屍体はモノだ。

 観念論の話ではない。力学的に反射駆動する細胞骨格が稼働していないという意味でモノなのだ。
 元来運動神経で支配されていた錘外筋線維の筋肉の緊張がとけると、体は重くなる。重心が反射駆動によって、ある程度均一に散らされていたものが、一気に重力の思うままになる。此れが死の重さだ。
 たとえ昏睡していても、不随意筋は駆動する。ほとんど死体に近くても、エネルギー通貨は有効なのだ。酔っ払いを担ぐより屍体を担ぐほうが重さを感じる理由は此所にある。


 周一は何食わぬ顔をして空き地に停めた車の後部座席に硬化した美しい薄命の屍を乗せた。
 屍体は冬季ならば、死後半日も経過すれば嫌でも物質的な冷たさに変化する。11月半ばにしては異様な寒さの中で、なお防腐措置を施されていれば冷たいのは当たり前だ。

 防腐措置。

 熟と流れる思考の中で、その単語だけが不自然に浮き彫りになったように感じる。
「…………っ」
 硬質ウレタンのハンドルに額を押し付けるようにして、周一は初めて喘いだ。
 手が震えていた。
 ──脚も。
 ようやく鼓動が激しくなった。
 もう、容易くは振り返ることができない気がした。あの経帷子の背中には、凶つ赤黒き死斑が在るのだろうか。あの美しい背の悩ましい窪みに──。
「……は、っ、ぁ……!」
 息が苦しい。
 脳天から全身が凍りついていくような異様な苦悶に、身をよじることさえもできない。吹き出るような汗は冷たく、みぞおちに痛みにも似た吐き気が吹き溜まる。
 半開きになった周一の口角からつ、と糸が引いた。項垂れたまま見開いて、瞬きもできない双眸から溢れた感情の塊が、真っ黒なジャンプスーツの膝をボタボタと濡らした。

 ──何が反魂だ。

 あの屍体をはっきりと目の当たりにして、触れて、その温度をはっきりと感じてしまえば、その迸る恐怖と絶望は凄まじい。幾度も人の死を見て、或いは人の死に関わってきた自分が、これほどの衝撃を受けるとは──自分自身でも思いもしなかった。
 屍体は生々しい。
 死後硬直は顎から始まる。そして1日も経てば躯から水分が失われ、角膜は濁って唇は黒く収縮する。これが弛緩すれば腐敗が始まる。

 涙か鼻水か涎だか、判らないもので周一の端整な面はぐちゃぐちゃになっていた。ハンドルに指が食い込んで、その指が青黒くなっていたが、そんなことはどうでもいい。

 何故だ。
 自分は──何故。

「……何故、応えなかった……」

 周一は茫然と呟く。その呂律ももはや危ない。
 静司の願いは、些細な一言。



『そばにいて』



 ただ、それだけだった。
 それだけのことが、いつもできなかった。
 いつも、いつも。
 どんなにしても。

 できなかった。
 ──どうしても。


 殺して、と言われたなら、
 きっと──叶えてやれたろう。













 周一はマンションには戻らなかった。
 人目があるためだ。
 骸をかついで、万一人とエレベーターに乗り合わせたりすればまずい。騒ぎになる危険性という段階でさえなく、ただひたすら、可能性がある限りは余計な合いの手を入れられたくはない。
 車は自宅に向かった。

 名取邸である。

 周一にとっては蔵や物置小屋に等しい場所で、帰るべき所では決して無かった。だが今は。
(反魂の成否の境界は24時間)
 既に反魂という手段の具体策がおぼついていないにも拘わらず、腐りゆく骸を前にして、周一の焦躁はひたすら募る。
 この24時間というリミットを救ってくれる場所は、今は此処しか思い当たらなかった。
 あの紅い瞳がまた開くなら──そう思うと同時に──真に反魂の秘術なるものが存在するとして、甦らせた後、またしてもその手を振り払うのか、と周一は自問する。
(──またとない)
 そばにいて、と請う手を振り払われて、静司は泣いたのだろうか。存外によく泣く彼の眼が紅い、バカげた理由を想像して、周一もまた泣いた。
 自分が何をしているのかも分からずに、ただひたすら泣いていた。














 地下に屍を担ぎ込み、周に血陣を描く。もはや我が身を顧みる余裕もなく、諫める式を一喝のもとにおさめる其の形は修羅。態は鬼相。
 咲き乱れた緋の中に、眠る躯は触れねば屍とも思えぬ馨しき黒牡丹──さても此れを、如何して。かなわぬならば、跡形も無く、共に泡と消えるには。
 生きあぐね、悪夢にも見ぬ舞台に立つ狂愚の俳(わざおぎ)。だが謀り空吹くだけでなく、如何に成すかは、まさにその技の見せ処ではないかと、周一は己を叱咤する。

