生きていると、色々ある。
 いや本当に、色々ある。
 今年も色々あった。
 嫌というほどあった。


 近年年末になると、なんやかんやで浮き足立つ世の中とは逆に、その疲れがドッと現実の重量のように背中に覆いかぶさってくることが多くなった。最後の掛け取りに走り回るとばかりに忙しなくなっていく世相とは裏腹に、抱えているものの重さにぐったりする。そしてそれは、単に社会的責任や立場上における意味合いに関することを必ずしも意味しない。


 誰も聞いて来ないし、言っても解決が見込めないので誰にも言わなかったが、実は的場静司には予知──より正確に言うと、『未来予知』の能力がある。
 とは言っても、「〇月△日何処そこで何々が起きる」、などといった、明確に書類上に印字されたような、確固とした情報としての『予知』が成立するのではなく、それは常に単なる「夢」として現れるのだ。
 静司はよく夢を見る。
 見る、というか、多くの場合、夢を記憶したまま覚醒する。そして、その殆どが明晰夢だ。
 静司自身の認識では、夢というものの本質は、脳内における情報の氾濫が見せるデータの欠片を、人間の認知機能がわざわざ統語論的な文脈に翻訳することによって物語化するもの──すなわち現実世界から取り込んだデータを脳が編集した、ある種の幻想である。
 厄介なのは、このデータの産物の中に、『予知』がひっそりと紛れ込んでいることである。
 そしてさらに厄介なのは、少なくとも現在にいたるまで、その『予知』が外れたことがない点にもある。よもやこんなことを口外したら、スピリチュアル系インフルエンサーもドン引きというレベルの話ではあるが、身の回りの知り合いや、テレビで見るような著名人が亡くなることを、静司は時折予め夢で知ることがある。勿論中には偶然もあるかもしれない。しかし、身近なことだけでなく、天災、戦争、かと思えば突然夕飯のメニューまで夢に現れるのだからたまったものではない。
 更にさらに厄介なのは、タイムラグ、時系列がバラバラだというところである。たとえば、夢を見た次の日にそれが起きるということもあれば、数ヶ月後に起きるということもある。しかし、それを口に出すことは出来ない。何故か。
 ──『予知』が夢に「混じって」いるからである。
 当然のことながら、「静司の見た夢すべて」が予知であるわけではない。夢と同じことが起こって初めて『予知』だと分かるのだから、「あ、これは夢で見た」となるのが通常の運びである。しかし、それらしい夢を恣意的に『予知』と捉え、予言の自己成就を完成させている可能性がゼロとはいえないにせよ、果して某大国の引き起こした侵略戦争の顛末や、中東の火薬庫に起きた過去の悲劇の皮肉な再現に関して、予言の自己成就という解釈、認知のパラドックスがどう介入できるというのだろうか?
 そして、この能力は、実のところ、静司が二十歳になる少し前に顕現したものである。
 えてして絵物語などでは、不思議な能力はしばしばピュアな存在──つまり子どもに顕れるのが常である。実際、同業者らを見ても、生まれつき──或いは幼児期にことさら強く顕現する異能も、基本的に年を重ねるごとに緩やかにマイルドになっていき、人によればやがて消えて無くなっていくこともある。
 それがどうだ。一般的には悶々たる欲望に満ちているであろう二十を過ぎてから、静司はこの時折起きる奇妙な能力に密かに悩まされることとなった。それも、年々夢は明晰に、より正確になる。そのことを静司自身に気づかせたきっかけが、ある日の夕食のメニューだったのである。
 蒸し返すが、しかしそれは時系列ではない。
 例えば月初め、たとえば1日に見た夢が15日後の予知になっていることもあれば、3日に見た夢が7日後の予知になっていることもある。極端な場合、起きて数分後に起きる出来事を夢に見ることもある。
 そこで、ある時静司は、夢日記をつけることにした。
 その日見た夢を覚えている限り詳しく記録し、それが現実に起こったら、起こった日の日付けと時間を記録し、上から自作のゴム判である肉球マークのスタンプをしめやかに捺す。
 中には筆記することを放棄したくなるような内容の夢もあったが、今読み返してみると、そこにもきっちりと肉球マークのスタンプが捺してある。内容は、春先の遠雷が聴こえる名取周一のマンションのベッドの上で互いに全裸になって、彼に髪をひと房すくわれて口づけられるというものだった。恐ろしいことにその夢を見て記録を付けたのは、周一とそういう仲になる前のことだ。
 ──ただ、唯一にして幸いなことといえば、単に見逃しているだけである可能性はあれど、『予知』の頻度がさほどでも無いというところだろうか──毎日のようにだとか、週刻みだとか、そういうわけではない。無い時は一ヶ月くらいは無い。とはいえ、未だスタンプの押されていない夢日記に、いずれ肉球マークがつく可能性は永遠にゼロではないのである。
 この現象のヤバさを分かっていただけるだろうか。その日見た絶対にありえなさげな夢が、数年後に現実になることもあれば、明日にでも起こりそうな夢が、全き夜の夢であったりするのである。そして自分にはその区別がつかない。これは、非常に厄介な問題だ。
 つまるところ、静司は予言者であるところのカサンドラなのである。
 確かに『予知』は行われているのだが、実際にはそれに対して自分ではどうすることもできない。果してどの夢が『予知』に相当するのかが分からないため、その正当性を他人に納得させることができないからだ。結局は独りで黙って抱え込んでしまう以外に方法がない。それが自分に関することならば、夢で見た事柄をヒントに身辺に気をつけることで『予知』を回避できている可能性はある。だが、それは途方もない話であったし、たとえ回避に成功したとしてもブザーが鳴るわけでもなし、検証ができないのだから喜ぶことも出来ないし悲しむこともできない。
 誰かに相談をする、という選択肢は無かった。
 『予知』──未来視とは、かなりセンシティブな能力である。様々な能力者が集まる呪術師の会合中であっても、時折モノを通して過去を視る者の例はあれど、これほどに正確に未来を見る者には出会ったことが無い。もしこのことが知られれば、界隈での静司への目線がまたしても変わるだろう。的場家頭首に就いた時以来の、敬意と恐怖が混じり合ったまなざしは何倍にも増し──急に後者が重くなる。ひとは過去は誰にも知られたくないが、未来は知りたくて仕方ないのである。
 とはいえ、静司が予言者カサンドラと同じ立場である以上、能力をアクティブに行使することはできないのは事実──ではありながら、その精度の高さは到底無視することはできない。これが自分の身に起こったことでなければ、静司は200%積極的に干渉し、その力の恩恵にあやかろうとするだろうことにも、業の深さを感じる。とはいえ、人間の違いとは人格の違いなどではなく、その殆どが所詮立場の違いだ。
 異能を得る身としては、つくづくそう思う。






