うたかた


 牙を研ぐ。
 その意味を、
 見失う。


 生き腐れ──その不様と言ったら、ほかに比するものさえない。
 道はとうに見えない。長旅の最中に狂ってしまった方位磁石の残骸が手の中に残り、自分はあてどなく辺りを見回してはまた歩こうとして──蹴躓く。距離感が取れない──此の目では。

 あとどれくらい、自分は生きられるのだろうか。右眼に刻まれた死の烙印は、どれくらいの時間を許すのだろうか。
 烙印に灼かれ、死した者たちの灰によって創られた瞳に積もる時計の砂が、どれだけ残されているのかが自分には見えない。誰にも見えない。それが、遠からず降りかかる災禍であるということが明らかなだけで──。

 そもそもが、過ぎたる望みであったはずが──今や貪婪に過ぎているのを、静司は自覚している。

 たったひと目で落ちたのに。

 共に歩む星などではなかった筈が。共に進む道など見えなかった筈が。
 求めた腕を、それでも彼は取ったのだ。きっと、戸惑いながら──埒外であったはずの選択肢を、彼は選んでくれたのに。

 この命を預けられないもどかしさ。あの人をさらって、遠く地平の彼方へと逃れてしまえる日など、もはや永遠に来ることはないだろう。
 それでも──夢を見るならば、自由だろう。懐古するだけならば、穢れはしないだろう──きっと。
 静司は己に言い聞かせた。それでも容易く崩れてしまうほど脆いものだと識って怯えているのを、自らの目からさえも覆い隠すように。












 名取周一は、あらゆる意味で多忙な少年だった。
 学業と折り合いをつけながら、来るべき時に備える身としては静司とて同様だが、静司の歩む道程が道形りであるのに対して、周一はそうではなかった。
 何しろ周一は何から何まで自分でやらねば気の済まぬ類の気質であったから、これが厄介だったのであろう。誰に師事するでもなく、誰に胸の内を明かすでもなく、誰にも理解されずに、家族には疎まれ、友もなく、仲間も無く。
 それでも好きこのんで孤高を気取っているのではないことは判った。余裕は見られなかった。ただ身一つで、命懸けで──不可視の世界の理を、彼は血を吐くようにして身に付けていく──我が身に刻み付けていくのだ。
 きっと、その方法しか知らないのだと静司は思っていたし、実際にその通りだったのだろう。その様は余りに不様だが、真摯だった。
 周一は神経質だった。そして繊細だった。そんな彼が──静司は好きだった。野次馬根性が疼いただけでなく、愚直で、矛盾だらけで、正しくあろうとするばかりに極性に陥ってゆく二律背反な歪みが、ひたすらに愛おしいのだった。寧ろ此の手でのっぴきならぬほどに歪ませて、なお檻に閉じ込めて守ってやりたいという、不可解な欲求に陥るほどに。そしてまた彼が望む道を、己が知る限りに導いてやりたいと願うほど。
 けれどまた、静司とて臆病なのだった。
 こっちを向いて──と、ただ一言がどうしても言えなかった。周一は己自身の影に囚われ、静司はそんな周一に囚われていた。

 まるで気質の違う、水と油のような二人は、こうして益々身動きが取れなくなっていったのである。それはひたすら一方通行で、不毛な想いに思えた。今にして思えばただ単に──友が欲しかっただけなのかもしれないとも回顧する。

 奇妙な邂逅、少しの誤認、言葉の齟齬さえなければ、実際にそうなれたのではないかと思うほど──自分たちは正反対であればあるほど近かった。ただ、歩むことを望む道程が、手段が、そして心持ちだけが、端的に異なっただけなのである。

