「的場の御頭主が、お亡くなりになったそうだよ」

 それは11月にしては異様に寒い日の夕暮れだった。祓い屋の知人からの連絡を受けて、周一はスケジュールを繰り上げ、急遽的場邸へと赴いた。


 的場本邸の玄関口には、何の告知もなされていなかった。
 ただ、閉ざされた正門の前には、見慣れぬ一匹の式が居た。名取を名乗ると式は無言で扉を開いた。咎められもしなければ、何も問われはしなかった。四肢のやせ衰えた、見たことの無い面の妖だった。
 これはいよいよ話が真実味を帯びてくる──周一は暢気にも、そんなことを考えていた。普段であれば名取が邸を訪れたとなると、先ず敷地に足を踏み入れる前にあれこれと家人によるしつこい詮索が入るのは目に見えている。とうに慣れてしまってはいても。
 屋内は人々が往き来しながらも、不気味にしんと静まり返っていた。澱んだ闇の吹き溜まりような、ただ事ではない気配。実際に目にするまでは何も言えないが、重大な何かがあったのは確かだった。
 周一は案内を受けて、奥へと進んだ。映画のセットのような広く長い廊下を進む間、ひどく重苦しい空気を感じた。言葉そのままに、重力が増したような物理的な重さ──これは結界の歪みだろうか。強力な結界の柱である術者に急激な異変が起きると、時として結界が解かれずに均衡だけが崩れることがある。
 だとすれば──やはり。
 下働きとおぼしき人間の姿があちこちでせわしなく働いているのが見えた。見知った顔もある。だがそれが皆一様に唇を固く引き結び、僅かにも口をきく者は無い。
 そして、最奥の部屋──まさに今から周一が通されようてしている場所からは、次々に人の姿が現れる。
 それは家人ではない──弔問客だ。ようやく周一は、自らの異様な鼓動に気付いた。
 その事件が「いつ」起きたのかを周一は知らない。しかし、隣近所ならばともかく、同業者がこうして弔問に訪れるということは、周一の耳に情報が入ったのは随分遅かったのではないか、と。

 くたびれるほど長い板張りの廊下を歩いて、やっとたどり着いた部屋と廊下を隔てる襖の前に、女が立っていた。
「七瀬さん」
「よく来たね、名取」
 襖が静かに開いた。最初に目に飛び込んできたのは、絢爛な鳳凰の欄間だった。
 そこで何を見ることになるのか、周一にはもう分かっていた。










「瓜姫」
 マンションの自室のベッドルームに腰掛けて、周一は自らに仕える式の名を呼んだ。
「御前に」
 ──現れた、という明確な違和感もなく、黒髪の女妖はそこに居た。呼ばれた名に呼応して、空間から滲出したかのように。
「……反魂、というのは理論面で可能だろうか」
「主様──」
「あくまで理論面においてだ。どうだ」
 祟りもの、との異名を取る女妖は、今でこそ祓い人の式になどおさまっているが、その本来の禍つものとしての来歴を辿れば、長く人の災いや死に関わり続けている妖だ。それだけに、表裏をなすものについても知識がある。表があれば裏があり、光があれば影がある。死あればこそ生ありき──その手段にしても、やはり同じだ。
 瓜姫の表情は変わらない。だが、思いもよらぬ問いにどう答えるべきか、思案しているのは明らかだった。
「馬鹿げた問いか?──やはり死は不可逆か?」
 まるで、予め用意していた言葉を読み上げるような調子で、周一は問い掛ける。
「或いは……摂理に反すると思うか?理論以前に、不可逆であるべきだという建前があるのか──」
「いいえ、そうは思いませぬ」
 今度は主の問いを遮るように、冷悧な声が答えた。
 すると、周一が請う。
「……教示を」
「御意」
 互いに一寸の動揺も見せない、静かな問答。瓜姫が再び答えた。
「人の世でも妖の世でも、起こり得ることはすべて必然。偶然とは言葉そのものが恣意に過ぎぬもの。そこには自然も不自然もありますまい──そして摂理とは、この世に起こり得るすべてを擁して世界を形作る条件そのもの。悪しき事ではないと、善悪や望みに依れば、容易く人はそれを見誤りまする」
「──ならば『べき』と言うのは愚かだな」
「摂理とはかかわり無き事でありますれば。それはあまねく物事に目的や意味が与えられた上で初めて論じられるものでございます。また、くれぐれも思い違いをなされませぬよう──自然すなわち善、ではありませぬ。逆もまた然り」
 周一の双眸が、一瞬僅かに見開かれた。目的論に慣れすぎた人間には──周一には、わかってはいても、気付けの一撃とも言える教示。字面の上では理解していても、あくまでもその世界の内側で生きることを選択した者には、その世界で培われた直感が先に立つ。
「では、問題があるとすれば?」
「──いかにして成すかという困難に尽きまするな」
「……」
 周一は顎の下に手を遣った。まるで、厄介な機械仕掛けでも相手にしているかのようだった。













