「噂があんだってさ」
「噂?」
眉根を寄せた秀麗に、こくんと蘇芳は頷く。
正直自分よりも、彼女の知り合いだという、あの長官とあんな会話を繰り広げていた優男の方が、今の御史台については詳しそうではあるが。
「そ、御史台の副官に関して、なんだけど。
空席のはずの副官に、最近補佐が就いたっていうんだよ。んで、その頃から御史台の動き方が多少変わったらしくて、実は隠れて副官が就任したんじゃないかっていわれてるらしい」
これは、単なる噂であるからこそ聞けた話で、逆にいえばそれ以上となると徹底して黙秘を貫かれたわけだが。
「それって、どうして副官が居ることになるの? その副官の補佐だって人が、変えたんじゃないかしら」
こてんと首を傾げ、何気ないことのように言う秀麗。蘇芳はというと、その指摘を吟味し、検討して、黙り込んだ。
可能性は、決して高くない。それどころか、彼女の指摘を聞いてからは、そう捉えるのがごく自然なことのようにすら思える。
いや、普通なら、補佐がいるだけで御史台に変化が起こるはずもない。あり得ないことで、変化から副官の存在を感じとっても仕方がない。だが、蘇芳はその、副官補佐だという人物の異質さを、少しとはいえ知っていた。
どこまでをよんでいたのか。冗官室での言伝も、父親への差し入れのことも、最初から全てを知っていたとしか思えないような、それでいてどこか傍観的な、あの男。人が良さそうな笑顔を浮かべて、意図の読めないことをして。
ここまでくると、彼が秀麗と以前からの知り合いであったということが、偶然では片付けられないことのように思える。
ならば、彼が、御史台でその位置にいることには、一体どういう意味がある――?
「どうしたの、タンタン。黙り込んじゃって」
「……御史台にいる、アンタの前からの知り合いだっていう人物について考えてたの」
「前からの知り合い…って、そんなのいないわよ?」
櫂兎が御史台に属していることを知らない秀麗は、本気で分からないという顔をする。
「いやいや。ほら、父親の友人だとかいう」
「もしかして、櫂兎さん?」
まさかぁ、と、露ほども信じていなさそうに笑った秀麗に、蘇芳は頭を抱えた。
と、まるで呼ばれてきたように、そこに声が飛び込んできた。
「――あれ、秀麗ちゃんにタンタン君?」
「うわ出た」
蘇芳は思わずそんなことを口にした。秀麗はといえば、驚きで固まっていた。
声の主は櫂兎――そう、彼女のよく知る人物であり、その人物が出てきた場所は、御史台へ出入りする門だった。
「あー…長官の呼び出しか。ちょっと待ってね、今対応できるかきいてくるから」
そう言うと、櫂兎は門の中に引っ込んでいった。
暫し無言の後、ハッとした秀麗が蘇芳に詰め寄る。
「どどどどういうことよタンタン!」
「いやだから、御史台にいるんだって、アンタの知り合い」
「聞いてないわよーッ!」
「言ってなかったからね」
何時の間にか戻ってきていた櫂兎が、秀麗の叫びにさらりと言葉を返した。
絶句した秀麗に、櫂兎は彼のみせるいつもの穏やかな笑みを向け、すぐにでも皇毅と話ができるということを二人に告げた。
門番に口利きをして貰い、すんなりと御史台に入れた秀麗と蘇芳は、櫂兎を先導に長官室へ向かう。向かいながら、櫂兎は申し訳なさそうな顔をして秀麗に話す。
「黙っておいたほうが、何かと都合のいいことの多い部署だったから」
ごめんね、と櫂兎は謝るが、秀麗はそれどころではない。御史台への諸々の印象が櫂兎と結びつかず、頭の中は真っ白であった。
「でも、秀麗ちゃんも御史台に所属することになったんだ。お揃いだね」
『お揃い』の単語に秀麗はびくりと身体を跳ねさせる。秀麗が冗官になって間もない頃、櫂兎とお揃いだなんて考えていたのを思い出したのだ。あの時は勘違いであったが、今度は違う。きちんとお揃いだ。
それは嬉しい、嬉しいが…何てったって御史台である。彼がいたら、うっかり甘えてしまいそうで、いやそもそも、彼はいつも優しいけれど、仕事となったらその関係は変わってしまうのだろうか、とか、少し前の清雅の猫被りっぷりを思い出して、彼ももしやずっと秀麗の前では猫被っていたのか、とか、考えてはみたものの関係は変わって欲しくないし彼を疑いたくはない、だとか、これも甘い考えなんだろうか、とか。結論が出ないまま、疑問や迷いばかりが次々ぐるぐる頭を巡る。
そうしているうちに、着いたらしい。長官室の重厚な扉は、妙な威圧感を生み出しているような気すらした。
秀麗は一先ず悩みは投げ置いて、しゃきりと背を伸ばす。
櫂兎は、ごく自然体で扉を叩き、取っ手に手を掛けた。重そうな扉を軽々開けてみせた櫂兎の、その細い腕のどこにそんな力があるのかと、蘇芳は不思議に思った。
「ようこそ御史台へ」
まるで我が家へ招き入れるかのように、櫂兎は二人に微笑みかけた。
(緑風は刃のごとく・終)
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