あなたの生まれた日に、幸多からんことを祈りつつ。


的場静司







 署名の最後にぴたりと筆を留めると、まさに胸が澱むまま、筆先から便箋に墨が滲む。静司はそれを注視したまま微動だにしない。
 便箋の上に置いた手が震えていた。怒りとも悲しみともつかぬ激情だ。何れにせよそれは己に向けられた感情であり、静司はようやく便箋から筆を浮かせたが、その部分は黒く墨が滲んで広がり、漢字の一部は既に読み取れなくなっている。それまでの流麗さからは想像もできない失態──まるで自身のようではないかと、静司は嗤笑した。ざまはない。

 朱に染まる夕陽が、縁側からその横顔を照らす。季節外れの風鈴は、静司が取り外すことを禁じたものだ。とうに過ぎて久しいものを──あたかも無常の理を、時の流れさえも、欲ずくで奪い返そうとするかのような。
 数年で、一匹も取りこぼすことなく育った猫の兄弟たちが、縁側や座敷の座布団で各々にくつろいでいる。その内の一匹である肥った黒猫が、机に伏して背を丸めた静司に寄り添ってくる。その温もりを感じて、嗤笑はやがて苦笑へと変わる。苦笑はやがて安堵へ。膝に潜り込む柔かな手触りが、静司を微睡みへと誘う。

 思うままを為すのではなく、ただ思うままを綴ったものを省みるというのは、静司にとっては己の吐瀉物を検分するような陰鬱な作業であった。そして、然るべき労力を行使しながら、最終的にはそれを葬り去ることを目的とした、あまりに詮無い戯事である。
 静司は署名の失敗がいかにもおもわせぶりな便箋を穢いもののようにつまみ上げ、その冒頭を嘲るように諳じた。


「“今年の春も、見事な桜が咲きました”」


 ──とはいえ、じっくりと観る間もなく、すぐに散ってしまいましたけれど。
 風神の衣と雷神の鼓が、春を告げる風と雨を編むようにして、風花は散り散りと、凪を待てずに舞い落ちて、雨のあとには花びらが丘を覆い尽くしていたものでした。まるで昨日のような彼の春も、今はもう遠い季節だと、日に日に冷たくなる風が、教えてくれるようになりました。
 あなたがどう過ごされているのか、今では風の便りもなく、日々想いを馳せるばかりです。


 歳月如夢。
 あれは、何時のことだったでしょうか。


 三百本の桜を共に観た日を、あなたはまだ、憶えていますか。
 傍らのあなたのほかには、ただ満開の桜の花が咲き乱れ、仄かに色づいた花びらがはらはらと、雪のように舞っていたばかり。禁めなれども、斯様に胸に迫る時間を過ごしたのは、あれがきっと初めてのことでした。
 此の世ではない──常世国との狭間に閉じられたかのような。此の手には未だ遠い幸福の手掛かりを、あの瞬間に置いてきてしまった、そんな気さえするのです。あれは遥か遠く、尚、連れ立ちたい在りし日の春の場として。

 聢と掴んだ手も、解けてしまえば霧の中の幻のようです。
 漫ろな記憶の靄の中で、あなたの手の温かさを、おれはとうに忘れてしまいました。そのことを、寂しいとさえ思わなくなってまた久しい──今となっては、あなたが果たして本当に現に存在したのかさえも、記憶の中ではあやふやになってしまっている気さえするのは何故かと己に問うばかり。それでも夜雨、夜霧を紡いで、宵の遙か彼方烟る羅に、あなたの姿を重ねるのは如何にあらんやと。

 恋と云うものが共同幻想によって相成るならば、もはや恋でさえないこの奇妙な執着は、まだ互いに依って立つことができるのでしょうか。
 想いは時間が風化させてしまうものでしょうか。空白の時間がひどく重いことが、また希望と絶望を燻らせるようで、一日も早く忘れ去ってしまいたい気持ちと、すぐにでも御許に走りたい気持ちとを、否応なく天秤に掛けるのです。これとて寂しさにかまけてのことではなく、まるで正体のわからぬ影がじっと黙って寄り添っているようで、ただこの煩悶をどうすればよいのかが解らぬのです。帰すは会者定離の定めと知れど。

