ベオウルフ。

 それはゲルマン諸語では世界最古の英雄譚であり、心理学的にも非常に興味深い記録である。
 主人公である勇士ベオウルフが、夜な夜な城を襲う怪物や女怪、炎を吐く竜を退治する、という今日では広く知られた英雄譚である。

 この「ベオウルフ」の語源には、「Berserk(ベルセルク)」という言葉がある。12~13世紀のアイスランドの著名な歴史家スノリ・ストルルソンは、「ハーラル1世の親衛隊は【ベルセルク】であり、いかなる武器を使っても傷付けられない」と述べている。
 ベルセルクとは、軍神の神通力をうけた特殊な戦士であり、戦闘時には自分自身が熊や狼といった野獣になりきって忘我状態となり、鬼神の如く戦うと語られている。彼らは動く物ならたとえ肉親にも襲い掛かったと言われ、畏敬の対象となった。
 こうした「変身」に関する病理学的見解は、いわゆる狐憑きやウェンディゴ症候群、リカントロピーなども含め、現代では様々な事柄が明らかになっている。時代や生活圏との関係、文化による呪縛──。
 何故、実際に聖痕が現れる人々の「その部位」は、手首ではなく手のひらなのか。もし手のひらに釘を打っても身体を支えることが出来ないことを彼らが知っていれば?そして、後世の画家たちが磔刑のイエス・キリストの惨い姿を正しく描写していたなら?


 ──それは、端整な満つ月に、致命的なヒビを入れるかのような、強烈なグロウル。
 岩盤まで凍りついた極限の空間に、強烈なクレバスが走るように響き渡った異様な音割れ。
 もう何処にも存在しないと思っていた五感が、聴覚と共にドミノ倒しに甦る──体中を襲う、えも言われぬ苦痛と共に。







 静司が囚われていた研究施設は、中央アジアの東端の辺境に隠れていた。
 ヒンドゥークシュ、カラコルム、パミール高原が接する世界最高峰の高山地帯は、ペルシア語で「バーム・エ・ドゥニヤ」とも呼ばれ畏敬される恐るべき僻地である。
 それゆえに、かつてのソビエトのアフガン侵攻とも無縁であった、パミール高原を東西に貫くワハーン回廊は、タジキスタンとアフガニスタンの国境を成す数百キロにわたる長大な渓谷地帯を指す。このワハーン回廊の東端、南側に面したヒンドゥークシュの積雪の山中、アフガニスタンとパキスタン間に引かれたデュアラント線に紛れて、恐らくは衛星写真でもない限り滅多なことでは人目につくことはなく、それも恐らく何らかのカモフラージュがなされているであろう、二重カルデラ状に歪曲した僻地に、かの施設は平然と建っていたのだ。

 ──7000m級の峠を幾つも擁する斯くも険峻な要塞に、果してただの人ひとりが、ほとんど丸腰で急襲を掛けるような真似ができるのだろうか。
 静司は今でも不思議に思う。
 自分が囚われていた拠点が、険しいヒンドゥークシュの山中に存在したのは確かなのであるが、そこは容易く外界からは視認することは出来ない。土壌は二重カルデラによって陥没し、施設を覆うようにして、横から被さる奇岩群が、空からの監視も完全に遮ってしまう。巧妙に隠された送電線を辿りでもしない限り、見つけることは不可能に近い。
 静司自身はある人物から託された「中央アジアの魔女」の関係者を研究データと共に施設から送り出したものの、もはや自分の退路を確保できる余裕は無かった。顎を突き上げるようにライフル銃を突きつけられ、ただ率直に、死ぬのだと分かった。
 だが、弾丸はすぐに発射されなかった。
 見ず知らずの人間が、ルーチンに従って対処するには、静司の傍目に余りにも美しかったからである。実際のところ、奇跡の根拠はただそれだけであった。
 彼らのほとんどは米兵であり、施設内には幾人かの研究者らしき人間が確認できた。聞き取ることは容易だったが、静司は言葉が通じない振りをした。
 諦めるのは早いかと、望む者があれば夜の相手もした。手っ取り早い情報収集になるかと思いきや、誰も容易く口は割らなかった。静司がいかにも愚鈍に振舞っても、誰一人として態度は変わらなかった。
 しまいには言葉が通じることが明らかになると、やむなしと拘束された。しかも、単に自由を奪われるのではなく、被検体という形で実験動物にされるというおまけ付きだった。

