遠雷のうちに


 初春の空に、稲光り。
 まだ遠い朝雲りの中に輝く綺羅に、手を延ばしたら、ヒヤリと冷たい硝子に遮られる。
 3月の空は、冬とはもう明らかに違う。冬のあの何ら憚りのない厚かましいく分厚い冷気は、あっという間に過ぎ去ってしまった。また季節をまた逃してしまった──そんな気持ちがどうしようもなく煩い。
 静司はベッドにうつ伏せに寝たまま少しばかり身を乗り出し、殺風景な何も無い出窓に白い腕を這わせて、いずれ此処にも立ち込めるかもしれない遠い雷雲を、てのひらで掴もうとする。春の始まりを告げるかのような、さきぶれのようなそれを。
 背後から、その手を掴まれる。温かい。確かな人の体温に胸が跳ねるように高鳴る。すべてを忘れた振りをして。心臓の奥が、ギュッと痛くなる。
 幸せを願う──これがその気持ちなのかもしれないと思うと、途端に肚裡がうずくように重くなる。まるでそれは、数多のものを唐突に切り捨てて、己のためだけの生を歩もうとしているかのように思えたからだ。それは、もし願うだけという些細な未払いの幸せを差し引いてしまったならば、残る願いはもう自分の足元すら照らしてはくれないだろう。
「君は雷鳴には怯える癖に」
 心身を包み込むようで、魂に入り込むような、掠れたウィスパーボイス。この声は、いつも静司の奥深くを抱くように響く。
「遠雷には惹かれるの?」
「……だって、ほら、すごく綺麗ですよ」
「昨日の情熱はもう行方知らずか」
 静司は、一筋の髪を手に取ってキスをした周一の手を振り払わなかった。
「……こわいものは、大抵が綺麗だから困るんです」
 意味深な笑みは、周一には見せない。寝乱れた頭に口づけられた時の法悦も。見せない。共有してはならない、恣意的な境界線がそこにある。
 僅かな力で引き寄せた手を、静司は背を向けたまま自分の心臓の上まで滑らせる。乾いてゴツゴツした熱いてのひら。大きくて、まるで太陽のような。
 そう、春の乾いた太陽。周一の手は大きくて熱いのに、真夏のような厚かましさはまるで無い。これから少しずつ温かくなっていくものを連想させる熱は、静司には不安の象徴でもあり、この世の真理を表しているようでもあるように思われて、そこには安堵と共に泣きたくなるような無常さえ感じる。
「こわいものはみんな綺麗でしょう?雷も、火も、星も──闇に浮かぶ満天星、何処一つとしていのちの住まわる場所はなし」
「なら、君もそうだな」
「口説いてるつもりですか?」
「もちろん」
 ぐ、と背後から裸身が密着する。熱い。
 互いの骨ばった身体の間に、一瞬でそれとわかる熱が挟まる──静司の瞼の奥に、ぶわっと火花が飛ぶような錯覚が弾ける。
 肩口が、まるで出血したかのように熱くなる。ただそこに唇を寄せられただけで、容易く一糸まとわぬ裸身がわななき、堪らずにビクンと仰け反る。
 ──遠く、稲妻が光る。澄んだ網膜が、それを捕える。
 しかし、先ほど感じたような、閃光への畏怖と呼べるようなものはもうない。
 密着した二つの身体の隙間に、不意に入り込んだ肉々しい淫らな剛直が、局部に触れないぎりぎりの場所で前後する。
「あっ……」
 堪えられずに、声が漏れる。
「ちょ、何で勃ってるの……周一さん」
「雷鳴になってしまったら、もう君を抱けないだろ」
「どうして?」
「君を抱き締めていないといけないから」
「……!」
 身体が熱くなり、頬が退紅をはく。ずくん、と静司の下腹部が重くなる。
 いつか話したことがあっただろうか?それとも、平然とやり過ごす中で、雷鳴に臆する心音を聴かれたことがあったのか。
 自分に、これほど弱い的があるとは、静司は己がことながら知らなかった。それ以上に、快楽でない情の繋がりに対して、こんなに自分が脆いとは。
 太腿の間に、ゆるゆると前後する性器の硬さに──もうそれだけで気を遣ってしまいそうだ。肩越しに見たその瞳は、何故かいつもより色濃く感じる。劣情に濡れているその眼が今、この瞬間だけでも、自分しか映していないことに、静司は激しい愉悦を覚える。
「キス」
「うん?」
「……キス……したい」
 下唇を噛むようにして懇願する。その願いは、すぐに濡れた熱で塞がれる。唇をはみ、舌で愛撫したあと、ぬるりと濡れた舌が入ってくる。
 その舌は、しばしば静司を残忍に支配したがる連中とは違う。蹂躙しようとする彼らの欲望とは違う。彼は、舌でさえ静司の心を探ろうとする。言葉を交わすように、キスをする。ここでは戦わなくていいのだと、静司を安心させるかのように。
