思い出すんだ。今も。

 あれは多分、あなたと初めて出逢った頃。
 そして、はじめて恋をした記憶。
 おれの中で沢山のことが起きて、ほんとうに沢山のことが──
 何度も、何度も、壊れた再生機みたいに。
 想い出。
 そう、想い出って言うんだろう。
 何年経っても色褪せない過去の記憶。
 色褪せないどころか、まるで写真みたいに、どんどん鮮明になる。
 その中にはきっと、脚色されたものもあるだろう。
 もしかすると、もう互いに通じ合わない記憶もあるんだろう。
 鮮明に見えて、本当は擦り切れているんだろう。
 でも、それを手放せない。
 過去など死んだ夢だと、口先で吐き捨てた。
 でも、過去を手放せない。
 目を閉じたら、また過去に戻る。
 あなたが背を向けた、忘れることさえできない河川敷まで。





 たった六年やそこらの歳月は、的場静司の生涯、二十二年間の人々との出会いと別れを、まるでどうでもいいもののように色褪せたものに変えてしまった。
 まさに色眼鏡──ひとはきっとそういう言葉を使いたがるだろう。だが、もしも名取周一の記憶──いや、名取周一との記憶をすっかり無くしてしまえば、色彩は褪せた記憶を彩りはじめるのだろうか?だとしたら現金な話だ。恋に落ちれば運命、終われば偶然、所詮そんな恣意的な感情の延長上で認知しているというのなら。
 だが、少なくとも六年の歳月が、静司の中で等しく同じ濃度で流れて行ったかと言うとそうではない。多忙であれば周一のことなど当然のように忘れているし、気にしなければ、必然逢えない時間もどんどん長くなる。そのことを辛いと思うかと言えば、答えに詰まる。逢いたいかと訊かれても、きっと答えに惑う。
 それなのに、毎年2月14日になると、いつも同じ隘路を辿って、同じ河川敷を訪れる。綺麗にラッピングされた小さな菓子の箱を入れたビニール袋を、ぞんざいにぶら下げて。

 昔むかし──。
 古代ローマ帝国では、ルペルカーリア祭と呼ばれる、ギリシア・ローマの豊穣の女神ユノーを祀るための、由緒ある恋人たちの祝祭があったとされている。それは、事前に未婚の男女が桶に自分の名前を書いた札を入れ、祭りの際にはランダムに男女の札を引き、その札に書かれている名前の異性と過ごすことが許されるという、実に刺激的な、いわゆる縛りの強い街コンであった──のが確固たる事実であったかどうかは知る由もないが、何しろそうしたものであったらしいと現代の記録は伝える。
 このルペルカーリア祭を起源とするのがバレンタインデー、聖バレンティヌスなる人物がローマ帝国の軍律を犯し、密かに未婚の男女を結婚させていたという言い伝えになぞらえ、現代のバレンタインデーが生まれたという説は根強い。
 とはいえ、当時の認識ではあくまで社会の最小単位が「Familia」、すなわち「家庭」であるから、恋愛や結婚といっても、我々が現代で考えるような「個人」を重んじるようなものではなかったと考えられる。それはキリスト教世界でも同様で、実在が怪しまれる聖バレンティヌスなる人物が秘密裏に男女の結婚を采配したといっても、個人から個人の思慕を重んじたわけではない。実際、かのローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが、未婚の女性に対して社会的負担を強いたのも、そうした社会的認識によるものであったと考えられる。