 最初は、ぼんやりと眠っていた。
 眠らされていたのかもしれないが、断片的な記憶はあった。
 その間に採血をしたり、幾つかの検査を受けた。
 ただ、これは相当やられるな、と内心覚悟を決めたくらい丁重な検査で、心電図からMRIをはじめ、PT検査だの各種マーカーだのと、異様なほど緻密な項目に医師はチェックを入れていく。少なくとも、のっけからの検査にこれだけ力を入れるのであれば、今日明日殺される、ということはないだろう。それは、今日明日殺されるよりも壮絶な目に遭わされるのではないかということであるが、今縋ることのできる希望といえばそれだけだった。
 そのうち、唐突に点滴の投与が始まったが、中身が何であるのかは分からない。点滴が始まると、開始10秒余りで意識は鮮明なまま力が抜け、数分以内には身体を起こせないほどの疲労に陥り、やがてはそのまま昏倒してしまうのだった。初日は寝ゲロで寝具を汚したが、研究医らしき老人は嫌な顔ひとつせず、黙って布団を敷き替えた。
 これが何かしら健康に不利益な物質であることは明らかである。疲労は目覚めても回復することなく、蓄積する一方だからだ。
 三日もすれば、平時から朦朧としてベッドから起き上がることさえできなくなった。一方で視界は鮮明なまま、研究医らしき老人がいよいよとばかりに新しい注射器の封をきったが、もはや静司にそれが何であるかを問いただす気力は失われていた。
 しかし、何を思ったか、気まぐれだか嫌がらせだか判然としないまま、研究医は此度の措置について語り始めたのである。
「きみは……オフィコルディケプスを知っているかね?」
 知らない。
 ……と言いたかったが、脳内の無用なほど覚えのよい検索機能に1件の引っ掛かりがあった。
 オフィコルディケプス。
 何か、最近ディスカバリー・チャンネルだかナショナルジオグラフィックだか何かで見た事がある気がする。
 アリと、その脳に寄生する菌……寄生されたアリはどうなるのだったか、とにかく異常行動を起こすという話であったか。近年本州にも見られるようになったエキノコックスの注意喚起に沿ったものであった気がする。
 静司は疲労で答えることができないという体裁を装った。実際、思考を整理するのは難しかったし、舌は不思議と動かなかった。
「我々は死についての研究をしている。生と死──その境界を」
「……」
 ──ジジイになっても厨二病が治らないのは気の毒であるが、吟味してみれば、興味深い事柄でもある。
 まったく、こんなところでわくわくさせてくれるなよ。静司は無言で唇を歪めた──いや、歪めようとした。実際には、唇は少しも動かなかった。
「オフィコルディケプス──俗に言うタイワンアリタケはいわゆるキノコの一種だ。台湾アリに寄生して、その神経系をコントロールする。最終的にアリは死ぬが、寄生された個体は死後も活動を続ける」
 つまり、実質的なゾンビ状態である。
 だが、それだけならば別段面白い話でも何でもない。その手の寄生生物なら、素人である静司でも幾つかは挙げることができるだろう。蠕虫、菌、ウイルス。
「オフィコルディケプスは、アリの体内に侵入したあとで骨格や組織全体を溶かして増殖する。神経細胞を溶かし、増殖を続けて最大ではアリの体重の半分以上を菌が占めるようになる」
 嬉々として話す研究医に、静司はほんの僅かな不快感を覚えた。不穏当な話をちらつかせて、畏敬を抱かせようとする輩の常套手段だ。
「そして宿主であるアリを木に登らせ、木の小枝を口腔にがっちりと噛ませることで体を固定する──『死のひと噛み』と我々は呼んでいるがね。そうして用済みになってしまったアリが死ぬと、その頭の後ろの部分を破裂させて胞子を雨のようにばらまき、木の下にいるほかのアリたちを狙う──オフィコルディケプスとはそういう菌類なのだよ」
 ──気味の悪い生き物ですね。
 そう言おうとしたが、声は出なかった。ふと、ハエに寄生するハエカビが脳裏を過ぎった。これらは死んだ雌の個体からフェロモンを出し、死体と交尾することで感染した雄のハエが木の枝先などに登って死ぬ「頂上病(summit disease)」なる行動を誘発する能力があり、今の話に非常によく似ている。これらは、できるだけ高い場所で四散することにより、死骸から発生した胞子を広範囲に散布させるためである。
 察するに、そういう都合のいい兵隊──身体が損傷しても、脳が傷付いても稼働する不死の兵隊を創る研究をしていると、そういうことを言いたいのであれば、遺体を思うままに稼働させる──太古の昔より、ある種の人々が求めていた夢の技術は、我々のすぐ側にあるものなのである。
 なるほど、「即座に動かせない何か」があるのは予測の範疇だったが、まさか今や名目上はタリバンのお膝元で、米軍がこんな突拍子もない研究を続けていたとは驚きだ。各被験者は恐らく個別に管理されているため、此処へたどり着くまでにひとりも目にすることは無かったが、恐らくは肉体の損壊したもの、または脳の損壊したものなど、此処にはそういった被検体がわんさと存在するのだろう。そして、彼らは「誰」なのだろうか。ワハーン回廊に点在する寒村に住む戦火とは無縁の人々、或いは連行されたアフガニスタン人。まさか自分のように、自ら施設に入り込む人間などそうはいはすまいが、軍属の研究所であるにも拘わらず、彼らは静司を尋問することもなく、あっさりと実験動物とした。今は一人でも多くの被検体が欲しい、それが本音はのではないか。
 それは、宗教テロと戦うためなのか。不都合なものを排除するためなのか。或いは、それが新しい捕虜の扱い方だとでもいうのか。
 唾を吐く力もなく、項垂れたまま涎が滴った。アラートが響き渡ったのは、まさにその時だった。

