私はとんだ不調法者だ。
舞台の上で、洒落者を気取るのには慣れている。陰鬱なデンマーク王子の懊悩を諳じて、万葉を吟い、愛を請うなど日常茶飯事。それが俳優──名取周一の仕事だからだ。
だが。欺瞞だ。それらは脚本主導のロールプレイの産物で、実際は気の利いた言葉ひとつ言えない、臆病で不調法な田夫野人である。
現に、想いを寄せる相手にただ一言、些細な言葉を伝える方法を思い付かず、本来の仕事も手につかずに自責を続けて早一時間。
一般エンタメ誌に、毎回執筆者の変わる映画評論のコラムがある。とうとう私にお鉢が回ってきたのはいいが、テーマは恋愛コメディだ。たわ言を書く気にもなれず、そもそも観る気もしない。頭の中に蓄積されたデータベースのストックからなにがしかを引っ張り出そうとするも──恋愛は恋愛でも、せいぜい『ブルーバレンタイン』や『バタフライエフェクト』などといううんざりするようなものしか出てこない。コメディなど皆無だ。そのうち『アメリ』しか選択肢が無くなったらいよいよ終わりだ。絶筆しよう。
今日は恋人の誕生日だ。
誕生日だから何かしなければ、という社会通念に根差した無用な強迫観念があるのは間違いない。一方で、相手が何か喜ぶようなことをしてやりたいと──できる筈もない埒外な事柄を躍起になって探している背景には、引き算思考がある。もしも相手が何かしらを期待していたとしたなら、こちらがノーリアクションでは余りに気の毒だからだ。
私が恋人──だと思っている人は、多分、誕生日なんか祝って貰ったことの無いような人である。
その人は、いわゆる旧家の家督なのだけれども、その齢たるや弱冠22才。家督を継いだのは数年前だが、前家督が両親のいずれかであったかは定かではない。もしも幸運に恵まれたならばそうであったかも知れないが──彼らは生まれながらにして生々しい死を突き付けられる一族なのである。故あって、一族の頭主たる者は代々短命なのだ。然るに私の恋人も──的場静司も、同じ運命を踏襲する可能性は非常に高い。
それゆえに静司の実家である的場本家は、誕生日を祝うなどという習慣を意図的に排しているきらいがある。勿論個人間でのやり取りはあるだろうが、静司──つまり頭主に対しての祝い事は事実上の御法度だ。年を重ねるのが祝い事なのだとすれば、それはすなわち、今年も生き延びることが出来たという虚無にまかれた歓喜に過ぎないのだから。まるで、歳神の起源のように。
中には誕生日を、生まれてきたことに感謝する日だと軽率に宣う者がある。だが私には、静司の死に急ぐような壮絶な生きざまを目の当たりにすれば、そんなことは決して言えはしない。
それでも全てをくれてやると、約束できるなら。この身を全部くれてやると、彼に言ってやることができたなら。
繁殖とはなかんずくエゴイスティックな作業だ。それを美しい言葉に言い換えて、感謝や愛だなどと嘯く蛆虫どもには虫酸が走る。生まれなければ、この世に存在しなければ受けることの無かった壮絶な苦痛と恐怖の中で、彼は今日も生きている。
生誕の災厄──何にも増して、抗うすべのない残酷なアクシデント。
やはり、私は不調法者だ。
殺してやれなくて、済まない。
そんな言葉しか──私には思い付かない。
EGONOMIC
2014/11/01 的場静司Birthday特別編
pixiv投稿作品でした。リライト済みです。
【了】