険視される理由はわかる。功利主義を隠さないからだ。誰もが隠していることを、隠そうとしないのが危険なのだ。けれども、その危険な功利主義は、必ずしも誤っているとは限らない。

『わかるか?もし今回俺たちが失敗したら』
『──はい』
『またやり直すんだよ。一からな。何年かかっても、どんなことになっても、おれは』

 ──おれは、何度でも、お前を。

「………」
 縁側に座って、静司は物も言わずひたすらに庭の池を見つめている。
 あれ以来、静司は一言も話さなかった。お目付け役の七瀬も匙を投げたくらいだから、その頑なさは尋常ではない。
 その胸の内には、あの睦み合った言葉の数々と共に、周一の秘された激情と憤怒が混在して渦を成していた。そこには破滅の匂いがした。思慕ゆえに──愛ゆえに破滅する、触れてはならない危険な存在。
(おれと居ちゃ、いけないんだな。周一さんは)
 静司の心が揺れれば振る舞いが揺れて、的場という大きな組織も揺れ動く。その静司の揺れを、周一はきっと受け入れてくれるだろう。だから、静司を連れて逃げようなどと、危険な賭けにも出ようとする。
 でも、それでは駄目だ。どちらかを棄てなければ──このちっぽけな思慕を忘れなければ、頭主としての重荷は背負えない。揺らされてはならないのだ。
 そして、もしまたそんな状況で周一の手を取ってしまえば、彼は容易くあの優しく獰猛な獣に変貌するだろう。それだけはあってはならない。彼を、自分のために死なせたくないのであれば。

『──おれは、何度でも、お前を』

「……」
 たった一夜にも満たない逃避行を経て、得たのはただ孤独ばかり。静司が長いため息をつくと、大きな錦鯉が池から頭を出した。普段は池の底に沈んでばかりの彼らが水面に波を立てるのは珍しいことだった。
「……………でも、運命の女神フォルトゥーナは、盲目なのですよ」
 ──静司は、数日ぶりに言葉を発した。それは列車の中で周一に語った、そのままの言葉だった。
 この先も続く時間の中で、もし再び変革がおきたら。盲目の運命の女神が、ほんの少しの間違いを犯したら。

 またしても何処かであなたとまみえ──もし私がふたたび恋に落ちたら。

 一夜にも満たない永遠。その時に芽生えた許されざる望み。そんなことを望んではいけないと、判ってはいるけれど。
 静司はもはやそこへ戻ることはできない。自らの意思をもって、彼はこの陰鬱な、欲望と権謀の渦巻く陰の混沌へと舞い戻ってきたのだから。
 そこは記憶の水底に封じられた、永劫に辿り着けぬ儚き夢路。

 ああ、盲目の女神よ。
 いつの日か。


【了】


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