人間は、何かひとつの想いだけを、同じ形でひたすら抱き続けることができるのだろうか。

 たとえば『白鯨』のエイハブ船長は、片足を奪われた憎しみを執着にすり替えた。彼が自ら望んで死んでいったようにさえ思えるのは、たとえ今更かの白鯨を伐ったところで、もはや復讐に命を賭けた彼に残されているものは何もないからだ。
 彼は家庭をもっていた。妻子があった。それがどれほどの重みであったかは判らない。だが、選択肢を有しながらなお、彼は暴君のように、死の瞬間のために生きたのだ。死に逝くために、ひたすら憎しみに執着し続けて。
 たとえそうまでしたとて、ひとつの想いだけを、彼は同じ形でひたすら抱き続けたわけではあるまい。想いは時に歪に形を変えて、ある時感じたままの鮮烈な感情は、やがて時と共に褪せていったろう。それは多分、しがみつこうとすればするほどに。彼の義足は何故、きわめて不便なマッコウクジラの顎骨であらねばならなかったかが、その答えのすべてをなし崩しのようにもの語る。
 白鯨モビィ・ディックは、彼の運命そのものになり、彼の人生そのものになり、やがては彼自身になる。まるで、狂った愛のように。
 彼は自分が、世界に見棄てられた孤独なドン・キホーテであることを知っていただろうか。






 孤独であることと、
 愛することは、
 よく 似ている。

 そして 時には、
 その違いさえも、
 見えなくなる。







「こっち来いよ静司」
 微妙に脛毛が濃いM字に開いた脚の間にしどけなく滑り込む静司は、まるで浜に打ち上げられた人魚のようである。
「──私を抱きたいと言ったのは君だろう?」
「……」
 朝っぱらから、大の男が二人ベッドの上。
 要は男同士の好いた惚れたである。突くも突かれるもあるまいと。そう言ったのは静司のほうであるが。
 ──思えば、誕生日には酷い目に遭ってばかりいた。時には静司の悪戯心から、死ぬような目にも遭ったものであり、金輪際この男には関わるものかと誓ってなおこの始末である。爾来、誕生日とは厄日であると承知している。ケツの穴で済むなら安いものではないか。
「同意で男に抱かれるのは初めてだがね」
「!」
 斯くて、何を言われたのか判らぬような顔をして頬を赤らめた静司である。どんなにかこんな不埒な計画はフイにして、朝まで可愛がってやると考え直すべきだという内なる弁護士が五月蝿かったことか。
 ──それにしてもだ。
 肚の底では、いつか人も無げな静司の胸の裡を暴き立てたいという気持ちがあったし、多感な時期を共にしただけに、その想うところも大きい。相手をいとおしいと思うのが、丸きり自分の一方通行ではないという手応えくらいはある。
 抱いて寝るのが、抱かれて眠るのに変わっても、あっさりと承知できるくらいには。






 背後から抱えあげるようにして、静司の熱くて固いモノが、肛門近くににあてがわれたのがわかった。
「……っ!」
 ──細っこいくせしてなんて力だ。
 にちゅにちゅと卑猥な音をたて、静司は自らの先っぽで、私の快楽のツボを探りだすように、縁取るような仕草で円を描くような動作をゆっくりと繰り返す。
 最初はそれを反復していた静司は、私のペニスと自分のペニスを擦り合わせると、それを適度に硬い、けれども滑らかな手のひらで揉み合わせてくるのだが、それときたらもう、ひたすら身体から来る刺激にひっぱられるようで、たまったものではない。
「……んっ!」
 それを無言でやり過ごそうとするのはまさに無駄な抵抗だ。因果なことに、男の身体こそが、快楽に抗えぬようにできているのだから。
 ──気持ちいい。
 段々と膨らんでいくペニスが静司の手からこぼれ落ちて、びっくりするほど大量のカウパーが、二人の間でまざりあう。顎を捉えられ、やんわりと下唇を咬まれると、もう開かずにはいられなくなる──けれども、此方が観念して、強く静司の薄い唇を奪うと、不敵で切れ長の瞳が一瞬真ん丸になる。
 この男は、時に娘のような貌を見せることがある。
 ヌチャヌチャと鳴り響く淫音が生々しく猥褻で、ペニスを擦り合わせている淫らな非現実に、正気なら堪えられそうにない。生殖を伴わぬ性的快楽は、性を必要としない瞬間の実存だ。女のような悲鳴で、私は切れ切れに喘いだ。
 暫くの間、静司を抱いていないせいか、貪欲に瞬く間に張りつめた淫嚢は、中身を出したくて仕方ない様子である。
 でも、許してくれない。指相撲でもするように絶妙なタイミングで緩急をコントロールする静司に、見事に射精を抑えられる。アドバンテージは、確実に向こうにある。
「すごい、いっぱい出てる……おれのと混ざってどっちのかわかんないけど……ねぇ、こうやって擦るの、気持ちいい」
「……焦らすな。もう……」
「もう?」
 ──もう十分、入れられるくせに。
 存分に弄んだくせに。
 どうして、
 ……どうして、
「挿れて……、く、れない…っ、静司、静司ッ…!」
 仰け反る周一の首筋に、静司の唇がむしゃぶりつく。
「ごめんなさい、周一さん、ごめんなさい、おれ、周一さんが可愛くて…」
 そうする静司のほうにも、もう余裕は無い。
「可愛くて堪らないんだ…!」
 抱き締めてくる身体を、強く抱き返す。射精感を諫めるのに、思い付くのはこれくらいしか無いからだ。