 そう考えると、古代より連綿と続く婚姻を前提とした男女の祝祭というよりは、その残滓を汲み取った風俗と商業主義、拡張する個人主義と自由恋愛の合体が実際の姿のように思われるけれど、そんなつまらないお祭り騒ぎに託けて、ぶらぶらと何年も寂しい川辺を徘徊する自分もまたくだらない。くだらないと思いながらも、毎回ぶらぶらと徘徊して、時々何を探しているのか分からなくなる。
 ──でも、忘れられはしない。
 かつて、背を向けられた恋に、追いかけることもできずに声もなく泣いたことを。燃え上がって、灰になった幼稚な初恋の続きを、幽霊のように独りずっと続けていたことを。
 土手を降りていくと、毎年同じ河川敷が、繰り返す夢のように広がっている。繰り返す夢──それは落しどころの無い悪夢かもしれない。恋は虫の息とはいえ終わらなかったけれども、鮮烈な想い出は烙印のように、静司を捕まえて離さない。
 あの日、あの時、見つめていたのは川の流れなどではなかった。きらきら光る夕陽が乱反射して、世界は確かに綺麗だった。それを、振り向くことのできない理由にした。
 振り返って目が合えば、彼はどう言っただろう。「さよなら」と訣別の言葉のひとつでも口にしただろうか。静司が笑っていようが、たとえ泣いていようが。そのことが分かっていたから、静司はひたすら無防備な背中を晒していたのではなかったか。
 もしかしたら、抱き締めてくれるかもしれない。
 そんな、ありもしない、浅ましい妄想を抱きながら。
「思い出は苦いから、菓子くらいは甘くないと」
 そんなわけのわからない言い訳と共に。







 河川敷は当時よりも、少し荒んで見えた。
 というより、季節的に枯れ草のほうが目立つ時期であり、なおかつ当時の記憶の印象が強いせいで、それがギャップになってしまう。毎年のことだ。なのに慣れない。冬季の晴れ間で河川の水量も少なく、気温も低いせいで、全体的に印象が枯れていて物悲しい。
 こんなものか、と普段着の着流しに襟巻を巻いて、かつての己の幻に身を寄せる。瞬きもせずただ泣いていた、あの初恋の苦い味。
 まるで、成仏できない幽霊みたいだ。それきり終わってしまったというのならまだ判る。でもそうじゃない。それですっかり縁が切れたというわけでもないのに、何なら今すぐ最短で二人きりで逢う約束を、この場で取り付けることもできようものを。
 なのに何年もこの場所に拘り続けて、静司はここで独り泣く。幽霊──供養しきれないのは、あの時目詰まりを起こした思慕が余りにも強すぎたからかもしれない。あの日、振り向けもせず臆病者になった自分が遺した後悔。気配が消えて、太陽が沈んでも、静司はそこを動くことが出来なかった。家の連中がこぞって探しに来た時も、まだ立ち尽くしたまま泣いていたから。
「……そんなに、いい男だったのかなあ」
 制服のブレザーを着ていた。あの茶髪はきっと生まれつきのものなのだろう。あやふやな色彩の瞳、いつも警戒するかのように此方を見る目は、それでも不思議と優しい印象を与える。迷いと戸惑いを具現化したような表情。苦々しげな口調。
 ──でも、そんな君が、好きだったよ。
 数える間に朱く染まる真冬の夕暮れに、静司は太陽の遠のいた灰色の空を見上げる。
 大人になって、昨日を忘れ、泣くのをやめて、何もかも諦めて──いつの間にかまた繋がって。
 でもそんなのじゃ、一番苦しいものを吐き出せない。えずきまくっても、喉から出るのは水みたいな胃液がせいぜいだ。言いたかった言葉は、ほかにもたくさんあるのに。もう戻れないから、もう伝わらない。どうしよう、どうしようもないな、どうにもならない。いつもこの繰り返し。
 そうさ。
 好きだったんだよ、ガキの頃から。
 抱き締めて欲しかったんだよ、あの時、あの一瞬。
 バレンタインデー?
 だって、うまくすれば恋が叶うんだろ?
 そういう日だって、みんな心得てる。
 だから心が揺らぐかもしれない。
 ルペルカーリアみたいに、引いた籤にお互いの名前が書いてあるかもしれないじゃないか。
 その胡散臭い、バレンティヌスとやらの恩恵に与れるかもしれないじゃないか。
 何度もやれば、
 うまくいけば、
 やり直せば──
 わけもわからず、また泣いてしまう。
 此処は泣くために来る場所なのか?
 何年もこんなことを繰り返してどうなる?
 どうしたい?
 何年も、何年も──
 バカみたいだ。
 傍から見れば、ただの変質者じゃないか?
 どうしようも無く立ちすくんだ。
 夜に向かう直前の、最後の鳥が鳴く。
 同時に、
 頬に冷たい雫が弾けた。
 ──鳥の小便?
 いや、雨だ。
 湿気の──夕立ちの匂い。
 不用心だけど、傘なんて持ってない。
 また空を仰ぐ。
 ああ、雨だ。
 いっそ待ちに待った、雨だ。
 涙に雨。
 濡れてしまえば、
 もう抱き締めてなんてもらえないだろうから。