『Intruder alert!』

 鼓膜を突き破りそうな警報に、研究医は注射器も何もかも投げ出して、内線電話にしがみついた。何度も「Why?what?」を繰り返し、待機命令に大人しくなったと思いきや、しまいにはトランクの中にあれこれと詰め込み始めた。まさかの撤収作業に、「Why?」はさすがに此方のセリフだ。
(命令無視か)
 呆れて冷めたため息をついた静司の両肩を、研究医はしかと掴んだ。何かしら言いたい目をしていたが、彼は何も言わなかった。
 ただ、何を思ったか、幾つかの錠剤のシートを手渡された。受け取れずにシーツの上に落ちたシートの裏面の表記から、残念ながら察することの出来ない「neostigmine」なる薬物と、ビタミン剤であった。だが、さほど薬学に明るくない静司には、それが何かは分からなかった。
 しっかりとトランクを抱えた老医師は、止める間もなくそのまま走り去ってしまった。
(せめて何なのか教えてよ……)
 そんなものが仏心のつもりかと、静司は鼻で笑った。
 なるほど、自分はこんな真似をしたかったのではないと、本来の善性を伝えたかったのかもしれない。
 とはいえ静司からすれば、左様ほどに愚かな所業はこの世に二つとないように思われた。







 侵入者に乗じて、どうにか命を拾うことができた僥倖であった。とはいえ通じて体調はひどく悪く──多分自分はその日には死ぬところであったろうに、何がどう作用するのか分からない「neostigmine」とシートに書かれた用法の分からない薬物とビタミン剤で生き延びられたのは更なる僥倖に過ぎないのであって、今にしてもどのようにして自分が無事でいるのかは皆目説明がつかぬ──なるほどこの厄介な国境線に、容易に辿り着けない地理、アフガニスタン当局でさえこの研究施設を探し当てられなかったのも道理だ。
 だがあの日、施設は恐らく史上初めてのレッドアラートを鳴り響かせた。そして、確かに死に瀕していた静司がその生き汚なさを遺憾無く発揮し、その脚が再び地を蹴るまでの長い時間、セキュリティの総てを我が身ひとつに引き付けた男がいる。リビングのソファーベッドで脚本を読み込む男──それが、名取周一だ。
「起こしたかい」
 いいえ。
 答えようとしたが、何となく静司は言葉を呑み込んだ。またあの時の夢を見たのだと、口にすれば周一はきっと手を止めるだろう。
 愛でるように台本を閉じる骨張った大きな手に、否応なく視線が惹かれてしまう。
「……熱心ですね。また映画ですか?」
「いや、舞台だよ。ベオウルフ──詩的に過ぎて厄介な作品だ」
「ベオウルフ……」
 火のついていない煙草をくわえたまま、周一は此方を振り向くこともない。
「まだ眠っておいで。夜明けにはまだ早い」
 名取周一という男が熱中するものといえば、仕事──でなければ、祓い屋としての裏仕事以外には無いのだと知れば、周一が舞台の台本を手にした時、静司は何故かひどい疎外感に襲われる。
 いったい、相手に執着しているのはどちらなのか。この奇妙に捻れた感傷に囚われるとき、静司は嫌でも己の傲慢さを見せつけられるというわけだ。月の光が太陽の残光とは、よくいったものだと嗤笑するほかはない。
 静司はキッチンへ移り、ストールに腰掛けて頬杖をつく。距離をとって、仮初めの生活圏の全体図を見詰める──過去を悪夢の中に閉じ込めるための、今では儀式のようなものだ。或いはそうでもしなければ常態を保つことができないという意味では、これとて病的な所作であるのかもしれないが。
 リミッターの外れた猛獣のように周一が吼える──ガラスなら容易く割れてしまいそうなあのグロウルを、静司はもう一度聴きたかった。