 大晦日の昼間、厨房でおせち料理をつまみ食いしたあとうたた寝していると、静司は夢を見た。

 とても不思議で、啓示的な夢だった。

 静司は、何処とも知らぬ部屋にいる。
 そして、目の前のおぼろな視界の中には、穏やかに微笑む名取周一がいる。だが、いつもの彼では無い──恐らく十年以上は年をとっているだろう、端正な顔立ちは、貫禄と言えるような不思議な落ち着きがある。静司はその端正さに目を奪われてはいるが、動揺はしていない。現実と異なっていても、夢の中では何故かいつも了解事項となるのが不思議で仕方ないが、そうなのだ。
 二人の間には、一挺の拳銃がある。使い古されたステアー M9。歩行者天国になった遠くの大通りからは、ニューイヤーカウントダウンイベントのアナウンスとバンドの演奏が聞こえてくる。古い曲だ。oasisの『Don't Look Back In Anger』。歌詞に深い意味は無いとインタビューで見たことがあるが、ついつい深読みしてしまう。
「少し外を歩こうか?」
「……いいえ、この脚ではもう」
「おれが背負って歩くよ」
 静司は照れ臭そうに首を振った。
「カウントダウンイベント……昔よく行ったよね、懐かしい」
「ふふ、二人になってからはそうでしたね。的場にいた頃は寂しくてもそんな顔はできなかったから」
 でも、もう十分です、と静司は言った。十分だ、と確かに静司は思った。
 十分やった。十分過ぎるほど生きた、と。
「幸せだったかい」
 ゆったりとした波のように穏やかな周一の瞳を見返すと、静司の瞳の奥が張り詰めた。
「とても──ええ、とても幸せでした」
 こぼれたひとたまの涙が弾けた手の甲は、周一よりも明らかに老いていた。十年やそこらでは済まない──老いさらばえた男のひどく痩せた枯れ木のような手があった。
 静司は周一よりもひとつ年下のはずだった。夢にありがちなことだが、その事実に不思議と驚きはしなかった。
「でも、欲を言うなら──もう少し早く気づけば良かった」
「そうだね。おれなら……おれには、その力があったのに」
 うまいきっかけが無かったな、と静司は呟いて笑った。周一は静司を抱きしめた。これが今生の別れだ、と静司は察した。
 そうだ、これが最後だ。
 目が霞んで見えないのは、涙のせいだけではない。もはや視界も朧になるほど、肉体が限界を迎えて軋んでいた。
「愛してる」
 この世で一番優しい声が、鼓膜を愛撫した。同時に冷たい銃口が、静司の喉に静かにあてがわれた。


 
 


「…………!!!」
 傍らに置いた暖房の小さなファンの音が、自分以外に猫だけしかいないこたつ部屋に響いている。違う世界に急に引っ張り出されたように息をつく。
「──ゆめ、か」
 静司は、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。
 何のために作られたか分からない的場邸で一番小さなこの四畳間は、静司の一番お気に入りの部屋である。夕食後、ゲーム系YouTuberの真似をして、Excelでドラ○エ2を再現していたら、いつの間にやら時計が大変なところを指している。静司はぐりぐりと目を擦りながらため息を吐いた。
 襖の向こうには、誰かの気配がある。的場家の使用人だ。大晦日まで、アホで気まぐれな雇い主に付いて回る必要などないのに、とは思うが、大きな家というのはそれだけで厄介事が多いので致し方ないのかもしれない。だがそれが今は不思議とありがたい。覚醒して誰の気配もなければ、思わず叫び出してしまいそうだった。
 静司は居住まいをただして筆を取り、ノートPCを横に除けて今し方見た奇妙な夢を書き留めた。なんということは無い──突飛な夢だ。何も『予知』とは限らない。
 だが、無心を装って書き連ねていくうちに、それは確かな啓示であるように思われた。
 あれがもし、十数年後の自分の未来だとしたら。
 そんなことが有り得るだろうか?
 喉に当たる銃口は、とうに呼吸もままならぬ老体への慈悲であったとしたならば。
『予知』が成立することが否定できない以上、夢は静司が死ぬまでその可能性をもつ因子であり続ける。死ぬまでその可能性に怯え続ける。たとえどんなに有り得なさげなものであっても──。
「……」
 誰も聞いて来ないし、言っても解決が見込めないので誰にも言わなかった。
 それが、静司が選択した、この奇妙な能力への向き合い方だった。何からの大きな契機が無い限り、それは変わらないだろう。
 だが──夢の中で、静司は周一を前に確かにこう言った。

