君想ふ百夜の幸福


 静司がドキドキするといったら、大体が下の三つのうちの一つである。

 1、セックスをしている
 2、隠し事がある
 3、会合当日

 1は生理反応である。仕方ない。交感神経が昂って、否応なく鼓動がはやる。
 2は、意外に静司が隠し事に向いていないことに起因する。嘘をついてもばれてしまうことが余りに多いため、嫌悪刺激のように体が反応してしまうのである。逆の見方をすれば、それだけ見る目の鋭い人間が周囲に多いということにもなるのだが。
 問題は3である。
 静司は会合の主宰者、ゆえに『会長』と呼ばれることもある立場の人間だ。年齢的な意味でも場数はそれほどでもないが、勢力維持にせよ権利買収にせよ資金繰りにせよ、より精力的に活動している現的場一門の総帥、妖祓いの総元締めが、そんなにも会合ごときが怖いのか──問われれば、答えはイエスである。

 その内訳はびっくりするほど単純だ。名取周一が会合に来るか来ないかで、ひたすら悶々するためである。

 的場家主宰の会合は、祓い屋という職業の流動性や秘密主義的な性質上、事前申込みのような制度は無い。飛び入りで参加することもできれば、途中退出も自由だ。ある意味非常にカオスな催しで、政治家や暴力団関係者、人間でないものがうろちょろしていることもある。
 そんな中、会長である静司は雑務をやっているフリをしながら、延々と周一を待っている。事前に連絡があることもあるが、そんなことは稀だ。いや、譬え連絡があったって、相手は何しろ名取周一、ドタキャン大魔王。来るか来ないかなど、まさにその時にならないとわからない。だから──だからドキドキする。集まった祓い屋の雑談に耳を傾けて、誰かが周一の話をしていないかと聞き耳を立てたり、姿がないかと邸中をウロウロしたり、高いところから正面玄関を見張ったりするのだが、下手をするとそれを会合の間中続けなければいけないのだから疲弊するのは至極当然というわけで。
 最初から来ないことが判っているならまだマシだが、飛び入りの可能性もあるから油断は出来ない。以前にも2回くらい、あらかじめ欠席連絡を入れていた癖に、終了間際になって飛んできたことがあった。何の用事があったのかは知らないけれど。
 そんなであるから、会合というのは実は、静司にとっての恋愛イベントなのである。逢えるのか、逢えないのか──是非の決定項に行き当たるまでは、このドキドキは止まらない。
 だから今も、ドキドキしている。