 あのヒンドゥークシュの険峰で、息も絶え絶えに銃弾の下を掻い潜り、命を拾った道標。動かぬ脚を、代わりに抱えて走った男は、まるで──まるで。
 静司が日常を取り戻して、数日が経つ。
あの研究室で施された措置は、アヘン剤投与に並行した、筋弛緩剤であるパンクロニウムの段階的投与であり、最終的には心筋に作用するように投与量を調節し、落命させるという算段であったようだ。一時は相当苦しい思いをしたが、「neostigmine」──つまりコリンエステラーゼ阻害剤の投与による薬物的拮抗によるものか、幸いなことに命は取り留めた。
 ──それでも、魂は病んだままである。
 そして静司はただ、過去に戻ることに固執する。何度も響き渡る『Intruder alert!』──あの場所には、どれだけの生者が存在し、どれだけの死者が「動いて」いたのだろうかと。あの研究医が語ったそれは、どれだけの精度で実証されていたのだろうか。
 ともすれば例の研究医さえも、「蘇った死者」であったとしても不思議ではない。もしもそういう精度で技術を用いるのだとしたら、それでもそれは「悪」なのだろうか?今では何も分からない。知るすべもない。
 そのような問いがナンセンスだと判っていても──常に変わりゆくヒトという実存の在り方に、正否のモデルなどありはしないと知っていても。そして皮肉なことに、その認知を見詰めるごとに静司は変わっていく。外様には変わらない態度と引き替えに。
 周一の視線がふいに此方を視る。
 時にギクリとするほど鋭く、恐ろしく険峻で、冷徹なほどに燃え盛る、無二の瞳。
 そうだ、この瞳に出逢ったのだ。
 彼の地で、まさか出逢うはずの無かった、この男の。
 ──まるで、孤高の狼のような瞳に。







 それはまさに、映画のワンシーンのようであった。
 さいわい火災報知器は静かなままで、あとは何とか退路を確保して脱出するだけだった。先んじて施設から逃した人物から詳しい地図を貰い受け、既に大雑把な地図は頭に入っている。静司は短い木のつっかい棒を支えに、研究室を脱出した。だが、アラートと共に、数体の被検体が脱走したと無情な電子音声に伝えられ、静司の鼓動は高鳴った。あの研究医は、オフィコルディケプスについて、また死の境界について研究をしている、と述べただけだ。いつから、どのように、どんな規模での研究であるのかの説明は当然無かった。
 だが、恐らくは研究の方向性は常に同じであったのではないかと思われる。「死なない兵士」を創る──確かに狭義ではそれは不可能ではない。「死なない」ことと、「死んでいる」という状態を、同義と見なすことによって。
 だが、そうした言語トリックを使わずして「死なない人間」を創ることはできない。「人間」である限りは死ぬ。死なないものは人間ではない。
 そうした定義と矛盾を、テクノロジーがどう変えていくか、静司はこれに並ならぬ興味があった。人間の愚かさに。愚かゆえに、刮目せざるを得ないこの究極の叡智に。
 死にそうになりながら、力無く足を引き摺りながら、そんなことを考えていた。腕にも力は入らず、棒に胸を載せるようにして移動した。なるほど人間は確かに愚かである。死ぬと分かっていて、こうやって肋を折る痛みに耐えるのだから。
 角を曲がった。設けられていた広いスペースは既に騒ぎが巻き起こっていた。そこで静司は、吸い寄せられるように、ある人物の影を追った。
 スペースには逃げ惑う人々と、幾つかの無惨な死体があり、そして恐らくは数多の返り血に濡れた男に向かって、幾つものライフル銃が向けられていた。
 それが、名取周一であった。
 周一は、月さえひび割れそうな唸り声をあげた。腹の底から絞り出した声を、喉元でねじり切ったような、それはまさにグロウルだった。その異様な轟音は確かにこう叫んだ。
 
