「ごめん、都合がつかない」
どうせそう言われるのは判っていた。
予想はしていたが、わざわざクリスマスの予定の話なぞを振ったのは、最初はちょっとした悪戯心でしかなかった。
けれどもしも、こうして振られた挙げ句にしょうもない芸能人同士のくだらないトーク番組になんぞ出演してニヤニヤ笑っている周一をテレビなんかで見た日には、百年の恋も醒めようというものだ。ついでにそれを詰る己の身勝手さも思い知る──厭な円環だ。
そういうわけで、名取周一と的場静司のクリスマスには始まる前にピリオドがついた筈だった。
悪戯心──或いは気の迷いであったにせよ、別にプレゼントだのディナーだのと、何か特別なことをしたかったわけではない。寧ろそんなことはどうでもよい。食事をするなら、マクドナルドでも一向に結構である。
──ただ、単にイベントに託つけて、周一に逢えやしないかと、気持ちを揺さぶる稚拙な画策をしただけなのであるが、いっそ言わなければよかったと静司は後悔した。折りに触れては忘れてしまうのだが──彼は芸能人なのである。彼には彼の言い分があるのは判っているが、静司の考えでは馬鹿な仕事を選んだものだと言わざるを得ない。勿論──職業選択は自由だが。
また、それとは別に──静司は存外に、俗っぽいクリスマスの雰囲気が好きだったりする。
毎年フィンランドのサンタクロース宛にせっせと手紙を書いたり、時には自室にこっそり三百均で買った木製のクリスマスツリーを飾ったりすることもある。出先ではついつい目がクリスマスアイテムに吸い寄せられたりして、ついつい喜んでしまう理由は自分でもよく判らない。
十代の半ばに一度、髭の副侍従頭に連れられて(あの頃は髭は生えてなかったが)、アドベントにニュルンベルクのクリスマスマーケットに行ったのだが、それが事の始まりだったのかもしれない──その時に買って貰ったオーナメントは、今でも大事に持っている。一番のお気に入りは精巧な木彫りのクリストキントだ。
静司はオーナメントを取り出すと、三百均で買った小さな木製のクリスマスツリーのてっぺんにそれをかけた。カラフルで可愛らしいが、ちゃちな造りの安っぽいツリーに、手彫りの精巧なオーナメントはひどくアンバランスだったが、静司はいたく満足して微笑した。
陽が沈むや、静司は独り市街へと繰り出した。
12月に差し掛かるやいなや、通りやショッピングモールには早くもクリスマスソングが流れ始める。
そんなわけでクリスマス当日にはすっかり聞き飽きてしまうこともよくあるのだが、当代一のひねくれもので名を通す静司が、いちいちそれらに耳を傾けて、気に入ったクリスマスソングが流れている店には用事がなくても長居するなんていうのは、聞く人によっては怪談に近い話であろう。
定番中の定番、ジョン・レノンの【Happy Christmas】、マライア・キャリーの【恋人たちのクリスマス】、ワム!の【Last Christmas】あたりは殆ど12月の店舗の挨拶代わりとしてあちこちで鳴り響いているのだが、静司は派手なパーティソングよりも、静かな曲が好きなのでついついそっちへと吸い寄せられてしまう。
中でも、古楽からストラヴィンスキーまで、歌詞を抜いた『アヴェ・マリア』をひたすら流している北欧雑貨店は、静司の毎年のお気に入りスポットの一つであった。たまにエンヤの『One Toy Soldier』なんかが入ってくるのがなかなかニクいな、などと思いつつ、暖かい気持ちになって──やはり静司はそこが好きなのだった。いかにも若い女の子が好きそうな、小綺麗で可愛らしい雑貨店で、客層も女かカップルばかりの中では、長髪の美男である静司は思いきり浮きまくっているのだが。
「Happy Christmas Day to you……」
最後のフレーズをひっそりと口ずさみ、静司は棚上のオモチャの兵隊の木彫り人形にそっと手を伸ばす。周一に贈ったところで、別に喜びはしないだろうけど。
モチーフはくるみ割り人形だろうか。クリスマスのモチーフにはよく見られるが、精巧で、どこか悲しげな面差しのロシア兵隊の人形。
もしこれを買って帰ったら、聖夜の一夜の夢を見られるのだろうか。夢の中のくるみ割り人形は誰の顔をしているだろう?詮無い事を考えて、静司は笑う。神にも世界にも見放された自分が、何の夢を見るというのだろう。
クリスマスも当日にもなると、関連賞品が値引きされて売られることは多い。静司が手に取ったくるみ割り人形──無骨ながらに端整で、どこか愛らしい『Toy Soldier』も、値札に半額引きのシールが貼り付けられている。勿論、本物のくるみ割り人形ではないけれど。