『でも、欲を言うなら──もう少し早く気づけば良かった』

 ──何に?
 何に気づくべきだったのだ?
 もう少し早く──何に?
 筆に吸われた墨が、紙の途中に真っ黒な池を造る。詰まった感情がじわじわと紙を灼くように。
「…………老化、だったのか?」
 ようやく絞り出した声は、硬い紙をくしゃくしゃに丸めたかのようだった。
 夢の中に見た、枯れ枝のような我が手。目の前の周一とは釣り合わない年齢の、老いさらばえた老人さながらの肌。もう少し早く気づけば良かった、と嘆いた自分は何を悔やんでいた?あれが『予知』であるならば、その感情もまた読み取れた筈だ。
 周一の前でひとたま涙を落とした自分は──自分たちは、決断と離別を悔いていた。それに気づけなかったことを悔いていた。それは──それはまさか。
「……能力の、代償……」
 鼓動が逸ると同時に、顔面から血が引いていくのが分かる。
 自分たちが単純に生存という意味において、いわゆる一般人よりも、遥かに脆弱であることを、静司は折に触れては思い出す。本来生存能力に振り分けられるはずのスペックは、何らかの形のソースになっている。
 その分、たとえば伴や名取のように依代を使える能力者は本質的に有利なのだ。彼らは自らの内側にあるエネルギーソースを割かずとも、依代がその代用となる。まさにその語彙のままに。いわば、的場家頭首の右眼もそうである。強大な危険そのものを担保に、より強いものとの結び付きを得る。
 静司が強力な呪具を求めるのも、何も単純な火力を欲しているのでは無い。色変わりの衣が、牡丹に椿に芍薬に視えるこのエネルギー源の身体は無尽蔵ではない。そして、そのエネルギーは人間である以上、人間が本来持ち得る何かが担保する。
 静司は、自分の手を見た。
 ヒトの中で覚醒したアクティブな『予知』は、静司の寿命──生命そのものを代償としたのではないか。急速に発露したあまりに正確で強い力が、オーバーヒートを起こして生命をエネルギー源にした──有り得ない話ではない。夢の中の静司と周一はそれに最後まで気づかなかった。そのためにあのような最期を迎えた。
 ただの夢ならば構わない。だが、『予知』であれば──これが静司の力の本質に対する啓示であったなら。

 静司はよろよろと立ち上がった。
 Excelで再現したドラ○エ2を上書きしてスマートフォンを持つと、それをお守りのように両手で握りしめる。
 自分では、それはできないかもしれない。
 だけど──
 唇を噛んで、先の夢を反芻する。
 優しい顔で哀しく笑う、あのひとは確かに言った。