 ──お願いだ。早く。
 でないと、私は、

 一瞬の隙を見計らって、腰にグッと力を込める。そっちが及び腰なら、悦ばせる方法はこっちだって十分知っていることを、その身体に思い知らせてやる。
「わ、周一さん…!」
 静司にしてみれば不意だろう。静司を横に転がすようにして、次に上になった自分が静司を抱き上げるようにして身体を持ち上げると、静司が私に乗り掛かる体勢になる。
 静司と目が合う。唇が近づく。
 あとはむしゃぶりつくように、互いの唇を、舌を、吸って、蕩かして。
 リードしてやると、どんどん私の中に、静司が入ってくるのが判る。
 まだ浅い繋ぎ目から、透明な液体がどんどん溢れ出してきて、太腿を伝って流れてゆく。
 まずは浅い所でゆっくりと。愛撫するように雁首を出し入れする。互いに刺激の強い箇所で、じっくりと互いを味わう。
 次第に深く。静司の身体は、愛し方を知っている。
 それが深く、身体の奥まで。
 奥の奥まで。
「あっ、あっ、あっ…んっ!あっ、……はぁっ!」
 ゆっくり上下するたびに、私の肉壁が静司の性器にねっとりと絡みついていく。
 そうして、互いが互いのものになる。まるで最初から、そうであったように。
「あっ……んっ!」
 硬い尖端が、私の身体の奥に行きあたる。
 気づかない間に、ぎゅっとシーツを握って、静司が応えきれない快楽をやり過ごそうといきんでしまうのは、抱くよりも抱かれ慣れているからだろう。それが意図された誘惑ではないことは明白だが、これには思わず微笑がこぼれてしまう。
「……そんなに気持ちいい?」
「ばっ……周一さ…!」
「いいんだよ。可愛い」
 ゆっくりと、リズムよく、奥の奥まで何度も突き上げられる。
 次第にピストンがどんどん早まって、思わず逃れようとする私の両足は、しっかりと固定されてしまう。けれどもこの拘束感さえ、強烈な刺激になる。
 動きを封じられて、どんどん激しくなる静司の動きの全てがのし掛かってくる。さほど女を抱き慣れているようでもないその愛撫は、不思議と少しも苦痛ではなかった。
「……周一さんの中、熱い」
「あたりまえだ……内臓だからな」
「ばか、色気無いの…!」
 静司の届く限りの最奥を貫かれると、息苦しいほどの重量を感じさせられる。思わず舌なめずりをして、なるほど、毎回互いにイイ思いをしてるわけだ、と妙な納得をしてしまう。静司の背中を抱きながら、汗みずくになった頬に、細い髪が貼り付いた。
「……う、く……」
 静司がペニスを抜き差しするペースが速くなっていく。紅をはいたような白い頬に、骨張った細い喉が仰け反る。武骨な喉仏と、意外なほど鍛えられた僧帽筋──ああ、綺麗だ。静司。いつも不可解におもうほど、過剰に女であり男であるヘロマフロディトス。