「雨がふります 雨がふる
 遊びにゆきたし 傘はなし
 紅緒の木履も 緒が切れた──」

 ポツポツと顔を濡らす大粒の雨が、すぐに涙を隠してしまう。こんな小細工だけは得意だ。涙と雨と幽霊。どいつもこいつも親和性が高くて、簡単に自分の目からさえ真実を覆い隠す。
 ひとは何より己の目を恐れるというけれど、静司にしてみれば、それはそれだけ己を大切にしてきた指標なのだ。
 静司はそうではない。散々蔑ろにしてきた自己は、何度子供騙しの文言で謀ってもからかっても、最低限の文句ひとつも言わないだろう。鈍麻な精神。自傷も過ぎて、とうに血も出ない。
 Rainy days and Mondays always get me down……








 急に、背後から、抱きしめられた。
 反射的に夢だ、と思った。
 でも、待てども覚醒は訪れなかった。
 その強さは確としていた。
 嘘だと言うなら、自分のほうがどうかしてしまったことになる──それでも構わないと思うくらいに投げやりな気持ちが、燃え上がって灰になるくらいに強い抱擁だった。
 辺りを朱に染めた夕陽は落ちて、まだ目新しい闇が辺りを包んでいた。どれくらいの時間が経ったのか、自分はただ立ち尽くしていただけなのか、眠っていたのかさえも分からなかった。
 包み込むような腕、大きな手が、被さるように瞳を塞ぐ。自分はその手を確かに知っている──。
「……どうして」
 絞り出した静司の声は、周波数の合わないラジオのようだった。
「どうでも──どうしても」
 男は答えた。同じくらい調子の外れた、高揚して掠れた声に、静司は戦慄するしかない。名取周一以外に、こんな声音で語りかける人間を静司は知らない。
「どうしてもって、何なんだよ」
「君に対する気持ちに名前なんか見付からない──」
「そんなたわ言、訊いちゃいない!」
 静司はわななきながらも咆哮した。
 激情の在処がわからなくて、威嚇する犬のように歯がカチカチと鳴った。
 それでも背中を抱く腕を振りほどくことは出来なかった。腕を解かれたなら、西行法師の作った下手くそな屍人形さながらバラバラに砕けてしまう気さえした。
「……理由を訊いてんだよ馬鹿野郎。今更どうして、こんなところにのこのこ現れるんだ。どうして……」
 胸が、心が、締めつけられる。
 錯綜する一方で、それを『知っている』と心が叫ぶ。
 自分の心の痼りはただの病んだ執着で、いつまでも気に入らない過去に拘っているに過ぎない。思うように進まなかった過去を省みて、都合のいいありもしない世界線が存在する根拠をいつまでも受身で待っている、ただそれだけのことだからだ。
 そんな不毛な行為が、物語の先を描くなんて微塵も考えてはいなかった。これは単なる我儘──現実が思い通りにならないことを知らない子どもの駄々だと判っていた。だから、その先があることを前提にしながら、本当に続きがあった物語を冷静に受け止められないのだ。
「どうもこうもない、今日は毎年いつも此処だと的場の連中からちゃんと聞いてる」
「何だって?」
「君が此処に来るのを、俺は知ってる。俺たちはもう」
 ──逡巡する、その諦念のような気配に同化する。まだ傷の浅いまま、無抵抗なまま降参してしまえ。これ以上互いの背中が離れていくくらいなら。
「俺たちはもう、自由じゃないから」
 それが悲しみだったか何だったのか、もう一度抱き締められて、その温かさとまぎれもない愛おしさに魂が抜けるかのように静司は嗚咽した。
 すまない、という小さな呻きが、鼓膜に響いた。けれど何もかも、誰のせいでもない。強いて言うなら、ここにいたるまで他人を振り回せる自分の面の皮には恐れおののく。
「でも、何も無かった──自由だった頃、そのままの君を抱き締められるほど自信が無かった。文字通り何も無かったから。だから逃げ出した。訣別だと言い訳をして、俺は君から逃げ出した」
 強い抱擁は、いっそ拘束されているかのようだった。身勝手な抱擁。此処でまだ要求を並べる自分に辟易しながらも、静司は思う。幾年もこんなものを待ちわびて、心をすり減らしていたというのか──落しどころの無い物憂さと激情が両立して、目尻がまたじわじわと熱くなった。お前はひときわ面倒臭い構ってちゃんか。
 抱き締める周一の腕に触れて、すっかり大人の男になったのだな、と嘆息する。これがもしガキの頃だったなら、互いに必死になり過ぎて、もっと容赦の無いジャーマンスープレックスホールドみたいになっていたに違いない。
「……だけど君は此処で、ずっと待っていたのかい」
「……」
 まさか、と突き放すことは出来なかった。
 文字通り、過去に取り残され、途切れた物語を綴るために執着を捨てられなかった自分に、何も言い返せる言葉はない。見開いた弓眼から、落ちていく雨粒よりも大きな雫を、丁寧な口づけが拭った。