 ──おれには、その力があったのに。









「…………そんなことって、本当にある思います?周一さん」
 大晦日になって急に呼び出すのだからと、使いを遣らせてホテルのラウンジで待ち合わせた周一は当初、明らかに身構えた仏頂面だったが、話を進めて静司が知るところをつまびらかにすると、黙ったまま俯き加減の額に手をやった。
(……表情が見えない)
 仔細を口にしたことを、静司は少し後悔し始めていた。
(顔ぐらい、見せてくれても)
 だが実際、突拍子もない話だ。
 周一であればともすれば、と詳細を語った自分が顛末を見誤ったのであれば致し方無し、だがやはり、突拍子のない話であれ、自分ではどうしようもないこの不安を鼻で嗤われるのはさすがに心が堪える。現実は余りにも容赦ないが、夢もまた現実であることを思えばどう割り切ればいいか分からなくなってくる。
 どうしようか──どうしたら伝わるだろう。抑、今伝えようとしていることが、『予知』の能力による未来視なのか、単なる夢に惑わされた思い込みなのかさえ判断がつかない。大晦日の夜になって、いまさらにして迷いが去来する。
 そしてその迷いは、根本的な解決が望めない限り、あらゆる形で静司を翻弄する。どの夢が真に『予知』であるかはともかく、確かに未来視が夢によって行われているのは事実であり、どちらにせよこのままでは、遅かれ早かれ何かが決壊してしまうような気さえする。
 静司は青天の霹靂であるように、いそいそと飛んで出てきた自分がバカみたいに思えた。自分がまるで分からないことを、他人がいったいどう出来るというのか。そうでなくとも年の瀬も残すところ数時間というタイミングで、よく周一が腰をあげてくれたものだ。
 沈黙が怖くて静司は延々と話し続けるが、その内心は粗い麻のように乱れていた。浅ましく思われたのではないか、或いは二心があるのではないかと思われはしていないか──口をつけないままのコーヒーは、すっかり冷めてしまっていた。
「……あの、周一さん」
「静司」
 少しばかり引くどすの利いた声で名を呼ばれ、ハッと顔を正面に向けると、真正面に周一の顔があった。
 ふいに延ばされた大きな手が、静司の目尻を拭う。
「泣くなよ」
「えっ、な、泣いて……」
 茶化したように手を払い除ける仕草をすると、周一が触れた部分から涙が零れるのがわかった。それらしい感情は付随していなかった。ただただ混迷し、焦っていたのは確かだ。
「きみが衆目のある場所でそんなにも動揺を隠せていないのはいかにも珍しいから、少し動揺してしまった」
「……」
「ずっと不安でたまらなかったんだろ──その予知の力に気づいてから、それこそ夢なんかに一喜一憂してしまうくらいに」
 ゆったりとした波のように穏やかな周一の瞳は、あの夢でみた光景そのものだった。今は甘ったるいばかりの色男でも、いつかはあんなに苦みばしったいい男になるのか。
「予知でも夢でも構わないが、兎も角そんな厄介なものまで背負うべきじゃない。きみは頭首様だろうに、もし何かあったら──」
 周一は長いため息をつき、邪念を振り払うかのように頭を振った。
「……少なくとも」
「はい?」
「おれは、おれが死ぬのは、きみを送ったあとだと決めてる。きみが早く死ねば、おれだってそれだけ早く死ぬんだ。別段長生きしようとは思っちゃいないが、きみにさっさと逝かれちゃ何のためにこんな無様な生き様を晒してるのかわからないだろ」
 静司の不健康なほど白い肌に、サッと朱が差した。
 そうだ。優男なだけではない。彼は時々、臆面もなくこういうことを口にする男なのだ。お前のために生きている、と──彼は今そう言ったのだ。
 呆然としているうちに、周一は懐から薄っぺらい小さな紙を取り出すと、市販の筆ペンで、さらさらとそこに文字を綴る。
 見惚れるほど美しい字だ。それを綴る所作もまた。どれだけ練習を重ねたら、こんなに美しい字が書けるようになるのだろう。
 書き付けた紙を、周一はテーブルに滑らせて静司へと突きつける。そこには、