 視線が絡み合うと、静司の瞳がふいに緩んだ気がした。すぐにでも意識が飛んでしまいそうな快感、喜悦──それだけではない感慨が紅い瞳に宿る。


 死に急ぎ、
 君はエイハブ船長のように、憎しみを杖にして生きている。なのに、君にとって伐つべき悪魔の化身はいない。追うべきモビィ・ディックは存在しない。
 ──だから。
 だから、私は。


「周一さ……も…イキそう…!」
 低く呻く静司が奥深くで腰を押し付けると、震える私の躯がグッと締まる。
「イク……!」
 静司は一気に、私の腹におさめたものを抜き去った。粘膜がこすれあう音と共に、腹の上に熱い粘液が大量に噴射され、青臭い匂いが広がっていく。

 少し遅れて私が達するのを見ると、静司は訝しいほどに、快楽からは遠い、穏やかに冴えた瞳で私を見ていた。
 ギクリとした。
 私は──

 ひどく眠くなった。

 それは射精の倦怠とは違う、異様な眠気だった。直ぐに判った。
 術だ。静司の術に嵌まったのである。
 だが、そう感じた時には、それを認知できる段階には無かった。私は昏睡し、そして時間が流れた。








『頭主は今朝からある大妖を狩りに出たまま、まだ戻らない──名取、お前、一体何をしていた?二度ばかり鳴らしたんだがな』

 ──午後7時である。

 頭が重い。二度鳴ったという電話には、まったく覚えがない。
 七瀬女史は現在、的場本邸での待機を命じられたままだという──。話がよく呑み込めなかった。
『的場からの連絡は無かったか?』
「連絡とは、どういう意味です?」
『……無かったのだな?ならば構わん』
「待ってください七瀬さん。此方は構います。話してください、何があったんですか?」
『……お前に話すことではない』
「静司は確かに来た。うちに来たんです」
 七瀬の口調が変わった。
『なんだと?』
「でも、私は何の話も聞いちゃいない。静司は何も言わなかった」
 七瀬は暫く考え込むようにして言った。
『……まあいい。だが、現時点での他言は無用ぞ』

 ──七瀬の話はこうだ。

 かつて自分が住んでいた名取邸に程近いある神域の御神木の一本の枝に、大層よこしまな大妖が取り憑いたという。
 その妖は疫神であり、祓うにも近づくにも危険があった。御神木に宿っていた土地の守り神は穢れ、意思の無い邪悪な妖と成り果てたという。
 何より妖の正体が疫神であることが公になれば、祓い屋間でもパニックになりかねまじい。ゆえに的場家に、早急な事態収拾が求められたのだ。
 静司は一人で行くと告げたという。人海戦術が有効な場合もあるが、時として弱いものは邪魔になる──あらかたの命の保障が無い場合、その判断は正しい。
 ゆえに七瀬は水を向けた。
『厄介な仕事の相棒は決まっているのではないか』と。
 相変わらず勝手な話ではある。
 ──しかし、静司は此処へ来て仕事の話など一度も口にしなかったし、それらしい素振りも見せなかったことから、最初から自分を連れ立つ考えなど無かったのではないかと思われる。
 朝早くにケーキを持って現れて、誕生日おめでとう、朝っぱらかベッドへ行き、それでこの時間までぐっすり眠らされていたことには、明白な作為性を感じる。


 ──どっちだ?
 事後か?
 事前か?


 当然静司は意味の無いことなどしない。効果を狙うとしたら──いつだ。事後か、事前か。
 ──溜め息が出た。向こう側で七瀬がまだ何か話していたが、もはや聞き取ることはできなかった。

 ──事前だ。

 つまり静司の行動は、仕事に入る事前の効果に注視されたものであったと考えられる。
 七瀬は静司の安否を懸念して提携の提案をしたのであるはずだ。ならばのちに七瀬が独自に手を回すこともできるのだし、実際彼女はそうしようとしたのだ。だが、自分は眠っていて気が付かなかった。静司はこのホットラインを切ってしまいたかったのだ。
 目的が事後にあるとすれば、実際に考えられる要素は余りに少ない。もし自分が静司自身が調伏をしくじった時の代理人だというならおかしな話で、それこそそんなものは誰でもよい筈であるし、第一そうなのであれば、それこそ事前の示唆がなければおかしい。まさか妖を捕らえて、誕生日プレゼントにするつもりでもあるまいに。
 それを敢えて──奇矯な根回しを決起してまで事件から遠ざけようとした理由は。逢いに来た理由は。この体を抱いた理由は。