 七瀬によれば、死に至る経緯はまるで不可思議なものであったという。
 最初の異変はその十日余り前から、ひどく言葉少なになったということだった。元来口数の多い質ではないが、それが言葉少なに、と言うのだから、要するに丸きり話さなくなったのに違いない。最後の二日は、食事さえ摂らなかったという。
 それが、単に具合を悪くしてというのではないから話はややこしかった。本人に訊いても調子が悪いことを自覚していないばかりか、侍医の診断にもまったく問題は無い。それが、異変から十日余りにして、あっさり逝ってしまったという。滅多に寝過ごすことの無い静司が、長らく床から起き出してこないことを不審に思った侍従が寝所の様子を見に来たところ、彼は既に冷たくなっていたらしい。それが今朝の話である。
 ──ならば、余計に不可解だ。
 今朝方に身罷って、警察へ連絡し、監察医務院から死亡検案書を貰うまでに多少の時間は要るだろう。身内だけで密葬にするにせよ、何せ大家的場の御大だ。黙って、というわけにはいかぬことは判るのだが、ああも同業者に対して大っぴらにするものなのだろうか。

 ──それにしても、十日ばかり前、と言えば。

 相関関係をどう考えればいいのかが判らない。その頃に、周一は静司と一緒に居た。今月の初日は、当の静司の誕生日だった。
 そこに思わぬトラブルが舞い込んできて疲れきった静司の傍に、周一は一日中寄り添っていた。ただそれだけのことだった。色んなことを話した。彼もまたなにがしかをポツリポツリと話してくれた。キスをした。愛し合った。静司本人の印象は、思えばいつものような挑発的なものでは無かったように思う。
 その日、的場邸に留まって静司を腕に抱いて寝た。暖かかった。

 彼に情を交えて触れたのは、それきりだった。

 問題はこれが、その日に起きた奇妙なトラブルと無関係であるのか否か。普通に考えれば思い過ごしだ。だが、相手は静司である。彼を理解するには、その一つの出来事に対する蓋然性、という側面から考えることが重要になる。彼は偶然というものを常に警戒している。いや──敵視していると言ってもいい。
 無論彼とて人間だ。そして祓い屋の若き総大将。命を賭して命を引換う。運命──偶然というものの残忍に、常にさらされてきたがゆえの凄まじき敵愾心。恐らくは誰よりもその脅威を生々しく感じ取り、その不条理に泣かされてきたがゆえに身に付いたタフネス。
 ──単に、その勝負に負けたのだと考えることもできる。

 周一は黙する。

 そして、もう一つ。
 的場は──この件をどう処理するつもりなのだろうか。あの七瀬がここで引き下がるのか。死は不可逆なのか。或いは、不可逆なものを死と呼ぶのか。
 彼らは、あの遺体を、荼毘に付すというのか。

 夢とも妄想ともつかぬ意識のうろの中に、横たわる白い躯。
 あとは朽ちるだけの屍。それを焼き尽くす浄化の火に、あの白い肌がまかれて焦げ落ちる。
 周一は、叫び出しそうになる。

 彼は。
 静司は。

「……死んだのか──本当に?」












 反魂について著された書物は多い。

 有名所では説話集『撰集抄』の西行法師の反魂譚、反魂の達人とされた前伏見中納言師仲卿、『御伽草子』にある鬼が造った骸の美女、かつて淫祀邪教とされた真言立川流にも死者を蘇生させる秘術があったという。遠野物語、遠野物語拾遺にも幾つかの不可解な蘇生譚があり、かの小野篁の盟友である藤原良相の蘇生譚も今に伝わる。ミクロな事件を追えば、その詳細な数は知れない。
 その全てがフィクションである可能性もある。また、死と仮死との境界がある程度はっきりしたのも文明史でみればごくごく最近のことであって、人々は屡々、その境界の曖昧さに騙されてきた。