 壇上で講釈を垂れながら──
 群衆の中に、あの人の姿を、探し続けている。










 既に肉体交渉を持って久しい相手に、それほど入れ込むことができるのかと、たまに呆れられることがある。馬鹿げた質問だ。

 静司は二階のベランダで煙草を吸っているおっさんの横に並んで、厨で貰ってきたおにぎりを食べていた。
「………名取の若さんを待ってるの?」
「はい」
 静司は正面玄関から目を離さずに、躊躇無く答えた。周一の場合は勝手口から入ってくる恐れがあるため、そちらは式に見張らせている。
「相変わらず仲良しだねえ」
「……」
 ちらりと傍らを見れば、細目でやや白髪混じりの黒髪を適当に後ろに撫で付けた、着流しでやせ形の中年男が居る。
 それはよくよく見れば、かつて会合で騒ぎを起こしたこともある、反的場の筆頭の一人であった。
「お〜や。お久しぶりですね。まだ現役だったとは……その後具合は如何です」
 静司はおにぎりの残りを口に放り込んで、もしゃもしゃと咀嚼しながら、子どものような笑みをこぼした。
 ──この男、かつて妖を我が身に取り憑かせ、その眷族に的場の傘下にある祓い屋たちを襲わせていたことがある。その際は力ある者の助力によって事なきを得たものの、事後に静司は怨恨による私的制裁を受けることになった。阿蘇にある別荘に監禁され、このおっさんと仲間たちにレイプされまくるという強烈な目に遭ったのだ。結局静司は助かったが、このおっさんの方は散々静司をレイプしたチ●ポを斧で切断されるという凄まじい報復を受ける羽目になった。
 そんなことがあってなお、まだ的場の会合に顔を出すなんてことはあり得ないだろうと、特に出禁にはしなかったのだが(寧ろ死んだと思ってた)──こんなに堂々とやって来られたらちょっと引く。
「具合ねえ。残念ながらアッチはもう当然使いものにはならないよ。名取の若さん、容赦無いから」
 旨そうに煙草の煙を吐きながら、男は可笑しそうに笑う──何が目的だ、と静司の目が僅かに細められた。そんなことをしたって何かが見えるわけでもないのに。
「君こそどうなんだ。まだあの人とはうまくいってるの」
「………別に付き合ってませんよ」
「ただのセックスフレンドにしちゃあ親密に見えるがね。今日は見てないよ。来ないんじゃないかな」
「そうですか」
 気の無い返事をするも、おっさんはまだニヤニヤ笑っている。
「あのハンサムな若さんと」
「はい?」
 耳打ちするように顔を寄せてくる。煙草臭い。ゴールデンバットなんか吸っている。
「………何度もハメまくってるんだろう──飽きないか?いい加減つまらないだろう、淡白な若い男とのセックスは」
「まあ、あなたとその仲間たちとするよりは遥かにましです」
 素知らぬ顔をして此処に出てきていきなりセクハラを連発する男の心の内は、さしもの静司にも判らない。こうやって、当事者に構ってくることについても。自分も散々な目に遭ったのだろうに、反省するどころか次の悪巧みを考えているとしか思えないのだが──。
「………?」
 す、と伸びてきた手が、静司の頬を通り越し、耳の後ろに触れる。思いがけない行動に思わず飛び退りそうになるも、体は動かなかった。呪詛だとすぐに判ったが、遅かった。
「蠱物(まじもの)を、この部分──風池と呼ばれる辺りに殖え付けると、これがまた、凄まじい勢いで自律神経を食い荒らしてくれる。死ぬ奴もいたな、ま、ありゃあ妖だったが」
「……」
 ──蠱物。
 いかにも外法師が使いそうな術。
 契約し従えた式ではなく、行きずりで捕らえでもした下等な妖を、術者が意図的に憑依に特化させたもの。それらのほとんどは自我さえ持たない。意識を持たぬそれらをひたすらに飢えさせ、標的の肉体に仕込むことで、下等な妖でありながらも絶大な力を発揮する──それが呪術師の使う蠱物の代表だ。それを抱き合わせにして相手を葬る、恐るべき外道の術である。
 静司の首筋に、チクリと痛みがさした。
 だが静司はニタリと笑った。
 ガチでやるなら、受けて立つ。
「………それで仕返しのつもりですか?」
「そんなつもりはないさ」
 余裕で燻らせる煙草を、静司にも一服させてやろうとでも思ったか──手を伸ばした途端、何かが男の手を掴んだ。
 二人が同時に、二人の間に手を入れた者を見た。そして目を見張った。

 名取周一だった。

「何してる」
 ──その開口一言、恐ろしくドスが利いていた。一聴して周一のものとは判らないような声だった。
「的場に何の用事だ──貴様が」
「………」
“──貴様が”。
 その言葉の意味は三者が一様に理解できた。
「これはこれは」
 恭しく一礼する男の動作は実に白々しい。周一の表情にあからさまな嫌悪が宿ったのを静司は見た。
「気に障ったかな、マーキングした雌に勝手に触るなんて」
「ふざけるな」
 掴んだ腕を、どちらからともなく強く振りほどく。静司の前に身を入れて、周一は表情を変えずに眼前の相手の股間──かつて己が手で切り落としたはずの部分に詰まった疑似物を強く握った。
「…………ふん、ブラックジャックでも探し出したのか?」
「よしてくれたまえ、はしたない。誰かに見られたらどうする」
 言うものの、会合の最中にわざわざ二階のベランダにまで入ってくるような奴はそう居ない。
 周一はふん、とかすかに鼻を鳴らして、手を差し入れた股間から体をひっくり返すようにして相手を軽く投げ飛ばした。
 ザッと軽い音が鳴って放り出された体に、周一はゆっくりと近付いていく。
 もう一度訊く、と周一は低く言った。
「的場に何の用だ」
 傍らにしゃがんで、周一がその髭面をのぞき込み、ちらと静司にも目を遣った。
「蠱物を仕込んだな………馬鹿馬鹿しい、復讐のつもりか」
「………」
 一同が静まり返った。階下からは騒ぎに気付かない人々の談笑が聞こえてくる。世界から隔絶されたような、奇妙な感覚。
(来た)
 秋口の冷たい風が、ぴゅうと笛を鳴らして頬を打つ。

 その無言の間に、止まっていたかのような静司の鼓動が再び動き始めた。
 何が起きているのかもさだかではない中、首筋に走る鈍い重みもさておいて、静司は目の前の周一を見た。朝一番から、この男が会合に来るか来ないかで、ひたすら悶々としていた静司である。

(周一さんが、来た──)