『ゆうべの夢は貘にあげます』

 と、思いもよらぬ可愛らしい文言が書かれていた。その紙の端には、筆の流麗なタッチで、小さな動物──貘が描かれている。
「──初夢、という験担ぎがあるね」
 静司は黙って頷いた。静司も大好きな、正月の夢占いみたいなやつだ。一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭。正月にどれくらい縁起のいい夢を見たかで、一年を占う風習。いい夢ならば家のあちこちで自慢して、悪い夢ならば誰にも言わずに忘れてしまう、些細な遊戯のようなもの。
「実際に初夢なるものに吉凶を予言する力があるかどうかは兎も角、きみも詳しいだろうが、まずはこの初夢というものを解体してみようか」
 別に詳しくはありませんけど、と静司はぽつりと言った。ではなおのこと、と周一から苦笑と共に返ってきた声は、ただただ優しかった。
「初夢は主に1月1日から2日にかけて、時ところによれば2日から3日、または大晦日に見る夢で年度の吉凶をみる、毒にも薬にもならない罪の無い伝統だ」
 毒にも薬にもならない、とは辛口だが、周一によると、現在遡ることのできる起源は西行法師の書付によると言うので、おそらくそれ以前から夢占いのようなものはあったのだろう。それほど人々は、古くから夢というものに関心があったのだ。
「だが、敢えてその特異点を見てみよう。『初夢』を見るこの時期、大勢の人間が、自分が眠っている間に見るであろう夢に対してコントロールしたい、アクセスしたい、という潜在的願望を少なからず持つわけだ。現実にコントロールないしアクセス可能なのかどうかはともかく、実際幾らかの欲求は統計的に現実のものとなる。夢の中に縁起物が出てきたり、都合のいい夢を見たりして──つまり初夢をみるとされる正月の夜、何万、何十万、或いはそれ以上という人間が、就寝中の自己の無意識を改竄しようと試みる」
 何とも夢のない──夢だけに──取り付く島もない物言いに、静司はポカンと口を開けた。
「……なんだか……気味の悪い言い方ですね」
 周一は愉快そうにニコリと笑った。
「確かに言葉にするとちょっとね。これは予め『初夢』という共通言語によって他者と共有されることによって、初めて呪術的な意味を持つんだ」
 静司はああ、と小さく声をあげた。
「なるほど、一富士二鷹三茄子だとか、七福神の宝船だなんて初夢のことを知らなければよっぽどのことが無ければ見ないですもんね。なのにこの日は『初夢』という言葉の共有によってそれが多発する。言霊──『初夢』という言葉のもとにのみ顕現する呪術なわけだ」
 広く知られていても、きわめて個人的な行動が、言葉の連帯によって呪術になる──それは、日常の裂け目を顧みなければ見えない。『臨命終時』ではないが、やはりこういう事案に関しては名取はその名に恥じない。
 周一は、静司の瞳から視線を逸らさずに言葉を継いだ。
「十二支という独自の考えや歳神という異神を採り入れることによって、無意識的に日本の一年というのはひとつのサイクルの繰り返し、いわばウロボロスの環のような形を持った。だからループの境界であるハレの初夢は昔から重要だったんだろう、一年は線状ではなく円状だからね。この円は基本的に途切れることが無いんだ」
 円状となった世界観。験担ぎと吉凶。ハレとケガレ。『初夢』という言葉の共有。
 当たり前のように共有されてきたものだが、見方を変えればこれほど呪術らしい呪術もなかなかにないように思える。
「つまり、『初夢』に関しては、夢は個人の脳内のデータ整理でなく、『初夢』や『一富士二鷹三茄子』などといった吉凶占──呪的言語を介した、言葉を共有する者たちにのみ開かれた呪術的作用を持った儀式とも言えるものにもなる。夢という単なる『おとずれて去りゆくだけのもの』に、物理的介入をゆるす唯一の機会になるんだ」