 そして、あなたが今にして、独りであることを願う己が在ることを、どうかお赦しください。ただ、願うばかりです。願いは風に消ゆるが条理と知りつつも。


 あなたに花を贈ります。


 とうに思い出したくない過去ならば、どうか花と共に、この手紙をも葬り去ってください。

 あなたの生まれた日に、幸多からんことを祈りつつ。


的場静司







「……」
 重苦しいため息が漏れた。
 惑いも迷いも言葉のまま。だが、何と浅ましく、思わせぶりで、醜悪な文体であろう。まるで孤独とその間接的な責を振りかざして相手の気を誘うことに躍起になる、小賢しい女の邪慢のようではないか。真に幸多からんを願うなら、真っ先に己が身を引くべきであると知っていながら──白々しいにも程がある。

 周一と逢わなくなったのに、明確な理由など無い。明確なきっかけは存在しない。
 ──ただ、逢わなかっただけだ。
 強いて言うならば、逢わないことに理由は必要ないが、逢うことには理由が必要だというわけである。その理由を欠いていたというのが、最終的な理由として選択できる唯一のものかもしれないと静司は思う。ならばこれまでは、どれだけの契機に恵まれてきたのだろう──あれほどの時間を共にするための偶然が重なることなど、そんなことが有り得るのだろうか。

 かつて、運命の女神は盲目だと言ったことがある。

 それは微かな希望だった。希望の灯火であるための詭弁であった。だが、盲目の女神が振る賽子──確率が運命を決めるのならば、どこかで賭博師の誤謬に陥るのは必至だ。
 コイントスをする。表、表、表と連続して表が出ると、次は裏が出ると予測してしまう心理傾向──しかし、実際には何度表が連続して出ようとも、次に表が出る確率は常に1/2である。コイントスは、毎回が独立事象なのだ。前回の結果と次のコイントスは無関係であり、たとえ百回表が出ようと、確率が拡大、縮小した結果ではなく、それは百回の「1/2の偶然」に過ぎない。偶然に偏りが生じるのは、こうした必然が作用するからである。
 則ち、幾度にもわたる邂逅が単なる偶然であっても何ら不思議はなく、それがある時プツリと途切れてしまったとしても、偶然として弁明するには十分な結果なのだ。偶然では説明できないという認識の裏をかく容易い逆説──これが人の知覚に運命という言葉を刷り込むのも道理、だが静司は、虚構の戯れに弄ばれる気など毛頭無い。尤も、厳密には独立事象ではないこれを、賭博師の誤謬と呼ぶのは誤解を呼ぶものであるが。
 それでもやはり、誤謬に付け込まれていたのは明らかだった。逢えるのが当たり前だと、理由があるのが当たり前だと、いつからか信じるようになってしまっていたのだ。賭博師の誤謬とは逆に、誤謬が偏りを生むのが当たり前だと信じてしまったのだ。それもまた、ひとつの誤謬であるにも拘わらず。








 手紙を携えて、暮れなずむ朱の路を歩く。傘をさすのは、西日がひどく眩しいからだ。
 人の気配も、妖の気配もない。ただ奇妙に伸びる己の影が、迷いを帯びて揺れている。薄気味悪い、と静司は冷たい目で己が影を一瞥した。
 かはたれ刻──彼は誰刻。次第に闇がる空の下に行き交う人があっても、誰彼と知れたものではない。
 国道とは名折れの悪路。高低がまるで一律でなく、歩いていてもそれと分かるのだから、ドライバーはたまったものではないだろう。こんな道がうねるようにゆるゆると続いて、時折山林が途切れると、眼下に山中の集落や、山の手から細々と膨らみ、最寄り駅まで末広がりに続く町並みが見える。
 ──思えば、いつぞやは酷い目にも遭ったものだ。たった一年前のことが遠い昔のように思われるのは、単なる時間感覚ではなく、それだけ認知が遠く隔たったと言うべきなのだろう。あたかも、かつては違う人生を生きていたような。
 傘を畳み、車道の脇の地道のほうへと降りて、ゆっくりと傾斜の縁へと立つ。見晴らしも景観も悪くはない。だが、どこか色褪せて見えるのは、あくまで己自身の問題だろう。
 地上まではせいぜい100m足らずという高さ、だが傾斜であっても万一落下すれば、例え死なずとも無事には済まず、仮に木の根や岩盤に引っ掛かって怪我で済んだとしても、もはや誰にも見つかりはすまい。的場の頭主がそんな死に方をしたとなれば、どんな陰謀説が流布するか──考えるだけでも可笑しくて堪らなくなる。
 在れど、在らざるとも脅威となる者。己がそれを選んだのだ。今さら何を嘆き、踏みとどまる故があるというのだ。