 それなのに──それゆえか、たった一度、頬に口づけられた時、静司は条件反射で周一の頬をひっぱたいた。
 鬱蒼たる木々の狭間からこぼれる光の筋と、柔らかい温もりをもった凪風に包まれながら、静司の中で何かが変わり、そして始まり、何かが確かに狂い出した瞬間だった。
 静司は既に、人の肌の熱さを知っていた。
 何せ見目が良いばかりに8才で公園で変質者にいたずらをされて、10才で女給に手をつけた、まるでアレイスター・クロウリーのような男である。自分を抱いた男などもはや数知れず。好き嫌いは確かに存在したが、今や自分の身を求める他人の存在とは、渇きを埋め、退屈を凌ぐための手段に過ぎなかった。
 反対に、見るからに早くも他人を見限ったような周一は、そうした実際の経験の如何に拘わらず、女にも──勿論男になぞ見向きもしなかっただろう。
 その彼にとって、人に触れるということが──口づけるということの値を鑑みるに、やはり17才でしかない静司は舞い上がらずにはおられなかった。なのに実際には思いきり頬を張った挙げ句──ぶしつけな所作をなじり、散々に罵った。だが後に、二人が一体どうなったのかと言うと、静司には余りに埒外な顛末であった。
「……おれは嫌いな相手にキスなんてしないぞ」
 静司が新たなリアクションを起こす寸前、周一はそう言った。
 それきりだった。
 静司に言い返す余裕はもう無かった。児戯のごとく一顧にも値せぬたわごとに、燃え上がるには十分だった。
 平手打ちを食らったにも拘わらず、さらに挑んできた二度目のキスは──

 唇だった。

 平手を返す余裕など、もう微塵も無かった。たとえばそれが、周一なりの持って回った自己防衛反応だとか、いかにも平素の自分なら考えそうな事さえも、頭の端にさえ引っ掛からなかったのだから──お笑い草だ。












 帰り道に、周一は言った。
「送っていくよ」
 つと見れば、相変わらずの仏頂面を決め込んでいる。そう言う彼に、本当は凄く嬉しかったのだけれど──どうにも気恥ずかしくて、
「独りで帰れます」
 静司はつっけんどんにそう言った。
「嘘だよ」
「はい?」
「独りじゃおれが寂しいんだ。一緒に帰ろう」
「……え」
 異形を視るように目を剥いて、静司は傍らの周一を見遣る。
 思いもよらぬストレートな反応である。もっとプライドと体面を保つために四の五の御託を並べるのかと思いきや、これはまた潔いのか何なのか。
 今度は静司のほうが戸惑う羽目になって、どうしたものかと狼狽えていたら、今度はあたかも当然のように差し出された手が、たゆたう静司の指先をさらう。
 ──その、躊躇の無い所作に、静司の戸惑いはいよいよどん詰まりになる。垢抜けた外見に反する朴訥な印象が急に翻り、まったくイメージとは勝手なものだな、と自嘲しながら、静司は微かに頬を染めて笑った。
「………周一さんの彼女とかお嫁さんになる人、かわいそう」
「なんでだよ」
「冗談だか本音なんだか判らない。振り回されて滅入りそうだ」
「お前が振り回されて滅入ってるんだろ」
「……」
 さりげなくとんでもないことを宣う唇を、静司はしばし凝視する。
 凛とした表情。
 一歳だけ年上だと言うけれど、何ともきっちりと整った顔立ちだ。周りの女の子たちだって放っておくまいに、当の本人にはまるで興味が無いのだろう。それが、別にわざとがましくも何とも無いというところが如何にも良いではないか。そういう臭みの無い相手は面倒臭くなくていい。
 ──だが、言い得て妙である。
 振り回しているつもりが、振り回されているのは自分の方で、見栄を突いてもあっさりと引き下がる。掴み所が無いというのはこのことであろうか。

 きちんと否定しなければ、好きだと言わされているのに等しいというのに。

 ……悪くない。
 徐々に加減方式で相手を採点しているのに気付き、静司はプッと吹き出した。これではまるで──交際相手が己に相応しいかを値踏みする、くだらぬ女のようではないか。
「なんだよ」
「いえ、何でもありません」
「何もないのに笑ってんのかよ」
「いちいち詮索しないでください。ダレイオス一世って呼びますよ」
「静司」
 おもむろに呼ばれて、歩みが止まる。
「……」
「……静司」
「………」
 ──ああ。
 自分からそう呼べと進言しておきながら。為せと言って、本当にされたら困るという類のことでもあるまいに。そんなものは、ただの呼称に過ぎぬのに。些細な戯れ言に過ぎぬのに。
 シェイクスピアの名台詞ではないが、名など失って困ることなど何も無い。明日から太郎や五郎になっても構いやしない──いや、構いやしなかった。でもこうして、一度でも呼ばれてしまえば。