 静司は文言の書かれた紙を手繰り寄せ、その文面をじっと見た。『ゆうべの夢は貘にあげます』──巷でよく知られた、悪夢封じのまじないのそれだ。
「……で、まさかこれを、枕の下に置いて寝るとでも言うんですか?」
 首をすくめた静司に、周一はす、と長い指を延ばして、静司の薄い下唇を優しく押した。静司の歯列から、え、と間抜けな声が漏れ出た。
「飲むんだよ」
 周一は言った。
「通俗でいいんだ。31日から1月1日、或いは1日から2日の夜、きみの思う『初夢の日』でいい。眠る前に水でこの紙を飲み込むのさ。高野山に千枚通しってのがあるだろ?あれと同じだよ。こいつは呪術と夢を繋ぐ依代になるもの──『初夢』に乗じて任意の力を発揮させる反則技だがね」
 千枚通しとは、弘法大師空海のご利益があるとされる、『飲む御札』として確かによく知られている。
「──の、飲むって、飲んだからってどうなるんです?」
「こいつの本分は悪夢封じだ。だからきみの悪夢を──『予知』という悪夢を封じるのさ。貘は悪食だからね、何だって飲み込んで消化してしまうんだよ」
「そんなこと……」
 先程の話からすれば、言語によって具現化される抽象物という理屈は分かるのだが、そんなにあっさりと話が済むものだろうか。
 貘、というのは悪夢を食べるとされる幻獣だ。たしかに妖の中にはひとの夢に関与してくるものは少なくないとは承知している。だが、日常的に相対する妖の中に、一般に名の知られたもの、というのはほぼ存在しない。それは、名の知られたものとは、人間の想像力が作り出したキャラクターだからだ。ましてや貘は実在の動物である。
「貘──バクは夢なんか食べやしない。草や木の芽を食べるし、そもそも日本にはいないじゃないですか。確かに不思議な見た目だけど、アメリカ大陸とか、東南アジアに棲んでる普通の哺乳類だ」
「へえ、そう?それは多分tapirのことだと思うけど」
 tapir──タピア、バクの英名。
「タピアと呼ばれる動物はね、そもそも名前が無かったから、悪夢を食べる幻獣である貘から名前を借りたのさ」
「嘘だ」
「ウソじゃないよ。バクはきみの言う通り不思議な見た目をしているから、生物的分類の判断に時間を要しただけなんだ」
「そういう意味の嘘じゃなくて──詭弁だって言ってるんです」
「じゃあ、試してみればいいじゃないか」
 周一は、胡散臭い笑顔を崩さないまま言った。
「試してみればいい。符を飲んでみて、きみの能力の暴走が止まればよし、止まらなければおれの符がインチキだと証明出来るだろ?」
 静司はしばし押し黙って唇を噛んだ。
 違うんだ。
 別にインチキの証明をしたいわけじゃない。こんな言い合いをしたかったわけでもない。問答なんてどうでも良かったはずなのに。
 ただ自分は──
「言っておくけど──飲むタイプは効果が永続してしまうから、夢による予知は二度とできなくなる。それでいいなら、だけど」
「……」
 でも、静司。
 周一は静司の煩悶を掻き消すように、どっしりとした声音で言った。
「身の丈に合わない予知の力なんか、さっさと夢喰いの餌にくれてやればいい」
 黙りこくる静司を尻目に、周一は、夢を呪的に現実と繋げる願ってもない好機だ、と声をあげて椅子から立ち上がった。
 その時に、静司はふと気づいた──これは呪術どころではない。急に、ストンと腑に落ちた。
 このプロセスは、神霊の召請ではないか。
『初夢』という言葉のもとにのみ顕現する呪的な場が、『貘』という幻獣の名を夢に結びつける。結びつける触媒こそが悪夢祓いの符だ。周一の綴る文字には実際に強い呪力が宿る。この端に描かれた絵は、神霊としての貘の具現と召請──文字によって引き出された神霊の力によって「夢を喰う」──すなわち『予知』を封じる術式なのだ。
 何故、『初夢』が験担ぎから呪術へと展開する過程を言葉にしたのか。それを伝える必要は何故あったのか。にも関わらず、総てを語ることをせずにいた理由は。