 鴉が鳴いている。
 時折いやに多い鴉の群が、ギャアギャアと鳴くのを耳にする。山の獣の屍肉を貪っているのか、その度に静司は不思議な安堵を覚えるのだった。人の目には、浅ましく醜悪で不気味に映るというかの鳥が、静司にはいつでも、自由の象徴のように見えていたのだ。


(自由か)


 にじるように足を踏み締めた瞬間。
 不注意で手から離れた傘が、不意の突風に煽られて飛んでいく。まるで絵物語の妖のように、風をはらんで、ひょう、と啼く。
「──あ」

 咄嗟に指先を伸ばした。
 無意識だった。
 袖に隠した封筒が宙を舞った。

 伸ばした指先が触れた瞬間、手紙は生きたように封筒から躍り出た。驚愕したか、躊躇したのか、微かに見開いた目に散った文字の数々が、脳内に再生されては音もなく躍った。桜、春、風、雷、霧、花。
 ああ、そうだ。


 花を──

 花を、買うつもりだったのだ。


 花を買って、共に焼き捨てるつもりだったのだ。そんな易い禊ぎで自由を得られるなどとは思わずとも、背負い得ぬ業など忘れて仕舞えと、胸を押してやるつもりだった。それが、人としての善きを逆しまに歩む礎となったとしても、数多の善きが己の善きでは非ずとして。
 朽ちてゆく想いを見届けたなら、あとはただ背を向ければいい。過去は決して消えずとも、想いは消える。人は忘れる──忘れることで、己を守る。自身ににそれが可能か否かは別にして。
 夕空を高く翔ぶ鴉たちが正面に見えて、そして消えた。瞳の奥に夕陽が映えて、鳥たちの影だけが残った。
 急速な浮遊感に、落下するのだと、静司は冷静に悟った。
 傘を一本、出来損ないの文を惜しんだばかりに。静司は笑い、遠くに──或いは瞳の奥に、満開の桜を見たような気がした。

 だが、いかなる窮地にあれども、因果律と可能性の振り子は揺れ動く。死なぬ限りは──人はその最期の瞬間まで、偶有性という名の運命のダイスは絶えず振られ続ける。
 静司はそれを知っていた。
 その偏重を嫌というほど回顧したのだから。
 それでも、どうしても驚かずには居られなかった。賭博師の誤謬。1/2の偶然。
 何も掴むこと無く落下していくだけの運命を、彼の人の手が掴んだことに。

「──まったく、君は──」

「……」
 鴉の鳴き声とひどい耳鳴りが鼓膜を遮る。
 だが、それどころではない。完全に足場を失って宙吊りになった静司は、今や掴まれた左腕一本でぶら下がっているのであった。
 そして静司を救ったのも腕一本。だが、これはコイントスではなく、独立事象ではない。厳密には賭博師の誤謬など適応されない、計測の対象外なのだけれど。