 会合における最重要事項。動悸・頻脈・焦躁の原因。
 聞き耳を立て、邸内をウロウロし、正面玄関を見張り、ドキドキして気もそぞろに、したり顔で心にも無い常套句を垂れ流し、挨拶もそこそこに気持ちは浮いたり沈んだり。そんなことを一体幾度繰り返して、これから幾度繰り返すのかを思うと、いっそ気が遠くなる。電話なりメールなりで予め聞き出せば、彼はちゃんと答えてくれるのだろうに。
 それができない──臆病さ。
「静司」
 いつの間にか、静司もその場にへたりこんでいた。髭面のほうは大したダメージも無く、さっさと立ち上がって此方の様子を見ている。
「周一さん、おれ」
「ちょっとごめんね」
 周一の指先が静司の耳の後ろに触れる。周一が何かを言った。けれども静司には何も聞こえなかった。昂揚が聴覚をシャットアウトしてしまったみたいだった。
「…っ!?」
 キン、と耳の奥を突くような音が鳴った──気がした。
 途端に肩が軽くなる。蠱物が取り払われたのだと判った。元より大したものでは無いのは判っていたが、消えてしまうと急に身体が軽くなる。
 けれど動悸は止まなかった。それはどうしようもないものだった。次元の異なる話だった。

 何故なら、触れられたのだから──この人に。

「見せ付けてくれるな、若君様方」
 完全に蚊帳の外に居るおっさんが、にやついた口調で野次ってくる。新しいバットをくわえて。
 あの煙草、フィルターが無いんだな──と静司は思った。思考に耽溺しているようでも、自分でも思いもよらず、余計なことを考えてしまうのが可笑しかった。
「見せ付ける?」
 答えたのは周一だ。
「……外道に何を見せ付ける必要がある。忘れたとは言わせない──そのツラに唾でも吐いてやりたいくらいだ。気に入らないなら、とっとと立ち去れ」
「やれやれ、名取の若さんは血気盛んだ」
「黙れ!」
 周一は立ち上がって此方を守るように背を向けた。
「どんな神経をしてるか知らんが──この期に及んでまたしても報復とは、よほど恥を知らんと見えるな!」
「報復?ばかな」
 髭面が、歪んだ。笑った──のかどうか。苦虫を噛み潰した、というような顔だった。
 静司には、どこか身に覚えがある気がした。周一の背と歪んだ髭面を見比べて、風の鳴く音を聞きながら、ああ、とため息をつく。
「……もう一度、あの高慢な目を見てみたかっただけだ」
 呟いた男の目は、静司を見ていた。周一も一瞬、肩越しに此方を振り返る。
「なあに、妖事にかまけて暮らしていればつい忘れてしまうが、人の世にはよくあることさ」
「………」
 ──静司には。

 静司には、判ってしまった。
 今まさに自分自身がそれに揉まれて四苦八苦している最中だからだ。妖事にかまけて暮らしていればつい忘れてしまうが、人の世にはよくあること──忘れてしまって、いや、知ることさえなく生きてきて、今になって悶絶しているのだから。

 教わって覚えるものではないと思っていても、覚えるきっかけがなければ終生決して身に付かないものがある。
 機能的な恋愛とはそういうものだ。或いは恋愛とはシステマティックな機能である。それをある程度然るべき時期に、擬似的であれ学習しなければ、いずれ機能が欠落したまま恋愛をする羽目になる。
 けれども、静司はそれで構わない。それならば、ホイホイとあちこちに乗り替えることなどままならず、死ぬまでただ一人を想い続けていられるからだ。それはきっと辛いことだけれど──それでいい。
 とはいえまさか、この狡猾な商売仇のベクトルが、此方に向いているとは思いもしなかったけれど。

「……あんたは、もしかして」
「名取の若さん」
 急に煙草の煙を吹き掛けられて、周一は咳き込んだ。
「あんたは、結構無神経な男だなあ」
「何だって?」
「芸能活動とやらもほどほどにして、たまには相手をしてやったらどうかな──そこのうさぎみたいな御頭主の」
「………」
 それは余計だ、おっさん。
 言いたいのを静司はぐっと我慢した。
 煙草をくわえたまま、着流しが翻る。終始ニヤニヤしていた顔は、偽物だと思った。凶面は、彼自身の心と相似していたのかもしれない。だがもはや静司は何も言わなかった。恐らくは、何らかのハプニングでも起こらない限り、もう彼とまみえることはあるまい。

 姿が見えなくなっても、何ら悲しいことは無かった。彼の思慕の在処を知ったところで、今更あの悪辣な中年の非道を赦す気などさらさらない。ただ、まだ気持ちの整理もつかぬまま、静司は眼前の周一の手を握った。握り返す手は、やはりとても温かかった。
 そうしたら──急に悲しいと思った。
 いずれはこの手も離さねばならないと思うと、とても。


 誰かを想うがゆえに苦悶し、誰かを想うがゆえに幸福な日々。あの男は、いつから恋をしていたのだろう。
 その誰も知ることの無い僅か半刻の物語が、歌うような風の音に掻き消されていく。それは描いたそばから消えていく、無惨な砂絵のように。
 彼は果たして、幸福だったのだろうか。


【了】


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