 さもありなん、妖は──昏き死の影は、
 総てを滅びへと追い遣らん!
 なれば、我も後を追わねばならぬ!

 静司はことばを失い、そして確信する。
 この男は──出国までの僅かな時間を惜しんで同衾していた男は、わざわざ自分を追ってこの天と地の果てまでやって来たのだ。思い込み?ではこの邂逅を何と証明するというのだ。周一に、この国との繋がりを話したことなど一度もない。恐らく入国したのも昨日今日の話であろう。
 だというのに、森林限界さえ突破した、自然の造り上げたる究極の要塞「バーム・エ・ドゥニヤ」でさえ、この男を阻むことができなかったのだ。周一は丸腰だった。だが、1発の銃弾も受けていなかった。
 静司は力を失って、いよいよ床に倒れ込んだ。
 その事実に対峙する感慨は無形の炎のようにゆらめき、吼え声に共鳴するように浮かんだ熱は、静司の内側を確かに焦がしていた。
 どうにか這いずる腕に、力はまるで入らない。一体自分にいかなる措置が施されたのかが分からなければ、解決のしようがない。まさか、わけのわからない薬とビタミン剤でどうにかなるとは到底思えなかった。死ぬかもしれないと覚悟しつつ、それらを飲み下した。
 静司はなおも床を這った。下半身が濡れているのが分かった。その感覚すらなく、静司は失禁していた。最悪だ。
 舌打ちすらできない──そこで漸く、自分に一体どういう類の薬物が投与されたのかが予測された。だが、それによって自分が果たして危険な状況にあるのか、判別することはできない。
 ただ判るのは、かの咆哮の獣こそが、己のまことの守護獣であるということであった。
 硝煙臭と血臭に混じって、苦味のある酢酸臭が流れてきた──アフガニスタンにはありふれた、アヘン臭だとすぐに判った。続いて影が落ちてきた。自分の前に、髪を振り乱し、姿勢を低くした周一が、煤だらけになり、両手を広げ、片膝をついて立ちはばかっていた。







 オフィコルディケプスに関する研究は、外部から寄生させた菌のはたらきをコントロールすることによって、快・不快程度の自我を保ったまま人間を操ることが可能なレベルまで進められていたという。
 とはいえ理論上の可能性は秘めてはいても、事実上個体の自我の快復は不可能であり、実際には致死と同義である技術であったとも言える。被検体の幾つかは言葉での意思の疎通が可能であったというが、あくまで偶発的な事例であるならば、特殊な症例として処理し、記録する以外にないだろう。
 周一はどうやら、あの隠匿された空間で、米兵も研究者も被験者も、見境なく殺傷して回っていたようである。米兵は当然応戦したが、訓練もなく何年も研究所に閉じ込められた兵隊に、為す術も無かったというのは面白い話だ。幾ら慢性的な訓練不足とはいえ、彼らは軍人で、周一は祓い屋であることを大目に見ても、ただの一般人に過ぎないというのに。
 とはいえこれらは現地の生き残りによる情報で、詳細については不明である。恐らく目的は静司の捜索で間違いなかったのだろが、生き残った不運な米兵のひとり──現代のスノリ・ストルルソンが、彼を「Berserk」と表現しているという。