 あなたの聲の紡ぎ糸が、この身と此の名を結んでしまえば──。

 歩みを止めたまま、周一を見遣る。元々が仏頂面か、怒っているか、そうでなければなにがしか落胆しているか──そんな顔しか見たことがない。
 その彼に、真摯に見詰められたなら、静司は蛇に睨まれた蛙である。余りにもアドバンテージが大きすぎる。所詮は、惚れたものが負けなのかもしれない。
「もう一回、キスしていい?」
「どうしてですか」
「理由は必須?」
「必須ですが、内容は問いません」
「それじゃ要らないだろ」
 小馬鹿にしたように笑って言い捨てるや、周一は棒立ちの静司の肩を抱き、ゆっくりと唇を寄せた。その速度は周一が設定する拒絶の猶予だ。嫌なら逃げてくれて構わない──一見自由意思を尊重しているようでいて、著しく相手を拘束する行為。
 だって、逃げられるはずがないではないか。

 引き寄せられるように──ゆっくりと、深く、口づけられる。
 それは一方的に心を寄せるのではなく、初めて互いに求めあう、魂を賭した口づけであった。心躍り、胸は満ち、そしてなおどこか哀しい、壊れそうな触れ合いだった。
 そして静司はまたしても自律に努めてきたはずの克己に反し、己の力では如何ともし難い不可抗力への憤りに、深く身を浸したのである。

 せめてあと一年、早く出逢えていたならば、と。












 だから、今でも憶えているのかもしれない。愛し合った時よりも鮮明に、あの時に触れ合った唇の感触を明晰に憶えている。これだけの歳月が流れても。
 目を閉じて、夢を見るように思い出す──白昼夢のようなまどろみに、抱かれているような錯覚が心地良い。まるで、周一の腕に、抱かれているような気がするのだ。あの腕に強く抱かれ、ああして深く唇を重ねて。

 眼前に盛り上がるのは、遅々として進まぬ仕事の山。依頼案件に目を通すだけでもひと仕事であろう。
 これでも頭主の目通しが必要かどうか、選別した末のことであるから、よもや誰ぞに押し付けるわけにもゆくまい。悪徳の主は、ただひたすら静司の怠慢である。自業自得である。


 ──末期だな。


 静司はため息をつき、漸く硯から筆を持ち上げる。墨を纏った筆先は、何故かひどく重苦しい。無性に──哀しい。
 端紙に筆先を走らせて、静司はそこに【呂】と示す。古くは口づけを顕す隠語であったというのは、口二つ──その象を見れば容易く判るというものだ。

 口づけという行為は人間だけのものではない。また、行為そのものは時代、文化に拘わらず普遍的に見られることから、淘汰の原則にしたがった獲得形質であることも確かだろう。交わす相手のテストステロン濃度を知覚する、性淘汰に関わる行為であるという説もある。そしてそのすべての散文的理由が、静司にはまるでどうでもいい。
 呂という字が口づけの隠語であったのは「ならんで続く」の意を有するからでもある。そしてこれは訓じて「とも」と読むこともできる──伴侶の「侶」の語源でもあるのだ。此方はイ(ヒト)が呂(ともに)という意であるのだろう。だとすれば、今の自分には何とも皮肉な語句である。
 共に行けぬことは明白。
 せいぜいが、記憶の口づけの甘さに耽溺するのが関の山ということか。

 伴侶、か。

 それはまさに、ともにゆく者の語り名。共に在らず、ゆきもせず、その行く先をも知らぬ相手を、決してそうは呼ばぬのだ。
 ──否、もはや考えまい。
 保ち続けるには余りに脆い、けれども命を絞り尽くすほどにこの身を焦がす、無愧なる思慕の連鎖の陰。
 言葉というのはまさに力だ。殺すことも、守ることも、救うこともできよう。今の己を除いたならば。
 墨で塗り潰した端紙を放り出し、静司は声もなく文机に臥した。
 その引き出しの中には、決して封切られることの無い、遠き日に、近き日に、今日にしたためた、狂気にも似た恋文が眠る。
 願いはいつも一つだった。
 叶わぬことは知っていた。
 それでも書かずにはおられなかった──書き記した言葉を自ら呑み込んで、どうにか自律を保つ、惨澹たる虚勢と妄執。
 何れ生きては添えぬなら。


 どうか、
 せめて。
 結ばれないのなら地獄まで。



【了】


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