緑風は刃のごとく 82
仕事もひと段落し、夕方の沃との約束は昼の一件でなくなり、蘇芳が皇毅に例のことを伝え淵西の命が保証されたことも知った。
櫂兎がさて帰ろうかといったところで、甘い二胡の音が遠くできこえ、思わずそちらにふらりふらりと近づいていく。懐かしい、その音は昔きいた薔薇姫の二胡の音とそっくりで、けれどどこか違って。


(秀麗ちゃん、だな…)


少し、泣きたい気持ちになりながら。その調べを追えばその演目が『蘇芳』だったことに気付く。甘い甘い恋の旋律に、咲き誇る春の庭の匂いも相まって酔いそうだ。この辺りに咲いているのは桃か、夜桜に似て風情がある。


「こんなとこで何してるの」

「ひいっ」


突然の背後からの声に強張る櫂兎だったが、その背襟をぐいと引かれそのまま後ろに転びかける。その身を声の主は受け止めた。


「感謝してね」

「……元はといえば、貴方が襟を引くから転びかけたのだと思うのです」

「そうかもね」


飄々と言ってのけた晏樹に、桃の木を見た段階で逃げるべきだったと櫂兎は思うのだった。


「で、何してたの?」

「二胡をきいていました」


弾き終えたのか、音は止んでいた。


「ああ。上手だよね」


手のひらの上で桃を転がし、晏樹は妖艶な笑みを浮かべる。これは笑っているのではなく、素顔がこういうつくりなのだと、ここ数月の彼とのやりとりで櫂兎は気付いていた。


「……龍笛も聴こえはじめましたね」


龍蓮とはまた違った奏でられ方、というかこちらが正しいのかもしれない。見事なまでの技術を魅せる旋律が届く。その曲は、先ほどと同じ『蘇芳』であるのにどこか凛として飾り気ない。ついでに甘さもない。


「皇毅だね。二胡をきいて、吹きたくなったかな」

「へえ。……長官って、負けず嫌いですよね」

「うん」


ふと、龍笛の音に別の音が混じりだす。二胡ではない、笛のような――ああ、口笛だ。飄々として、独特なその音色は時折指笛のような音も交え、果てはビブラートまでかかっている。絶好調のようだ。


(っていうか何してるんです貘馬木殿!)


これほどまでに口笛が上手い人間を、櫂兎は貘馬木くらいしかしらない。その口笛で奏でられる『蘇芳』は、前の二人とはまた違った趣で、初恋のような、甘くもあり酸いも苦みも感じさせる、どこか初々しい爽やかな音色だった。曲の演じ方としてもそうだが、口笛でここまでできるのか。驚きだ。
そんなことを思いながら晏樹の方を見た櫂兎は、晏樹の表情にぎょっとした。晏樹のそんな顔を、櫂兎は見たことがなかった。彼に悪意は多少抱かれども、これほどまでのものは向けられたことなどない。敵意は、更にない。嫌悪だけは、何度も抱かれているけれど。
晏樹のその表情は、憎悪と表現するのが一番近いのだろう。その感情は、ここにはいない口笛の主に向けられているように思えた。


「この口笛は最悪だね」

「えっ上手いですよ」

「演者で台無しだよ」


凄い言い掛かりだった。


「死んだと思ったのに、残念だなあ」

「一体何の恨みが……」

「秘密」


にっこりとして、顔の前で人差し指をたててしぃーっと囁いた晏樹は、「これ以上きいたらコロス!」とでも副音声が入っていそうで、反射的に櫂兎はぶんぶんと首を縦に振った。


「そうか、確か君が後釜だったね」

「ええと?」

「貘馬木梦須。おぼえてない?」


覚えてます、覚えてますとも。ついでに今邸に泊まっているなんて言った日には、邸にまで来て消されかねない。


「ああ…だから君が気に食わないのか」

「とばっちり!?」


貘馬木殿の後に、あの役職についたのが俺だったからこんなに嫌い嫌い言われていたの?!


「ふふふ」


絶対にここは笑うところじゃないと櫂兎は内心つっこみながら、その晏樹の笑顔に気圧されて頬を引きつらせ笑うのだった。

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空中三回転半宙返り土下座
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