 かくして、静司の精神は未だ不安定なままだ。
 果してどこが不安のトリガーであったのか、今ではもう判らない。たとえば、施設内で行われた実験が薬理的に尾を引いているのか、或いは数多の人間の運命を決した己の存在に詮無い罪悪感を抱いているのか──。
 理由をひとつに還元するのは今となっては不可能だ。そしてまた、そのいずれもが部分的な真実なのだろう。認識上の是非に、事実ということばは余りにそぐわない。
 結局のところ、原因と結果の因果関係に煩悶するのは、裏打ちの無いつまらぬ無謬性に固執する無い物ねだりの恣意に過ぎないと、静司は知っている。知っていて固執せざるを得ないのは、ほかの手段を知らないからだということも。
 そしてまた、巷には優男で知られる名取周一という男の不透明さに怯えていることを、決して言えない自分が口惜しい。
 嵌め殺しの窓の外に、無音の光が縦横する。泣き叫ぶような懊悩にも、世界は当然のように知らん顔だ。
 だが、平然と世界を置き去りにする男は嗤う。病み疲れた静司を、やはり平然と囲い容れた真意を語らぬ薄い唇が静かに歪む。
「君は相変わらずの石頭だな。──死に怯えるのでもなく、生に倦むのでもない。ただ、君は自分の知らないものを恐れている」
「……どういう意味です?」
「きみの中の予定調和に訊いてみるといい。きみは異質で強すぎるがゆえに、その強さはあまりに硬すぎて脆い」
 そう呟いた周一は、確かに一見愉快そうにも見える。だが、静司としてはそれが不可解なのだ。
「……あなたのような人格破綻者にご高説を頂戴するとはね」
「ふふ」
 些細なことのように嗤う──この男は、息をするように豹変する。
 そう、きっかけがあれば。
 機械のように──いや、魔法のように。
 幾度目か、周一はまたしても笑った。此方を見ていたが、うまく目を合わせられない。
「目的があれば、人は何にでもなれるのさ」
 ──ギクリとした。
 聖痕が手のひらに現れる理由も、まさに目的があればこそ。かつて威光のためにムジャヒディンを名乗った者があれば、いかなる名も名乗るべくもなく狂戦士となる者もある。人間というブラックボックス──その恣意的な変異に、既存の知性は何の力にもならない。
「もう一つ言えば──膨れっ面をしていれば周囲に察して貰えると甘ったれているのが、きみのどうしようもないところだ」
「……」
 いつもならば、嫌味は嫌味で返すところである。だが、今は歯に衣着せぬ言い様が静司の耳にいっそ心地よい。裏を返せばどれもこれもが、知っていながら蓋をした、不都合な真実であるからだ。命を拾いあげるように地を這ったからだは、本当は何をも置き去りにしてはこなかった──ただ、かの忘らるる都から連綿と続く因果は、都合のよい不可視を可視化させ、静司の眼前に突きつけたに過ぎない。変異と狂気。ああ、我が愛しのベオウルフ。
 畢境、命綱も、まっとうな人との絆も持っている周一がそれでも孤高に見えるのは、架空の無謬性になど固執してはいないからだ。そしてまたそれだけに、この男の前では稚拙な自衛など何の意味も持たない。
 ──こんな、空っぽな、強さなど。
 舌に広がる血の味と、炸裂する銃砲の閃光と。濃厚な血臭に混じる、鼻につくアヘン臭。
 そして、ただひたすらに静司の名を呼び続ける──遠くて近く、低くも深き韻律。

 五感。
 そのはじまりを、静司は聴く。

 遠く中央アジアにまたがる世界の屋根に響いた轟然たる激烈な咆哮が、今でも耳の奥に残る。平穏に生きることなど既に考えてさえいないけれど、禍福をはかるのは何と困難な事であろうと。
 瞼が煮えつくような眩しい夜明けに、死に狂いではもはや間に合わぬと、漂泊の焔が静かに疼いた。あの乾いた大地がひどく懐かしかったが、もはや今後いかなる要請があろうと、懐かしいカブールの土を踏むことはないだろう。かの魔女はもう、とうにこの世にはいないのだ。
 急に、背後から抱きしめられた。
 言葉とは裏腹に、懸命な腕に抱きしめられた。
 俳優の手は傷だらけだった。
 あの日、アフガニスタンに渡ってから、11日が経過していた。




  立つこと。
  空中の、
  傷痕の影のなかに。
  誰のためでもなく──何のためでもなく
  立つこと。

  識別されず、
  ただ
  お前だけのために。

  そこにあるすべてとともに、
  言葉も持たず。

  ──パウル・ツェラン




見棄てられたる荒野の物語

2021/11/12名取周一birthday特別編


名取さん後引継ぎで終了です!
恋に仕事に今年もご苦労さまでした!


【了】


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