その日の後宮は、朝から慌ただしかった。というのも、色々と伝説の残る、あの先代の筆頭女官が後宮に訪れ、しかも暫く滞在するというのだ。元々は出迎えを盛大にする予定などなかったのだが、あの伝説の女傑を一目見たいと女官達が騒ぎ立て、急遽出迎えという体をとった先代筆頭女官鑑賞会が行われることになったのである。珠翠は、頭の痛いことこの上なかった。
「寧明様、今日も先代様のお話をお聞かせくださいまし〜!」
「私もお聞きしたいですわ! 寧明様は、実際に先代様をご存知なのでしょう?」
「ええ、ええ。私が後宮入りした頃には、先代様は既に筆頭で、それなのに誰にも分け隔てなくお優しくて、お忙しい合間を縫って私にも直接指導下さいました。指導は厳しいものでしたけれど、それは当時、まだ幼い私を一人前の女性扱いして下さっていたが故の厳しさで、それが私は嬉しくて…」
「きゃーっ愛の鞭ですわね〜!」
「素敵ですわー!」
きゃっきゃと噂の花が咲く、後宮でのこのような光景もここ数日ですっかりおなじみとなってしまった。
先の筆頭女官に関する噂のあれやこれやは尽きないのだが、中でも女官達に人気だったのは、やはり恋の話だった。やれ誰それから熱烈な求愛を受けただの、やれ誰それとの結ばれぬ悲しい恋だの、やはり他人の色恋ごとは皆気になるものらしい。
「いいですか? 決して! 御本人に尋ねることのないように!」
珠翠が眉を吊り上げ言うのに、女官達はおっとり微笑み言葉を返す。
「心得ております」
「秘めたる恋を暴くような、無粋な真似は致しませんわ」
「いえ、そういうことではなく…」
根も葉もありはするのだが、それは花咲き実が成るなんてことがない恋であって。決してそのような事実はない、はずなのだが。
「うふふ。私が致しますのはあくまで噂、ですわ。う・わ・さ」
「はしゃぎ過ぎですわよ、寧明。いくら華蓮様がいらっしゃるからといって、業務に差し障りがでるでしょう?」
話を溢れ聞いていた奈津が、はあ、と溜息をつき、寧明を窘めた。
「奈津お姉様だって、先程廊下で唐辛子を大量に繋いだ紐を振り回して楽しそうに跳ねてらっしゃったじゃないですか」
「わっ、私のはっ…きちんと仕事をした後だからいいんですっ!」
「貴女そんなことをしていたの奈津!?」
しっかり者にみえて、たまに予想のつかないことをしてくれる。珠翠はこのままその場に倒れてしまいたくなった。
「いえ、私が…しっかりして、きちんと華蓮様をお迎えしないと…」
華蓮到着の刻は、もうすぐそこだった。
軒を降り、悠々と門番に挨拶をする。後宮への取次を申し入れれば、程なくして女官が数人やってきた。その中に知った顔を見つけ、華蓮は声を掛ける。
「あら、奈津? 奈津ね。元気にしていたかしら?」
「華蓮様! お久しゅうございます! ああ、憶えていただけていたなんて…」
うっとりとした顔でふらり、と奈津が倒れかかるのを、他の女官三人が支える。
「まあ奈津ったら、相変わらず、大袈裟ですわよ」
華蓮は艶やかに微笑む。それから三人とも目を合わせ、にっこり笑った。
「華蓮と申しますわ。後宮では、先代の筆頭を務めさせて頂きましたの。
とはいいましても、私は既に退いた身、今更しゃしゃり出るつもりはありませんから、ご安心なさってね。
もちろん、年寄りの知恵でよければお貸ししますわ、気易く声を掛けてくださいまし。暫くご厄介になりますわ」
華蓮の微笑みに呑まれ、ぼうっとなっていた三人は華蓮が礼をしたところで慌てて意識を戻す。
「そ、そんな! 礼など、おやめください。貴女様に頭を下げられて、平気な女官がおりましょうか!」
「年寄りだなんて…! 未だお若くお美しくあらせられて…ほ、本当にその、お歳を召してらっしゃるのですか?」
「あわわわわわ」
「うふふ。そうですわねえ…おばあちゃん、といえるくらいの歳かしらねえ」
「流石ですわ華蓮様! いつまでもお若くお美しくあらせられる!!」
奈津が目をキラキラさせて華蓮を見つめる。
正直、信じられないことだった。女官たち三人は顔を見合わせた。目の前の彼女は、隣にいる奈津よりも随分若く、下手すると自分達より年下にも見える。
しかし、その纏う空気とでもいうものが、長い年月で積み重ねられてきた何かを感じさせ、訴える。
これが、先代筆頭、伝説の人。
「ま。生身の人間ですわよ?」
そんな彼女らの考えをよんだかのように、華蓮はそう言って目を細め笑った。
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