 ──ああ、変わる、と静司は思った。

 何が、ではない。
 何もかもが変わる、と直感的に認知した。
 それは「否応なく捻じ曲げられて変容する」類のではなく、「互いの承認のうちに変わるべき方向へ向き直る」というものだった。それは根の在処の分からない、美しい花のようだと夢想した。ほとんどの人間がなんの代償もなく与えられ、やがて喪失したと泣くような、鞭の前の飴──すなわち箱庭の自由など、比較にならないくらいに美しく尊いものだと。
「……うん、待ってた」
 俯いていたら鼻水が垂れてきたので、すすろうとしたら失敗して慌てて舐めた。ハンカチの一枚すら持たず、勿体ないという理由で開封すらしなかった鬼○の刃のポケットティッシュも持ってこなかった自分を責めた。
「間に合った?」
 肩を柔らかく掴まれて、顔を覗き込まれて心臓が爆発するほどギクリとした。どの条件をふいにしても、絶対に鼻水を舐めている姿など見られてはならない。
 静司は困ったように笑って鼻の下を拭い、答えなかった。それを、かつて自分から逃げ出した男への報復にした。
 もう、振り向かなかった過去への悔恨など、とっくにどうでも良くなっていた。

 





 忘れていないんだ。今も。

 あれは多分、あなたと初めて出逢った頃。
 そして、はじめて恋を自覚した記憶。
 おれの中で沢山のことが起きて──大切なものが生まれて。
 そう、それは暗闇の中で育つこともあれば、
 自ら光を輝かせることもある。
 時には、塵と化すまでひとりでに育つこともある。
 何度も、何度でも。
 その名前は、胸にしまって。
 言葉にしてしまえば嘘になりそうだから。
 何年経っても色褪せない過去の記憶。
 色褪せないどころか、まるで写真みたいに、どんどん鮮明になる。
 『それ』は至る所に生まれる。
 想像もしていなかったところにも。
 ──その中にはきっと、都合よく脚色されたものもあるだろう。
 もしかすると、もう互いに通じ合わない想いだってあるだろう。
 鮮明に見えて、本当は擦り切れているんだろう。
 でも、どうしたって手放せない。
 過去など死んだ夢だと、口先で吐き捨てた。
 けれど、過去のすべてが偽りだったわけではない。
 『それ』に理屈は通じない。
 『それ』には理由などないから。
 目を閉じたら、また過去に戻る。
 あなたが来る、あの懐かしい河川敷まで。
 確かにおれを抱き締めて、あの日あの時あなたは言った。


「──愛には千もの茎がある。
 しかし、一つの花しかない。」




『tissue』

2022/02/14
聖バレンタインデー企画


2022年、久しぶりのバレンタインデーのお話でした。
読んでくださってありがとうございます!


【了】


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