 黄泉よ、見たかと──吼えるには。

「静司──」
 延ばした指先が、つとその頬に触れる刹那。
 周一は、もはや此の世から永遠に名を喪したはずの人の器に、なにがしかの淡い感触を覚えた。
 あからさまに死後硬直の始まったはずの遺体である。だが、周一の触れた頬、初めにそれが起きるはずの、顎。
 稼働率の大きな関節から始まる硬化。石のようになった屍には、もはや弛緩するまで開口することはかなわない。
 だが、触れた指先の感触は──周一は思う。

 この唇は、まだ──。
 否。
 また、開くのではないか。

(──またとない)

 パラスアテナの彫像に留まるかの大鴉との不毛なる問答。永遠に喪った恋人を取り戻すすべもなく、果ては狂気の影に取りつかれた哀れな男の末路。
 周一の記憶にある静司の姿はもはや、驚くほどにぼんやりとしていた。その夢の泥の中に突き落とされたような奇妙な違和感を破るように、狂い出した理性が走り出す。
「……君はまだ、ここに在る」
 それこそ死した人の影に──想いの障泥に憑かれたか、いにしえの神の世にふさわしき、堂々たる大鴉に憑かれたか。
 震える指先が骸の唇に触れる。

 ──柔らかい。

 周一は先ず、自らの正気を疑った。そして、直ぐにその詮無い無駄な円環から思考を引き離した。
 杜撰に描かれた血陣の中、骸の上に馬乗りになり、周一は再びその唇に、頬に、瞼に触れる。そこには不可解な違和感があったが、周一はそれを気に留めることはしなかった。
「静司………」
 逼塞した地下の冷気の中、聴こえるのは己の不様な呼吸と鼓動。屍は屍──もの言わぬ魂の残滓、腐肉の塊。

 あろうことか、周一はその唇に己の唇を重ねた。
 刹那再び覚えた驚愕に開眼するよりも、周一は愛しい骸への口づけに耽溺した。
 それは骸の一部などではなかった。とうに乾いてしまって不思議でない時間が経過しているにも拘わらず、冷たいけれど柔らかく、本来ならば割り入ることのできない筈の歯列はたやすく開いた。弛緩し始めている──だとすれば余りにも早過ぎる。だがそうであれば、腐敗は既に始まっていると考えていい。

 その口腔はやはり恐ろしいほど冷たかった。
 だが、己の熱が。
 我が身の命が。
 伝わる気がしたのだ。

 ──今ならば。

 周一は今一度己の正気を疑った。だが、それは自己言及不可能な事柄だと吐き捨てた。喩えるなら、私は嘘をついている、或いは、私は狂気である──そうした言及の不可能性。
 名取周一は異端の術師だ。
 正道など知らぬ。識ろうとも思わぬ。ゆえに外法も禁術も、知識としては十二分に蓄えている。
 その中にあっても、反魂は禁じ手の中の禁じ手だ。だが古くより伝わる所作の中の、幾つかの有効な事例だけを抜き出して新たなロジックを組み立てることも容易い。とはいえ多くが手順に難がある。
 だから、もし今、できうる限りで有効な手があるとすれば。
 あるとすればもう、この身さえ、使い捨ててもいい。

「静司……抱いていい?」

 骸に語るは、一僂の望み。
 然れど──呼べども応えぬ、頑に閉ざされた瞳。四肢は動かず、声も無い。
 ならば、冥慮は要らぬ。
 此れは屍体だ。
 骸を抱く──それだけだ。
 いまはかくも低く横たわる、牡丹の君を。

 周一は骸を跨いだまま、パン!と両手を鳴らした。

「天地一切清浄祓」

 あたかも宣戦布告のように、高く澄んだ声が張り詰めた地下の闇に響き渡る。

 それは、天命に抗う声だ。
 そして、真の外法師へと堕ちる道。

「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄と、祓給う」

 経帷子を暴き、骸の裸身を晒す。周一は己が混乱しているのか、或いはまったき正気であるのかを、既に判ずることができなかった。
 もしも殺してくれと言ったなら、願いを叶えてやれたろうと思いながらも──それが静司の究極の望みであったことを自分は知っている。

