08
「じゃあ行くか。……志津さん?」
「今更ですが、吏部内を、通る、んですよ、ね」
「え?じゃあ窓から行っちゃう?」
「………いや、止めときましょう…それを見られる事こそ事です。覚悟は決めました。ええ、笑われる覚悟です」
「誰も笑ったりしないって」

志津が今から戦地にでも赴くような表情をしているのを見て櫂兎は苦笑を滲ませた。そして、扉に手をかける。後ろで黎深が扇を開いたのが音でわかった。きっと面白そうに口角を吊り上げているに違いない。志津は初めて紅尚書に殺意が芽生えた。いいだろう。ここまで来たらやってやる。元覆面吏部官として、完璧に女官になりきってやる。志津は自棄だった。

櫂兎が先をしずしずと歩き出すのを見て、志津も吏部の執務室に足を踏み入れた。

どよりと、ざわめきが吏部内を走った。

「(え?吏部に極上の美女とそこそこの美女がいる……幻覚?)」
「(いや、俺にも、見えて……狐狸妖怪の類とか?)」
「(待て待て待て、もしかしたら女神かもしらん。あの怜悧冷徹極悪非道大魔王尚書を罰しに来てくれたかも)」
「(そんな訳あるか!ありゃあ閻魔大王も匙を投げてしまう類のヒト科生物だ!)」

志津は所々から聞こえる声に涙が出そうになった。こんな幻覚を見ていると思い込んでしまう程に極限状態になるまで憔悴しきっているとは思ってもみなかった。ちらりと吏部官達を見渡すと、皆が皆隈を携えて十人十色な表情で此方を見ている。これは一刻も早く絳攸を連れ戻さなければ。

「大丈夫ですわ」
「え……?」
「大丈夫、ですわ。志津……香さん。何とか致しましょう。一緒に」

志津香と名前を言い換えたのには何処かむず痒いものがあったが、不思議と、ぽつりと此方に大丈夫と言って優雅に微笑んだ櫂兎に、根拠のない安堵感が何故か湧き出た。

「ありがとうございます。かいっ……何とお呼びしたら?」
「華蓮、とでもお呼びくださいまし」
「……華蓮様、ですね」

なんだか手慣れているような気がする。


「さて、後宮に向かいますわよ」

ノリノリで櫂兎が宣言する。妙に板についた彼の演技は、最早彼とは別人、一人の女性がいるようだ。自分もこんな風にしなければいけないのだろうか。

櫂兎が指差していたのは、北に真っ直ぐ伸びる廊下だった。確かに、その方向には後宮があり、途中庭を突っ切れば到着は早いことだろう。しかし、だ。こちらは正五品以上の位でしか通行許可が出ていなかったはずだ。

「通っていいのでしょうかね」
「緊急事態だし、この道が一番近いから」

それに今の私達は、華蓮に志津香さんでしてよ? と、いたずらっぽく笑みを浮かべる櫂兎、いや華蓮に、志津もそれならいいかと開き直った。今の志津は志津香である。――否、志津香ですわ!

後宮に向かう道も中程まできたところで、櫂兎は、ふと志津に問い掛けた。

「こういうことは何度もあるの?」
「女装は初めてですよ!」
「いや、そういうことじゃなくて。李侍郎の迷子のことで」
「迷子」

確かにその通りなのだが、その言葉の響きに志津は何ともいえない感覚をおぼえる。大の大人が、迷子。事実とはいえ、なんということだろう。

「いつも志津さんが見つけてるのかなと思って」
「うーん……まあ……そうですねぇ……見つけてなだめてさりげなく送り届けるまでが流れですかね」
「わあ」

そうかーそうなのかー、と、どこか身にしみて感じ入るように櫂兎が遠い目をする。志津は神妙な顔をして付け足した。

「本人はあまり知られたくないようなので、このことは内密にお願いします」
「うん、もちろん。それよりも、ありがとう、かな。彼を見つけてくれて」
「え?」

彼が礼を言うことでもないのに、どうしてと志津は疑問符を頭上に浮かべる。櫂兎は笑って、ただなんとなくと述べるだけだった。


さて、志津たちは後宮に辿り着く。呼び止められやしないかとひやひやしていた志津だったが、道行く女官たちは皆櫂兎に道を譲るようにして頭を下げるので、あっけなく侵入できてしまった。…女官たちが櫂兎と志津を、どこぞの高貴な姫君とその御付だと勘違いしていたことは言うまでもない。二人は絳攸を捜すべく、さらに奥へと歩を進めた。

長い廊下の先で佇む絳攸の姿を 志津が見つけたとほぼ同時に、「見つけた」と、櫂兎が小さく呟く。
絳攸は、あちこち周囲を見渡して、自分が見覚えのない場所にいることに焦っているようだった。

「いつの間に吏部は移設されたんだ!」

移動しているのは吏部ではなく、彼である。これで本人は迷っているつもりなどないというのだから、不思議だ。

「いい加減、迷ってるって認めちゃったらどうですの」

ずい、と歩み出た櫂兎が、艶やかに微笑む。志津も櫂兎に続いた。

「そうそう、全部一人で抱え込んでしまわずに。…ですわ」

言った。言い切った。謎の達成感が志津を満たす。
絳攸は、志津達を見て腰を抜かした風にその場に尻餅をついた。さすがにこの格好では驚きもするかと、志津が苦笑して絳攸に手を伸ばす。が、絳攸はその顔を恐怖に染めた。

「ひっ、ひいい! 女!!」

「えっ、私ですよ私、分かりませんか?」

震える絳攸に、志津は自分の顔を指す。こんな格好をしているとはいえ、同じ部署で長く苦楽修羅場を共に味わってきた間柄なのだ。櫂兎ほどの様変わりをしたわけでもないのだから、気付かれてもいいようなものだが。
そう考える志津は、今の自分が化粧と髪結い効果で、よくよく観察しなければ志津とは気付けない姿になっているということを分かっていなかった。

「俺に女官の知り合いなどいない!! く、くるなああっ」

そう叫ぶと、絳攸は逃げ出すように駆け出してしまう。

「ええ?!」

慌てて追いかけようとするも、この服では走れない。絳攸の走っていったのは、吏部とは逆方向、人の気配の多くある方だ。このままでは騒ぎになって女官達に気付かれてしまう。人が集まりでもしたら大変だ。

「仕方ありませんわね…誤解を解こうにもこれではらちがあきませんわ」
「逆に、追い立てて吏部まで誘導しましょうか」
「まぁ! 名案ですわ! では、志津香さんはそこの廊下を真っ直ぐに、私はこちらから行きます」
「分かりました」

そうして、絳攸と志津達の追いかけっこが始まる。壮絶なる攻防戦の末、絳攸を吏部まで誘導することに成功した志津達は、安堵の息を吐いた。

吏部に戻ってくるまでに、何度か人とすれ違い、中には志津の見知った顔もあったのだが、幸いなことに話しかけられることはなかった。…幸い、というよりは、すれ違う人皆が皆、女装した櫂兎の雰囲気に呑まれていたのかもしれないが。『華蓮』の存在感が強すぎて、皆呆気にとられ、何故外朝に女官の装いした人間がいるのかや、絳攸が必死に逃げているようであることまで気が回らない様子であった。


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深海でお米を炊いてきました。
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