ふと思えば、シーズンイベントを周一と過ごした記憶は殆ど無い。そうした行事は、きっと初めでこそ愉しいのだろうが、やがては形骸化していくのは目に見えている。そんな面倒で億劫で、そして虚しいのは御免だった──然るに、敢えてそれを避けてきたきらいさえある。
(夫婦の寝室は別が一番ってな)
だからといって、今周一が何をしているか、気にならないわけではない。馬鹿なトーク番組でくだらないことをやっているのだろうな、と思うと、理不尽に腹が立って──けれども些か不憫にも思う。彼とて本意ではあるまいに。
半額のプライスがぶら下がった人形が、急に周一のイメージと重なった。少しも似てはいないのに。
静司は苦笑したが、何故か上手く笑えなかった気がした。
「買い物、それだけ?」
背後から声を掛けられて、静司は動きを止めた。その衝撃ときたら、まるで以前ヨハネスブルクで背後からおもむろに銃口を突き付けられた時のようであった。
振り向く必要は無かった。静司は平静を装って、相手に聞こえるように、いかにも呆れた風にため息をついた。
理性のほうは──さて、これが誰の仕込みであろうかと思案するのだが、衝動のほうはどうにもならなかい。無論、取り乱すような真似はしなかったけれど。
「非常時以外にGPSで位置特定するのは止めるように家の者には伝えているんですが」
「いや……君が好きそうな場所を手当たり次第あたっただけだよ」
「……」
「そりゃあ、心当たりは訊いてきたけどね」
柔和な口調からは嘘の気配は感じられない。尤も、嘘が生業の人間のたわごとなど信じる気にもなれないが。
そんな静司が振り向くと、頭の天辺から爪の先まで入念に手入れされた周一が立っていて、静司は吹き出しそうになった。
スーツにコート、髪はきっちりとオールバックのヘアメイク。
「周一さん……?」
「──あ、あのさ。会いたくて」
そんな静司の心の内など知ることもなく、取り繕うように周一は言った。
そして、いつもの立て板に水のレクチャー、いや、耳障りの良い言い訳は何処へやら、きちんとワックスで整えた髪をガサガサと掻き回して、あっという間に駄目にしてしまったのだ。
「……いや、あのね。県外の親戚が亡くなったって言うんで、バタバタしてしまっていてね。どうやら不審死だって言うからちょっと調べてみれば妖事だ。とてもこっちに戻ってこられるとは思わなかったし、何だか言い訳がましいこと言ったら、タイミングがタイミングだから君が不安がると思って」
まあ、思い上がりなのは判ってるけど──笑ってそう付け加える頃には、周一の髪はクシャクシャになっていた。
『思い上がりなのは判ってる』
周一にしてみれば自衛策であるのであろうその言葉は、静司には覿面に図星だった。確かに不安だったのだ──タイミングも含めて、何もかも。
不夜とは云うまいが──所詮昼も夜もない、ショッピングモールの雑貨店である。節操の無いたたずまいと喧騒──それがまるで、あのざわめきが静けさと同じ意味をもつ、ニュルンベルグのクリスマスマーケットのようだと静司は思った。惚れた欲目の副次作用かと思うと、余計に笑えた。
静司は説明される事態を殆ど満足に解さないまま、周一の胸元に顔を埋めた。抱き付いたのではない。陳列棚の間とはいえ衆目の中、そこまで理性をかなぐり棄てる勇気はさすがに無かった。
ただ、周一のマフラーに縋り付くように、指先に力を込めた。目の奥が、ツンと熱くなったのを感じた。理由など──まさに言い知れない。きっと静司の中で様々なものが混ざりあって混沌を成していたのだ。勝手な憶測、勝手な怒り、勝手な侮蔑。
でもきっと、そのほうがマシだから、周一は理由を何も言わなかったのだ。それにも拘わらず、此処で事情を暴露する羽目になって狼狽えたのだろう。余計な心配を掛けたくなかった──彼としては、ただそれだけのことなのだ。そのことが一瞬にして、今度は静司の重みになったのだった。
そう思いながらも、漸く逢えた目の前の男に、もっと触れたいと思ってしまうのも事実だった。この機会を逃したら、次はいつ逢えるかも分からない。明日に僅かな保証もない──杞憂ではなく経験則的にも真に保証の無い自分たちだ。この声も、この温もりも、自分だけに向けられる笑顔も、いつ消えて無くなるか判らない。
周一は優しく、静司の肩へと手を遣り、俯き加減の顔は周一の方へと傾けられる。陳列棚に遮られた中で、少しばかり潤んだその瞳に口付けをひとつ落とされ、何かを言いたいのに言葉にならない唇に、周一の唇が軽く合わさった。