「天清浄とは、天の七曜九曜、二十八宿を清め──地清浄とは、地の神三十六神を清め」

 知っていながら、死穢を祓い、命を分け与えようとする矛盾。平たく言えば、大きな世話だ。それでありながらなお、蘇生に賭ける矛盾。殺してやると宣っておきながら。

 矛盾だらけだ。

 そばにいて、と言いながら、ほかの男に身を任せる静司。ただそれだけの願いさえ叶えてやれない自分。ようやっと業から解放されたのであろう静司を、また悪夢に引きずり込もうとあらゆる手段を講ずるのも然り。

「内外清浄とは、家内三寳大荒神を清め、六根清浄とは、其身其體の穢れを──」

 死穢を祓う、天地一切清浄祓。その一言一句を命を削るように唱えながらも、周一の心は未だ彷徨の途にあった。
(でも、だからって、どうすればいいんだ)
 コードに沿って起動するプログラム、これを丸のまま忠実に実行するものを機械と言う。だが、その処理を個体というソフトウェアの任意にまかせるものをヒトと言うのではないか。だから矛盾が生じる。転じて、矛盾がヒトの証となる。
(君が炎に焼かれるのをこの眼で見ろというのか)
 手にしたものが失われるのは道理。形あるものが崩れるも道理。
 道理にしたがって在るものが喪われ、何かが終わろうとしている。

 だが、それがどうした。

 静司を失った世界を見る瞳など要らない。
 そんな目は潰して、
 そんな世界は、消してやる。
 かなわぬならば、覆す。


 此の手で。












 祓給 清め給ふ事の由を

 八百万の神等 諸共に

 小男鹿の 八の御耳を

 振立て聞し食と申す──














 寄り添って眠る時間は長く──ひどく重い。
 どれくらい時間が経過したのかも判らない。周一は茫洋とした意識を取り纏めることめかなわず、薄く開いた双眸のピントを合わせようとする。
 揺さぶられて乱れた静司の未だ艶やかな黒髪が、周一の肩に掛かる。動けばさらさらと落ちてしまいそうで、周一はそんなことを惜しいと思う気持ちをひどく滑稽だと思った。
「………」

 骸を、辱しめる。
 無愧なる非情。

 もう、考えることは無かった。
 鉄臭く硬い床に体を横たえたまま、周一はまた声もなく泣いた。表情さえ動かないまま、ただ幽かに震えて、また視界がぼけた。


「泣き虫ですね」

 嗄び果てた心を、丸ごと包み込む夢幻のような低い声が、周一を抱く。
 虚ろにさまよう焦点が、意識するよりも先に眼前の骸──であったはずのものを視る。

 紅い瞳だ。
 そして、三日月のように均一に歪む端整な薄い唇。

 周一は濡れた瞳のまま刮目した。何かを思考したのではなかった。そんな余裕は無かった。
 ただ、反射的に訝った。だが、何を訝ったのかも判らない。目の前に動くものは、何なのか?人間なのか?誰なのか?言葉という輪郭を得られない驚愕。
「泣かないで」
 そう言って静かに伸びてきた白い手は、何事もないように──少しのぎこちなさもなく、周一の濡れた頬を撫でる。
「………泣かないで」
 そして繰り返す。鼻から抜けるような、消え入りそうなほど優しい声。
 静司の声。
 その呼気の隆起さえ感じる──生きているのでなければ、あり得ない声だ。

 手に触れたなら、血の通った生者であることは明らかだった。考えるよりも、抱き締めたい衝動に急き立てられ、だがそれにも増して恐怖が先立った。
 掻き抱けば、また骸に戻ってしまうのではないかと思ったのだ。或いは絶望の淵で見る、都合のいい夢ではないのか──と。
「大丈夫ですよ」
 胸の内を見透かしたように、静司は穏やかに言った。ゆっくりとその瞳を伏せて、また開く。
 スロー再生の映像のように。