 ……それでもだ。

 今、この瞬間に自分の手を掴んだのが、名取周一であるということを──何故、運命でないと思えるだろう。
「周一さ……」
「落ち着いて。絶対に手を離すな」
「………」
「こっちも踏ん張れる足場が無い。人が通るか事態が好転するまでは体力勝負だからな、辛抱してくれ」
 情けなそうに笑ったつもりだろうが、歯を食いしばった呻きにしか聞こえない。歯軋りまでもが振動のように伝わってくる。
 見上げれば、確かに堆積層が剥き出しになった山の傾斜にまともな足場など無く、二人分の体重を支えるのは朽ちて折れたのであろう剥き出した木の根から伸びた枝肢を掴んだ周一の腕一本だ。咄嗟によくもこんな真似をするものだと、その愚かさには感嘆を禁じ得ない──これではただの共倒れではないか。
 急速に額に浮かぶ汗が頬を伝い落ち、思わず下を見そうになると、まるで頭の中を読まれたかのように、上から再び叱咤が飛んできた。
「下は見るな」
「……は──はい」
「今は」
 呼吸と喘鳴と言葉とが混じり合う。
「今は……俺だけ見とけ、分かったか」
「……」
 ──場違いとは判っていても。
 TPOを弁えろと、この期に及んでつまらぬ自制をする羽目になるなんて。
 赤面した顔を見られても、問題ない状況だったのが唯一の救いだった。
(信じられない)
 それは是でもあり、非でもあり。
(なんて馬鹿な人だ)
 ──それこそお伽噺の主人公みたいに。ヒーロー気取りでいつも危ないところへわざわざ飛んできて。
 それが今はもう、妖力の行使に意識を割り振る余力さえ無いのか、助けに式を呼ぶことも儘ならないでいる。その身体からは、早くもひどい息切れが伝わってくる。
(………弱い癖に)
 生々しい死の質感。だが恐怖を感じることの無い矛盾。ひとたび死を免れたるゆえか、或いは迫り来る死を恐れぬのか。
「静司」
 歯を食いしばったまま、再び喘ぐように周一は言った。
「……もう一本の手で何とか俺の足首を掴め。掴んだら絶対離すな。重量が分散したら、もう少し引き上げてやられるから──」
「………それは」
 それは無理だ。
 唇の中で呟いた微かな声は鴉の鳴き声に掻き消される。
 掴まれた側の腕──左腕は衝撃で脱臼したか、鋭い痛みに今にも手を離してしまいそうなのに。ぶら下がったもう片方の腕を駆動させるには、その掴まれた左側を軸に半身の重みを吊り上げなければならないのだ。

 不可能だ。

 静司の中の功利主義者が冷静にそう判断する前に、身体が動いた。ぶら下がって重力の負荷を一身に受ける右半身を、震えるような痛みの中心を掻い潜るように、ゆっくりと引き上げていく。神経に障るような痛みに、頭の中に己の悲鳴が響くかのような錯覚を覚えた。
 だが、この上、そんな不様までも見せてたまるか。ほんのさっきまで自分を支配していた、迷いも、煩悶も、哀しみも、この際どうでもいい──少なくとも、今はどうでもいい。死なぬ限りは運命は廻る。現に今も断崖の間際で、絶望せずに済んだではないか?
 極端な思考は判断を誤らせる。結局は痛みと引き替えに、それを思い知っただけだ。
 痛みを切り裂いて、また痛みを抉り出すように、静司の右腕が漸く周一の左足首を掴む。掴んだならばもはや断じて離すまじ──まるで主命に従うように静司がそこへしがみつくと、互いの視線が噛み合うと同時に、周一がその左足をゆっくりと引き上げる。まるで、堆積層を踵で穿ち、抉るかのような壮絶な作業。片足一本で人ひとりを吊り上げるなど、どうして生身の人間に出来ようか。
 静司の体重を載せたまま、ちょうど膝が胸に当たるくらいまで左足を折り曲げると、周一はもう一度「離すな」と囁いたが、もはやそれは声にはなっていなかった。声である必要も無かったけれど。
 脱臼して使い物にならない静司の腕を離すと、ほんの一瞬、互いの身体が離れそうになる。だが再び周一の腕は、今度は静司を抱き締めるように、その華奢な胴体を掻き抱いた。
 二人分の大人の男の体重を支えかねた枯れ木の根がを囲う乾燥した山土が、頭から雹のようにパラパラと降り注ぐ。だが、もはや静司な頭には幾つもの打開策が浮かび、周一もまたそうであったのだろう、余裕を含んだ互いに笑みを返すのだった。
 ミスリードで、互いのそれが単なる諦感であってくれるなと願うだけの余裕もあった。もはや顔を見合わせて、苦笑するしかなかった。寧ろどちらの案を採択するかで、軽く火花が散ったくらいだ。

「──風神邂逅!」

 短い文言は、周一の口から発せられた。風を操り、一時的にその加護を身に降ろす高位の術。途端に僅かに足元を身を支えていた周一の踵に掛かる負荷の一切が消滅するのを、静司も同じように感じた。
 頭上から崩れていく堆積層も然り、最後に一度力を込めて身を引き上げると、おもむろに周一の身体が静司もろともに、跳躍するかのように空中へと舞い上がったのである。同時に崩れ落ちた枯れ木が斜面をずり落ちていくのを見ながら、静司の身体は再び国道沿いへと投げ出されたのであった。
「…………」
「………あ、あいた……」
 それは、真っ先に情けない声をあげた周一もまた同じだった。砂塵にまみれた男ふたりが呆然とし、互いに顔を見合わせる様子は幸い、誰の目にも留まることはなかったが。
「………無茶な。呪符なしに召請術を使いこなすなんて──」
 風の神の加護。神とは呼べども、彼らは必ずしも善神ではない。それはまた、決して周一への侮りの言葉ではなかった。呪符、紙は神々との契約に伴う力の媒体となる。高い神格のものを直に使役することは、人間の妖力のキャパシティの限界を越えてしまうことになりかねないからである。
「いや……なに。一年前にも縁あってね」
「え?」
「一度召請に応じてくれた縁ある鬼神さ。風神は疫神でもあるが──中には自殺者を諌めてくれる気まぐれな奴も居るらしくてね」
「………」
 ──ようやっと言の毒を察して、静司は思わず頭を垂れた。