 仮死。

 だが、今時分にその可能性はほぼ無いだろう。死亡検案書が出ているのは間違いないだろうし、的場邸で触れた静司の躯は──冷たかった。見た目に反して、あんなに温かかった静司の身体が。
 静司には身内の中の敵も多い。ゆえに「消された」可能性もある。だがそれならば、腹心である七瀬がああして黙っている筈がない──静司になにがしかが起きるたび、面倒を此方になすりつけてくる女狐が。

 では、自死か。

 確かに静司は不安定になっていた。周一と抱き合うようになれば、それ以外の欲を忘れたようになった彼が、侍従を閨に引きずり込むくらいには。
 だが、それもどことなく腑に落ちない。静司の気性を鑑みれば、妥当性としては適当でない気がするのだ。

 周一は自分でも意外なほどに冷静だった。
 もしも静司の身にのっぴきならぬ事態が起きたなら、正気でいられる自信が無かった。いつ、どんな拍子に、どうなってしまうか──それを思うと堪らなく怖かった。だから、素知らぬふりをして過ごしてきた。
 だがどうだ。
 実際に、考えうる限りの最悪の事態に陥ってしまえば、それは確かにおぞましく、強い憂鬱を覚える事柄であっても、その大まかな自意識を抜き出せば、それはどこかしら虚しいだけの、うすら冷たい失望に過ぎなかった。
 まだ感情が追い付いていないのか、そうした感情がそもそも存在しないのか──曖昧な冷血が、周一の四肢をめぐる速度はひどく緩慢だ。
(さて、どうするか)
 とにもかくにも、一番の問題は静司の遺体の処遇だ。これに関して、所詮はまったくの他人である周一が口を出すことはできない。然れば端的に結論は一つしか無い。
「……遺体を、盗み出す──か」
 とんでもない話だが、蘇生を試みんとするならば、静司の骸をあの屋敷に置いておくわけにはいかない。だが、不安定にはなっていても、やはり強い的場の結界の中では式とて自由に動くことはできまい──だから、此度ばかりは自身で動くしかない。
(……遺体は腐敗していなかった──)
 冷たく、硬くなった手は、到底生あるものの感触では無かった。無論頭主が逝去したというのだから、葬儀までの間の何らかの防腐措置はとられているのだろう。それにこの気候ならば、たかだか半日やそこらでは傷みはすまい。
(それでも、今だ)
 まさか的場の面々も、遺体が人間に盗み出されるなどとは考えてはおるまい。
 静司は傑出した術者だ。その庇護下にあるものにとっては悲報でも、魂魄の抜け落ちたあの骸を欲するものはいくらでも居る。力を欲する妖。飢えた物の怪。屍肉喰らい。屍体操術者。そうでなければ。

「……異端の外法師か」

 周一は微かに笑みさえ見せる。












 日付が変わる前に、再び的場邸に舞い戻った周一は、そこにいよいよ物々しい一門の本音を見る。
 門前を、まるで領事館のように二人の猛者が守る。それも並の術者ではない──。
 周一は的場邸を見渡せる欅の大木の枝の上に立ち、真っ黒なジャンプスーツを着て気配を隠す。それは内側に文言を綴った、妖気隠しの衣であった。
 呼気と共に式を飛ばす。門番の目を眩ますためのギミックだ。名取と知られぬために、敢えて低級の魑を飛ばす。大きなものを使うより、小さな的を四方八方に飛ばせば、必ず一瞬の隙が出来る。

 そして、月も星も見えぬ無天の空に、血で描いた鬼の請召符が舞う。

「風神界逅」

 淡々とした文言と共に、ざあ、と欅が凪ぐ。
 門番の目は此方には向かなかった。周一は人間ならばあり得ない距離を跳躍し、闇を跨いで、一瞬にして邸内の樹上に降り立った。