 それはきっと、欲望の捌け口としては物足りない。何故なら──そう、言うなれば、ファックではないからだ。だから、視線が絡むとそれだけで背中が粟立つ。欲求と恋慕がせめぎ合う絶妙なところを知っていて、彼はこんな駆け引きをする。
 普段、周一との噂になる女優たちが、このことを知っていたらきっとショックだと静司は素直に思う。でも、きっと彼女たちは、優男の皮の下にこんな男がいることを知りもしないだろう──それらは憶測だけれど、静司は真実だと信じたかった。
 大きな手が、胸から腹へ、腹から臀部の割れ目へと、ゆっくり、ゆっくりと移動する。そして、その部分を割り広げ、先走りに濡れそぼった鈴口が体内への入口をノックする。
 武骨な指が、左右両方から玉門を押し広げると、昨夜の名残がドロリと糸を引く──その羞恥に目眩さえする。でも、何もできない。ただただ行為に身を委ねること以外には。
 昨夜、情を交わしてからまだ僅か6時間余りだ。とてもそうとは思えない屹立が、透明な涎を垂らして再び静司の体内に入ってこようとする。その浅ましさ。貪欲さ。獰猛さ。剥き出しの雄の欲望。
「挿れていい?」
「……訊かないで」
「分かった」
 それは、じっくり味わうように、静司の中へと入ってきた。昨夜の残滓と先走りが混じり合い、硬くて熱いものに押し入れられ、静司のそこは性器のようにそれを締め付ける。自分でもコントロールできない淫乱の性が、自我を離れて暴走する。
「あっ、ぁああ……ッ!!」
 挿入と同時に静司は達した。一度も静司自身には触れられてはいないのに。
 しかし、静司を背後から抱き締めたまま挿入した周一は一向に動かない。どうしたらいいのかも分からず、激しいもどかしさに半開きの唇が震える。
「静司、緊張しないで。大丈夫だから」
 そう囁くと、周一は奥に入ったままのペニスを、筒押しするようにして腰を揺らす。まだ抜き差しされているのではないのに、ぬちゅ、ぷちゅ、という卑猥な音が奥深くから漏れる。
「はッ、ぁ、あぁ…!」
 体の奥から所在の知れぬ熱が溢れる。
 周一の動きは依然緩慢なままだ。しかし、僅かに動く度、目の奥がチカチカするほどの、わけのわからない快楽への深みへと堕とされる。ただ、腹の中深くに潜り込んだ性器の重さが、物質的な存在感と共に、精神的な喜悦の蕾を花開かせる。
 じっくりと腰で円を描くように、それは動く。
 性愛は究極の現実逃避などと言う人もいるが、静司にとっては唯一の現実との接点だ。その唯一の内訳、心の内を知らず、なお知りたい相手とて1人しかいない。
 ──今までも、きっとこれからも。
「んッ……あん、あ、ぁ」
 それはどこまでも深く入り込んでくる。抱かれる静司の後孔も、どこまでも肉棒を受け容れる。じっくり時間をかけて愛撫された身体は、どこもかしこも過敏な快楽の壺のようだ。じっとしていると思えばうねるように奥を抉られ、またその緩急は、静司を正気と狂気の狭間でぐちゃぐちゃにしてしまう。
 背中から抱かれながら、互いの舌が不均衡に絡まり合い、もはやどちらのものかも分からない唾液が唇から滴り落ち糸を引く。その間にも、静司の腹の中に収まったペニスは太さを増して、なお柔らかく内側を愛撫し続ける。こんな──こんなふうにされたら、もう。
 最奥で円を描くように愛されながら、周一の熱い手が静司の薄い胸を撫で回す。目が回るような手管にいよいよ視界が明滅し、思わず仰け反った静司の秘部が、プシャッと音をたてて潮を吹いた。
「……ッ!」
 息が止まるようだった。
 いや、実際、数秒は呼吸が出来なかった。
 それが快楽であるのかさえ判別できない、強烈な感覚の波。まるで遠いと思った遠雷が、急に目の前で閃光したように。
 ──男の潮吹きは、放尿だと何処かで耳にしたことがある。確かにそれは間違っていないのかもしれないが、感じたそれは、射精と放尿が同時に起こったような感覚で、うまく言葉に出来ない、感じたことのない激しい波だった。
「……凄いね、潮吹いたよ、静司」
「うっ……そ、なんで……」
 シーツを汚した液体は透明だ。精液にも、尿にさえ見えない。
「女の子みたいだな。ここも……男が悦ぶ動きを知ってる」