 それは、魂がなければ見えない。
 魂──愛がなければ──決して視えないからだ。

 冷めたコーヒーを不味そうに飲み干しす姿に思わず二度惚れして、静司は柿の葉のような渋い色の着物の袖を引っ張った。
「──周一さん、か、帰るんですか?」
「え?」
 ほとんどわざとらしいように目をしばたたかせて、柔らかく両目を細めてから、周一は眼鏡をはずして笑ってみせた。
「──わざわざラウンジで待ち合わせたんだから、初日の出くらい一緒に見ようよ」
 照れるでもなく、だが少し身の置き所がないかのように鼻の頭を掻くと、周一は言った。
 静司は、何故引き留めるような言葉を吐いたのかと瞬時に後悔した。家にはまだExcelで作りかけのドラ○エ2が放置されている。本当は年明けまでに動画公開するはずだったのに。
「一流ホテルはいつでもヤバい客のために、幾つか部屋を用意してるってのは、都市伝説じゃないんだよ?」
 そう言って周一がパチンと指を鳴らすと、恐らく様子を窺っていたベルボーイが、此方に気づいて颯爽と近づいてきていた。

 ──本当に、生きていると、色々あるなあ。

 静司は愛のために棄てようとしている究極の異能に関して、少しも惜しくない自分自身が不思議でならなかった。
 どこかから、oasisの『Don't Look Back In Anger』が聴こえてくる。別に、年末のお馴染みというわけではあるまいに。でも、つい深読みをしてしまうけど、あの曲だって──愛がなければ見えないものを歌っていたんじゃないだろうか、と静司は思った。






ゆうべの夢は獏にあげます

2023/12/31 2023大晦日企画


超低浮上でしたが、2023もありがとうございました!
来年もよろしくお願いいたします!


【了】


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