 昨年──そうだ。
 ちょうど、この日に。

「──だから、この日だけは君を監視するなり、先手を打つなり、何かしら手を打たないと酷い目に遭うのは去年で思い知った。たがら仕事を終えて慌てて来てみれば──」
「手紙が」
 嫌味の最中に割って入る──その声音たるや、ほとんど叫んでいたのかもしれない。尤も、一年前の比類無き凶悪愉快犯が、何を言い訳をしても仕方がないのかもしれなかったが。
「……あなたへの手紙が──風で散逸してしまって」
「……手紙?」
 静司は小さく頷いた。
「──花と一緒に……贈ろうと思っていたんです」
 ──花と一緒に、焼き捨てようと思っていたんです。
 あなたが、この世に生まれ落ちた日に。
「私に?」
「……はい」
 周一の表情は動かない。
 ──当然、おかしな話だからだ。
 花や手紙を贈るのなら、当日の午後では絶対に間に合わない。ましてや徒歩で、今やとうに宵の口であるというのに。普通に駅前の商店に辿り着いていたとしても、今頃でようやっと買えたかどうか、というタイムスケジュールなのだ。
 静司は黙した。説明はできない。此を以て身の内の澱みを禊ごうなどと、どう言葉にすればよいのかが見当がつかないのだ。
 だが、周一は矛盾を問い詰めようとはしなかった。言葉通り闇で先手を打つか、去年の嫌味の一つでも言おうとして来たのは確かであり、実際周一とて何ら自身の言葉に嘘はなかったのだが。
「………そうか。悪かった」
「謝ることでは」
「いや──すまない。ならば、その手紙には──」
「……」
 何を訊きたいのかは判る。
 だが、答えることはできなかった。仮令言葉にしても、もはや己を納得させる分にも満足に言を綴ることはできぬであろう。

 ──手紙には、花と共に、思い出を葬って欲しい、と。

 あれは恋文だ。
 そして、別れの手紙だ。
 もしも周一が受け取っていたなら、きっと黙って此方に背を向けたのに違いない。
 ならば、これは僥幸なのか。
 静司は笑った。
 そして、言った。
「………ただの、出来合いの誕生日カードにお祝いを書き添えただけの、ちゃちなものですよ」
「静司──」
「お誕生日おめでとうございます。……カードに代えて」
「……」
 ──ややあって。
 黙って抱き締められた理由を考える間もなく、偶然の成す綴れ織りの恐ろしき精巧さとその認識の誤謬に、静司は一筋なりとも涙を流さずにはいられなかった。手紙をしたためた途端に、手紙は要らずとなる──どこか腹立たしいとは思いつつ。要らずとなった手紙は、自ずと姿を消したのだと──自らに詭弁を弄しつつ。
 今宵の朔に、総てを隠して。







 けれども静司は、その日風に煽られていずこかへ消え去った、失われたかの手紙が、本来の宛先である彼の手に渡ったことを──決して知ることはないだろう。周一の使役する、美しき異形の「失せ物探し」の手によって。
 静司が花と共に葬り去る筈であったそれは、何よりも醜悪で愚昧な、だが静司の真実であった。それを手にしたいと思った周一が、自重すること無く行為に及んだのもまた、互いが知らぬ、互いの秘密。

 風に葬した筈の己の哀しみを、半身がその胸に刻みつけたるという、清かにして歪なる縁を──


 もはや、静司は知ることは無いのだ。
 決して──そして、永遠に。




風花風葬

2015/11/12 名取周一Birthday特別編


名取さん、今年も一年間、お疲れさまでした。
皆様、読んでくださってありがとう!


【了】


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