「──もう、ちゃんと生き返りましたから」


 まだ言葉一つ返すことができないまま、鼓膜に響く相変わらず優しい声。急に周一は不穏当なものを感じた。
 鉄じみた血臭。黒く固まった円陣。自ら負った深手。
 文言と交合──あの、狂気にまかれた異様な時間。けれどもあの杜撰な反魂が、成功したとは到底思えない。
 ならば、静司の言葉は何を意味するというのだ。
 骸であったはずの顔は、相変わらず優しい微笑みをたたえたまま言った。
「賭けました」
「──何に」
 意思もなく、所在なげに喉が答える。
 静司はその身を縮め、そして伸ばして、まるでただの起き抜けのような振る舞いでゆっくりと身を起こす。
 その背中には──うっすらと紅い斑模様が浮かんでいた。
 死班の名残であった。
「………十と一夜五穀を口にせず、その死後24時間以内にあなたがおれに触れれば蘇生が始まる。逆に、触れられなければ腐敗が始まる──」
 そう言って邪悪に笑った静司の壮絶にして凄艶な表情。周一は涙の痕を拭うこともできずに、ただ相手の顔に見入った。
「的場には、条件をピンポイントに絞る、そういう変わった術もありまして。本来は時限爆弾のように遣うものです──屍体を人質にとって、相手に条件を呑ませるために」
 もちろん相伝の禁術ですが、とさらに笑み崩れたその顔の、無邪気で愛らしいことと言ったら、これ以上のものはあるまい。
 静司は続けた。
「周一さんの反魂術、即席にしては結構な出来ですよ。おれならまあまず思い付かない。祓の祝詞と高い妖力の血陣──それから交合とは。よく勃起しましたねえ」
「………」
「でも、徒労ですよ。……おれは、生きていたんです」

 周一は何も言えず、茫然とした。落とし処の無いおぞましさが駆け抜けていった。
 それはまるで──夢を見る悪魔だ。

「邸に面の式がいたのを見ましたか」
「ああ」
 我知らず青ざめたまま、周一は答えた。訃報を受けて最初に的場邸を訪れた際に、門前に居た痩せた面付きの妖か。姿を脳裏に思い描くも、相変わらずはっきりとした意思は無かった。
 ただ、臓腑をなぶられるような感覚に苦痛に似た何かを覚えていたが、それさえも意識の上でははっきりと知覚されない。
「あれが私の魂魄……と言うのは些かロマンティックですね。いわば自我を移し替えておいた仮の器です。本来はあれを何処かに閉じ込めておいて、相手を脅迫するのに使うんですよ」
 白い裸身が髪をかき上げる。
 ふふ、と俯いたまま静司は笑った。
「死は、不可逆ですよ?もしそれが『本当の死』であるならの話ですが──おれにはこういうギミックもある」
「……外道め」
「そう、あなたと一緒でね」
 またしても返す言葉もなく押し黙った周一に、だって、と静司は続けた。
「いかないでと言ったのに、あなたはいつも行ってしまうから──」
 解硬して身体が怠いのか、肩をゴキン、と鋭く鳴らして、静司は周一の方へとにじり寄り、挑発するように顔を寄せた。

「捕まえないと」

 ゾクリと、背筋が冷えた。
 怖気に理性が拡散するのを感じたが、それを留めるすべは無い。
「………」
 ──だとすれば。
 昨日、的場邸奥座敷で静司の骸を引きずり出した時点で顛末は決していたのだ。それが事実ならば静司の言う通り、あの時点、あの瞬間から、肉体は蘇生を始めていたのだから。
 とはいえ、一旦死後硬直の起こった遺体が蘇ることはまずない。巷にある「蘇った遺体」は、ほぼ全てのケースで死後硬直が起きていないと考えられる。酸素供給が止まれば、人体のホメオスタシスは崩れてしまう。ギミックはともかく、そこから生化学的に完全な蘇生を果たすとは──この魔物は一体何なのだ。死神の愛し子か。
「今日、何の日か知ってます?」
「君が本物の悪魔だと知った日だ」
「やだなあ、周一さんの誕生日ですよ」
 静司は戯れる風のようにコロコロと笑った。
 相変わらず──忌まわしい死班が目端にちらついた。
「だから祝ってさしあげようと思って。でも、ただのパーティーじゃつまらないでしょう」
「………」
「おめでとうございます、周一さん」
「………」
「嬉しくないんですか?」
 嬉しいわけがあるか、と言いかけるところを、ぐっと呑み込む。
 底知れない闇の氾濫が、紅い瞳に宿る。此方を見るそれに、周一は形の成さぬ苛立ちと恐怖、そしてなおも愛おしさを交えた奇妙な感慨を覚えた。
 自分は、この男の骸を抱いたのだ。
「……ならば──君は私だけでなく──そのためだけに皆を、謀ったのか」
 それは虚しい問いだった。
 己とて、その命と引き換うならば、この世のすべてを手離してもいいと願った身だ。痛いほどの矛盾を感じながら、それでも確かに願った生々しい想いの軌跡を、此の魂は永劫に忘れはしまい。此の日を、決して忘れはすまい。
 だがそれが真に翻った途端、つらつらと相手をなじり出すとは。
 黄泉よ、見たかと──吼えぬのか。

 その矛盾の所在を知るように、
 隻眼の鴉はいらえた。


「Nevermore」





臨界温度 -critical temperature-

2014/11/12 名取周一Birthday特別編


名取さん、一年間ご苦労様でした!

【了】


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