 指が震え、奥歯が軋む。

 けれど、責めることはできない。もしも自分がその立場にあれば、方法は異なっても、同じ行動を取るだろう。何しろ敵は疫だ。静司を喪う恐怖があれば、まともに戦うことなどできはすまい。喪う可能性──その蓋然性の数字であれば、疫であろうがほかの災害であろうが違いは無いが、理屈抜きの恐怖がそこにはある。
『……そうか。そういうことならば』
 まったく動揺の無い、落ち着いた様子で七瀬は言った。
『お前を残していったのなら、十分に勝算があるんだろう』
「………」
 ──そうだろうか?
 自分の考えは只の、のぼせあがった思い上がりなのだろうか。
「あんたらは、静司を買い被り過ぎじゃないのか」
 七瀬はフンと鼻を鳴らした。
『馬鹿におしでないよ。的場の頭主が思い切りの悪い腑抜けのような真似などするか。アレは、お前が考えるよりずっと冷淡だ。真に勝算が無ければ是非もなく連れていっただろうよ』
「……そうでしょうか」
『ただプロは、100%とは言わないのさ』
 七瀬は淡々としていたが、いつもの人を食ったような様子は無かった。それは彼女なりの思い遣りだと知っていた。七瀬という女、煮ても焼いても食えない弥勒三千の姥桜だが、性根の腐った人間ではない。

 通話を切り上げて、私は途方に暮れる。

 人間は時折、思いがけない相互作用で、何かひとつの想いだけを、同じ形で抱き続けることができるのかもしれない。
 それは憎悪ではなく、愛という形で──ほかの誰にも理解されることのない、固有の愛という形で姿を見せる。
 あの、別れ際に見た、穏やかに冴えた瞳。
 静司の憎悪は、エイハブ船長と同じ行き先を辿って執着に成り果てる日が来るかもしれない。
 だが、愛はどうだ。彼の孤独はどうだ。変じたならば本質もろとも名を変えてしまう、この結んだ手の温もりは。

 ──今更追っても詮無いものか。

 判っている。それでも立ち上がる自分の──執着が賤しく恨めしい。やはりただの厄日だ。ろくでもない凶事だ。
 信用を得られなかった末のことであるとは思わぬ。それでも、ああ──そうだ。いつか仄かな友宜を結んだ在りし日のように、孤独を塗り潰し、地を蹴って跳ぶ力があったのは、静司、君が居たからだ。歪めど、私がせめて光射すほうへ歩いてきたのは、反面教師の君が居たからだ。

 そしてそれは静司にも、時として身に覚えのあることだったのではないか。互いの存在云々ではなく、取り巻く世界が変わっていく──そう、歪み無き世界が歪んでいく不安に抗いながら、闇の中で静司が支えにしたものとは何であったかは知らねど。

 ただ、私は確かに知っている。
 君が追うべきモビィ・ディックは存在しない。

 ──だから。
 だから、私は。
 孤独な君を、愛した。
 共に歩めずとも愛さずには居られなかった。腕に抱かずには居られなかった。掴めぬものを掴もうとする手に、指を強く絡めずには居られなかった。滑稽で傲慢な、恋の駆け引きを繰り返す馬鹿者を演じずには居られなかった。静司の運命を開く鍵は、自分にはないという不安に怯えながら。
 けれども今朝、静司が持ってきたのは5、6号はするホールケーキだった。まさかあの意地汚い静司が、これを丸ごと一人で食わせてくれるつもりであるはずがないと──そう思いたかった。

 静司、君は今でも孤独なままだ。
 七瀬は勝算だと言ったが、それ以上に、人が持つただの気後れではなかったか。独我というひとつの真理から永遠に進むことも退くこともできない孤独な鴉。それは信念でも何でもなく、唯一者の単純な真理だからだ。






