混沌とした思考の波を落ち着けるべく、一度頭の中を空にしようとした時、櫂兎の瞼の裏に不思議と浮かんできたのは、殲華の死に顔だった。
思えばあの時の自分は、来る結果を迎えるべく、彼の死を、意向を、そのままに肯定していた。
過去の自分を振り返った櫂兎の口から、自然と言葉が零れ落ちた。
「もっと縋り付いて文句言っときゃあよかったかなあ」
その自分の呟きに、櫂兎は驚いた。
当時では思いつきもしなかった考えであり、とるはずのない選択肢だった。だというのに、その言葉を呟いた櫂兎の胸を占めていたのは、今更溶かしようもない切なさや理不尽さだった。
執着、しているのだろう。そう、執着するようになった。――妹以外のものに。
その変化は、櫂兎には喜べばいいのか悲しめばいいのか分からなかった。
ただ、あの時のように、このまま『なるようになる』のを自分は待つのかと、そう己に問いかけると、どうしようもない苦い気持ちが湧きあがった。
「……やだなあ」
「何が嫌なんだ?」
「うわっ! ……驚かさないでくださいよ、貘馬木殿」
いつの間に来ていたのか、櫂兎の目の前には貘馬木がいた。随分と時間が経っていたらしく、窓の外には夕陽が見えた。
貘馬木はというと、櫂兎が慌てて懐に入れた『さいうんこくげんさく』に興味を抱いたようだった。流石に櫂兎の服の中にまで手を伸ばしてくるようなことはなかったが、チラチラと態とらしく視線を逸らしたり合わせたりして、その本の話題を振ってくる。
「ナニソレ。春本? 俺、邪魔しちゃったァ?」
「誤解です! これはそういうんじゃないです!」
「ふーん? じゃあ、なんなのさ?」
「それは、その…日記のようなもので」
「へー」
貘馬木の返事は棒読みだ。
絶対に誤解してるよこの人! との櫂兎の心の声を知ってか知らずか、貘馬木は、ニヤニヤと楽しそうな笑みを崩さず櫂兎を見据える。
「まぁ、優しい優しいむっしゅーさんはそれ以上は聞かないでおいてやるけどォ。
その代わり答えろよ。お前さっきまで何考えてたワケ? すっげー変な顔してたろ」
「それは」
一拍置いて、どう答えるべきか思案しながら櫂兎は言葉を紡ぐ。
「このままだと、嫌だなって思ってたんですけど、だからって手を加えるのって…そう、その人それぞれが真剣に描いている絵に、ひょっこりやってきた俺が勝手に描き加えていくのって、ダメだよなあって、そう思ったんですよ」
「よく分からんが何かの比喩だということは察した」
流石である。
「変えるとなると、描き手の中には妥協や譲歩する人が出てくる。その人の望む絵を、諦めさせることになる。それはやっぱりダメだって、でも、俺は、他の絵を見たい」
「なあ、それって、いつぞの茶州の疫病騒ぎの時の、お前の頼み事と関係ある?」
貘馬木の問い掛けに、櫂兎は数瞬息を止めた。
「……それは、勘ですか?」
「関係あるんだな」
ニヤリと口端を上げた貘馬木は、そうかそうかと顎を撫でた。
「棚夏が何を知ってるかは訊かねぇけどさぁ、考えてみ?
一度出来上がっちまえば、それがどんなものであれ、その絵を受け入れるしかねーわけ」
「……ええ、そうですね」
「――なら、受け入れさせちゃえよ」
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bkm