 其の様は、まさに野衾。

 樹上から見下ろす邸内に幾つか見知った顔がある。そして、使用人ではなく、今や術者の姿が目立つ。
(やはり、警戒しているのか)
 冷たい双眸は、目的の奥座敷に注がれる。静司の遺体が安置されているのが其処だ。
 だが、一人一人と対峙しながら、悠長に鬼殿へ向かう余裕などない。正確にいつ静司の息が止まったのかは知らないが、もう一日が経過しようとしているのだ。反魂は、時間が経過すればするだけ成功率は低くなっていくという。
「悪いな──的場一門」
 さっきの華麗さは何処へか、ダン!と両足で踏み切るように着地した周一は、先ずは眼前の二人に当て身を食わせて一瞬にして関節をきめる。ほぼ無音だ。だが攻撃は丁重では無い。
 決めた、と手応えを感じるや、もはやその安否の確認などなさず、周一は姿勢を低くして走る。目立っても構わない。何人でも、好きなだけ向かってくるがいい。
「侵入者だ!」
 若い女が金ぎり声で叫ぶ。
 周一は太股に巻き付けた千分の一ミクロン──とは言わないが、自在に波打つ細いチタン製の綱糸を振って解く。
「手加減はできないぞ」
 邪悪な笑みに、女は立ちすくむ。刹那、触れられもせぬうちにその四肢が張り裂けた。視認さえかなわぬ神速の糸に絡め取られたことを女は気付かずにその場に崩れた。
 さらに威嚇のために綱糸を叩き付けると、背後の石燈籠が粉々に砕け散った。
「邪魔をすれば膾になると思え──」
 走り寄ってきた幾人かが怯んだ気配がした。だが周一は振り返ることもせずにただ走った。その形相に怯えて道を譲ったものを構うこともなく、土足のまま回廊を走る周一の跫が、太鼓を打つように邸内に響く。
 視界を鮮明にするために、敢えて面は着けずに素顔を曝す。名取だ、と叫ぶ声が方々から聞こえる。──だが構わぬ、いかに謗られようと、本懐さえ遂げられるならば。

 正面に刀を携えた七瀬の姿を認めるや、周一は隣の襖を蹴倒して次の間に乗り込んだ。

 ──其処には。

「これは名取の若様──」
 いい加減見たくもない、髭面の副侍従頭であった。
「土足で弔問とは。礼儀云々を通り越して──頭をどうかなされたか」
「そこを退け」
 周一は冷徹に言い放つ。
「聞けぬ願いなれば」
「よかろう」
 淡々としたやり取りの尻を掴むように、周一が振り抜いた綱糸を、愛染明王の彫り抜かれた小刀──【愛染国俊】の鞘から見える刃が受け止める。
 だが周一はもうその時には綱糸から手を引いていた。力ずくで巻き付けられた綱糸を引く力の反動を利用して、周一の身体がひらりと紙のように宙を舞う。
 未だ風神の加護は健在だ。
「貴様!」
「脳筋め。お前とやり合うほど馬鹿じゃない」
 背後から七瀬が飛び込んできた瞬間、周一は襖を蹴倒して奥座敷に滑り込んだ。
 鳳凰の欄間。
 その広い座敷の真ん中に、守り刀を胸に抱いた、物言わぬ骸が眠る。

 的場静司。
 静司だった──屍。

「名取、お前──」
 抜き身の刀をぶら下げた七瀬の眼鏡越しの目が、屍を引きずり出した周一を凝視する。だがその目を見つめ返す、周一の双眸は据わったままだ。
「七瀬さん」
 骸を抱いた周一は言った。
 瞳を閉じた静司は、まるで生きているようだと思った。
「何だ」
「全ての警備を撤退させてくれ」
「……」
「今すぐに」
「……聞けんな」
「では、死者が出る」
 世間話のように言ったその声音はわざとではなかったが、七瀬は苦悶の表情で項垂れた。
 そして彼女は歯を食いしばったまま、指を鳴らした。
「名取」
 骸を抱いたまま、呼び掛けてくる窶れた髭面に視線を移す。もはや敵意さえ無いうつろな瞳にそぐわぬ強い声音が、張り詰めた狂嵐の静寂に響き渡る。
「狂気の障泥に憑かれたか。まさか、その骸と共に冥府へ歩む気ではあるまいに」
「………」
 静司の姿をした虚姿を一際穏やかな瞳で見遣り──ややあって、周一は答えた。


「またとない」




絶対零度-absolute zero-

2014/11/11 名取周一Birthday前夜特別編




【続】


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