誰かが口笛を吹いたのが聞こえたが、多分、それは野次ではなかっただろう。
複雑に入り組んだモールと、駅やシネマを繋ぐテラスガーデン──寒風吹き荒ぶそこで互いの手を取って座る二人の影がそこにある。
何処かからかすかに聴こえてくる女声合唱のコラール『主よ、人の望みの喜びよ』。路上バンドの演奏がそれに重なるが、不思議とそれは騒音ではない。淡くライトアップされた市街。繋がっていないほうの静司の手には、ギフト包装された木彫りのくるみ割り人形のレプリカの手提げ袋──勿論ソリをトナカイにひかせるサンタクロースの姿は、夜天の何処にも見えない。
「食事は?」
静司はふるふるとかぶりを振った。
「お腹空いてないのかい?」
今度は縦に首をふる。
「……緊張してお腹いっぱい」
「え?」
「緊張すると、胃が変になりません?お腹空いてても食欲無くなっちゃうんですよね」
「……」
いわゆる闘争・逃走反応である。交感神経が過敏になりすぎて、消化器官などの闘争及び逃走に不必要な器官への血流が抑制され、血管が収縮してしまうのである。則ち状況が人間を、まさに戦うか、逃げるかを選択するのに最適な状態に作り替えてしまうのだ。
周一は笑った。
「緊張したの?」
「…………あ」
しまった、と口を抑えるも、出てしまった言葉はもう引っ込んでくれない。けれども──今日に限っては突っ掛かる気にもならないというのは不思議だ。
「びっくりしたんです」
「……そっか」
静司の頭を撫でながら、周一はまた優しく笑った。
「じゃあさ、酒と食べるもの買って──うちに来る?どっちかが倒れるまで飲みまくるってのはどう?」
「ほう、それは果敢ですね」
「君はうわばみだからね」
「……ビーフィーターを瓶ごと呑んでるアル中に言われたくないですよ」
おもむろにひょいと立ち上がり、静司は繋がったままの骨張った大きな手を引いた。そして、わけもなく息を呑んだ。
「………」
──温かい。
いつかのままの、想いが揺れる。
取り巻く様相はゆっくりと変わりつつある。バンドが演奏している曲を自分たちは知らない。音のこもらない最新のアンプと、聴衆の歓声。光と影と。何もかもがごちゃまぜになって。
闇にまぎれて、自分を抱き締める腕がある。静司はその抱擁を受け入れた。
ああ、これが
おれの恋人か。
One Toy Soldier──。
「……周一さん」
「うん」
「来てくれてありがとう」
「私が逢いたかったんだよ」
「……はい」
『くるみ割り人形』の劇末は、主人公の少女クララがクリスマスツリーの下で夢から醒める結末と、そのまま夢の国に留まる顛末とがある。
王子様の姿となった、くるみ割り人形との一夜のロマンスの結末──。
「でも、おれだって、逢いたかったんです」
『汝が惹かれし 我らが魂の切なる望みは
永遠の光を 求めてやまぬ』
バンドに重なり、遠くから聴こえる荘厳なコラール。
マリアが乙女だと?
神の子が生まれた日?
傲慢にして陰惨な神性など足蹴にしてもまだ足らぬ。イエスがこの世界を目にしたならば、落涙するどころか激怒さえしよう。
だが──神にも仏にも見放された生まれである我らにも、安らかなりし時が過ぎていく。寒くて冷たくて、風情も何もない。それなのに──遠く美しいニュルンベルクよりも、何故かここは優しい。
それはきっと、
いつか目にした光の残滓。
出逢った日に。
愛した日に。
これは、あなたがいるから、見える夢。
One Toy Soldier。
これは、醒めぬ愛の物語。
泣いて、
笑って。
だけど、どうか、離さないで。
それが愚か者の不毛で無謀な願いだと、判っていても。
それが救いようの無い、閉じられた狂気だと、判っていても──。
それでも、おれは、あなたが、
愛おしくて、堪らない。
少女クララは聖夜の夢から醒めた後、絶望に、狂気に襲われはしなかったのだろうか。それとも奇蹟という名を与えられた奇妙な偶然は、彼女を狂わせる時間さえ与えなかったのか。少女は幼すぎたのか。
落とし処で諦められるものを、耐えられるものを、人は狂気とは呼ばない、ただそれだけのことなのだろうか。
静司には判らなかった。
ただ、零れた涙を、マフラーで隠すのが精一杯だった。
行き交う人の群の中を、二人はただ手を取り合って──歩む聖夜は狂愚の神性など欠片も見えぬ、ただの雑踏だった。
One Toy Soldier
2014/12/25 Christmas特別編
Happy Christmas Day to you!
【了】