 エレベーターホールまで走っていくと、上階からエレベーターの下降音が聞こえた。苛々しながらボタンを何度も叩きつけ、人の気配がするやさっさと階段に鞍替えする。
 不審なまでのスピードで駐車場まで走ったものの、車のキーがないことに気付き、半分発狂しながら身体中のポケットに手を突っ込んでいる様はまさに鬼形である。
「主様、私が」
「済まん──頼む」
 笹後に諫められ、軽く正気を取り戻す。まるで、塞き止められていたパニックが、怒濤のごとく押し寄せてきたようだった──落ち着け、落ち着け、落ち着け。無事だ。静司は無事だ。
 エントランス付近で靴を鳴らし、吸いたいわけではない煙草を取り出したはいいがライターがない。フィルターを噛み、街灯が照らす靴下の左右が逆であることはどうでもよかったが、こうなるともう冷静な判断など不可能であった。
 この永遠のような待機時間の中、ふいにタクシーがクラクションを鳴らした。斧で廃車にしてやろうかと睨み付けると、後部座席の窓が開き、そこから小穢く汚れた美貌がひょっこり顔を出して手を振ったのだ。

 ──静司である。

 何が起こったのか、実際わけがわからなかった。
 ややあって、運賃を支払ったのか、後部座席のドアが自動で開き、土に汚れた静司が飛び出してきたではないか。
「せ……」
 排気音も無く颯爽と走り去ったタクシーが残した逆風が、二人の間を別つ。静司は汚れた着物をポンポンと手ではらい、これはどうしようもないと判るとちょっと悲しそうに苦笑した。袖は、ちょうど木登りからずり落ちたように擦りきれていた。
「ただいま戻りました」
「………」
 ──ただいま戻りました、だと?
 帰ってくるつもりがあるのなら、それこそ仕事に出る旨を伝えるべきじゃないのか。
 それこそ帰宅が遅れた理由を誤魔化す子どものような顔だ。一発くらい殴っても誰も咎めはすまい。
「あの、周一さん?」
「主様──」
 戻った笹後から車のキーを受け取るものの、しかしそのやり場がない。キーはポケットに突っ込むが、全員が困惑し、全員がいたたまれない。
「………えと、寒いのにお外で待っててくれた的な話じゃない?もしかして今から仕事?」
 つい怒鳴り散らしてしまいそうな荒れた精神状態を、丹田にぐっと力を込めてどうにか安定させる。

 ──怒ってどうなる。
 それよりも、

 ゆっくりため息をつくとそれは白くなって流れ、夜気に混じって消えていく。怒りの正体はいつもそんなものだ。一滴の辛さ、針の痛みのようなもの。
 その強大な労力は、もっと大事なものに遣うべきではないか、とまたしても内なる弁護士が語り掛けてくる。能弁で訳知りの理性め──うるせえよ、二度とツラを出すんじゃねえ。
 私は嗤った。互いの──愚かさを。
「………いや。煙草がきれたんでね。自販機まで」

 ──それよりも、抱いてやれ。

「煙草ですか?じゃ、おれも一緒に……ヒッ!?」
 噛み付くように、静司を抱きすくめる。手傷を負ったのだろう、微かな血の臭いがした。
 まだ時間は飯時だ。街の中心に近い住宅地の街灯の下で、人の目もある。
 だが、そんなことはどうでもよくなっていた。今は何でもよかった。君の狡さを、身勝手を、我儘を、今は全部許そう。全部どうでもいい。秤にかける気にすらならない。苛立ちが全て歓喜にひっくり返ったみたいだった。静司の動悸は異様に激しく、己は未だに愉快ではなかったが──もうそれさえ問いはすまい。
「部屋に戻ろう。傷の手当てをしないとな」
「──は、はい」
 手を握ると、弱々しく握り返してくるその手は擦り傷でいっぱいだ。まさかその格好で御神木に登ったんじゃないだろうな──考えると、勝算云々以前の、考え足らずな素顔が見えてくる。

 だが、とにかく静司は帰ってきた。その意思をもって、此処へ帰ってきた。その意思が何であるかは知らない。恐らく永遠に知ることは出来ない。少なくとも静司自身が、幻想のモビィ・ディックに執着している内は──そして私が、静司に焦がれている内は。
 もしも、いつかどちらかが欠けたとき、垣間見える何かがあるのかもしれないが、はかり知れぬ未来に想いを馳せるのは、目を隠して明日を信じる愚か者の所作でしかない。



 それは、きっと愛と同じくらいに孤独なのだろう。
 ──抱いていても、抱かれていても。禁めの恋に泣きたかろうも、明日をも知れぬと鳴かぬ雉。






愛と同じくらい孤独

2016/11/12 名取周一Birthday特別編


名取さん、今年も一年間お疲れさまでした!

【了】


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