 思いのほか低い声で囁かれてゾクリとした。『女の子』に深い意味があるのかは分からなかったが、自分にこんな真似をしておきながら平気で女を抱く周一に、背徳的な劣情さえ感じた自分はきっとどうかしている。その理由もやはり分からなかったが、周一をして『女の子みたいだ』と称された自分の身体が、たまらなく淫らなものに思えた。自分の淫らな性自体は自覚していても、周一とはどうしてもバランスが取れない。
 一気にグッと奥を突かれた瞬間に、静司は身体を震わせながら再び絶頂した。まさかの3度目に、さすがにもう出るものは無かったが、その激しい締め付けで周一も同時に果てたのが、首元にかかる息づかいで判った。
 静司の腹に、熱いものが蜂蜜のようにねっとりと注ぎ込まれた。頭はもう真っ白で、思考は完全に停止していた。ただ、荒い呼吸だけが必死だった。
「…………ね、周一さん」
「うん?」
 まだ興奮が引かない。頭が痺れて、まるで無痛症になってしまったようだ。何を言うつもりだ、と理性の破片が静司を引き留める──だが、その声はあまりに小さい。
「やっぱり、女の子……の、ほうが……好き?」
 肩越しに見た周一は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、すぐに真意を理解したように破顔した。
 優男。
 そんな風に表情をかえるんじゃない。
 彼の表情は狡い──ハンサムだとか、芸能人だからだとか、そんなことじゃない。静司にとって、その表情の、時に妖の影さえ行き来するその変容は、劇薬のように作用する。それはたとえば、出逢った頃よりずっと垢抜けて、大人の男になったことも含めて──そこには隔たった時間の分だけ、静司の知らない貌が隠れている。落ち着いた所作からは、もうあの頃のたとたどしさは垣間見えないけれど、今でもどこかにそれを抱えていることも。
「……君が好きだよ」
「……」
「君がいいんだ」
 そう言って、また髪に口づける。
 はぐらかされたと考えるべきのか、言葉のままに受け取るべきなのか──そこで躓いてしまうほど、静司の周一に対するアンテナはあやふやだ。周一自身が抱える葛藤や迷いに対してはほとんど圧力に近い鋭い眼を向けるにも関わらず、周一から向けられる感情に関してはいつも丸裸のような静司は、羅針盤を持たない航海士のようなものだ。
 まるで、互いの尾を噛み合う不毛な輪。
 ベッドに倒れ込むようにして、周一に抱きすくめられる。これははぐらかされたと考えるべきなのか判断もつかないまま、静司はいまだ周一と繋がったまま、互いの身体のこわばりが解れていくまでそうしていた。
「ほら、一旦抜くから、力を抜いて」
「嫌だ」
「中で出したから──そのままだとお腹を壊してしまうよ」
「別にいい」
 恐らくは駄々っ子のような静司のふくれっ面だったろう。周一は小さく声をあげて笑った。
「……姫様。私の愛しい姫様、今少し、この哀れな従僕に、ひと口の水をお与えくださりませぬか」
 唄うように、周一が優しく手のひらで静司の背中を叩く。涙やけしたふくれっ面が、微笑にかわるまでの僅かな間。
「……よかろう。苦しゅうない」
 どうやら、姫君と従僕は蜜月のようだ。
 周一がキスをしながらゆっくりとペニスを静司の腹の中から引き抜くと、白い液体が跳ねて、静司の真っ白な太腿に華のように散った。
「あ」
 周一のペニスはまだひどく硬かった。
 視線が合うと、どちらともなくまた唇を重ね、互いに身体を引き寄せ合う。あまりに離れがたい。溶けてしまいたい──途切れたなら拳の内に心を潰しても平静でいられるのに、刹那の熱には身悶える。そして、いつも悪魔のように暴力的な、時間の一方向性はどんな錨でも繋ぎ止めることはできない。
 間近で見る周一の貌にだって、確かに見惚れているのだと、静司は腹を括った。それは、いっそすべて忘れてしまいたいくらいに、どうしようもなく。
 静司は薄く眼を伏せ、腫れぼったくなった薄い唇を吊り上げた。

 何だ──こわいものは、やっぱりみんな綺麗だ。

 その胸からは、優しく温かい音が聞こえる。同じくらいに優しく、刹那の繭に籠って夢見た永遠が溶けていく。闇の世界に生まれた自分たちの宿命──また途切れる、その瞬間に向かって。
 遠くで、いずこかに流れていく最後の遠雷の名残りが聞こえた。
 春は、もう近い。



【了】


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