「ふふ。ふ。ふふふふふふ」
不気味なふふふ笑いが執務室に木霊する。
当初はつとめて無視していた楸瑛だったが、止めない限り永遠に続くことを知ると、おもむろに一つ咳払いした。
「……主上」
「ふふふふふ」
「主上」
「ふんふん」
――全然きいていなかった。
さらさらと署名をしたり御璽を捺したりしてきちんと政務をしてはいるが、にへにへと崩れまくったその顔には、最近ひそかに宮女の間で評判だった『冴えます美貌』は欠片もみられない。とはいえ、ほっぺたをみょーんとつねりたくなるほど幸せいっぱいなその顔は、楸瑛にとっては実に見慣れたものであった。
ようやく目にすることができたその表情に、ホッとしている自分に楸瑛は気付く。
安堵すると同時に、この特別な笑顔を贈ることができる相手が二人――実質安心して彼がへらへらできるのはたった一人しかいないことに、不安をおぼえた。そう、たった一人。もう一人思い当たらないこともないが、その人物はいま何処にいるかすら分からない。
「……どうして私や絳攸を一緒に連れていってくださらなかったんですか」
「なっ、なぜわかった!」
それまでうららかな春風が吹いていた劉輝の頭が瞬時に覚醒した風にハッとした顔をする。
「そりゃわかりますよ」
劉輝はもじもじと後ろめたそうに視線を彷徨わせた。
「その、ちょっとしたご縁があってだな。夜中近くで、急なことだったのだ。別に仲間外れにしたわけではないのだぞ。余だってご飯も食べず、二胡も聞けずに帰ってきたし……」
「つまり突発的に行かれたわけですね。で、邵可様に『夜這い御免状』を出されたんですか」
「いや、うっかり失念してな……挨拶もせずに明け方慌てて帰ってきてしまったのだ」
ぼそぼそと呟く劉輝に楸瑛は眉を上げた。……なんと、まっとうな『夜這い』である。
ちなみに朝帰りだった劉輝を偶然櫂兎が目撃していたが、変な噂にはせず色々と心の中にしまったことは余談だ。
「……ずっと二人きりでいらしたんですか?」
「うむ。一緒に朝日を見たのだ。秀麗が手を繋いでくれてな」
てれてれと頬をかく劉輝に、楸瑛はますます仰天した。もしかするともしかするかと思ったが、しかし楸瑛も曲がりなりにも二人と二年近く付き合ってきた実績がある。
「それはそれは……で、どこで朝日を見たんですか?」
「庭院の桜の下だ」
「ほう。春ならかなりイイ線の選択ですが、今はずいぶん寒くないですか」
「うむ。霜で尻が濡れてな、櫂兎にも霜には気をつけろと言われていたのに失念していた」
「棚夏殿が」
何故そんな話を櫂兎がしたのか謎だったが、状況的に大正解だったようである。流石は棚夏殿、と楸瑛は内心感心していた。
「秀麗が途中で尻が凍りつきかけていることに気付いてくれなかったら、日が高くなるまで二人して動けなくなっていたぞ。とはいえ余など慌てて立ちあがったから衣が裂けて、珠翠に怒られた……。幸い重ね着していたから被害は上衣一枚に留まったが、下衣が破れていたら余は男としての面目を失うところだった」
劉輝が至極真面目にそう言うものだから、楸瑛は吹き出しそうになる。必死にこらえようとして、結局失敗した。
「いいんだ。ちゃんと秀麗が縫ってくれたからな。余は幸せ者なのだ」
笑い出した楸瑛に、劉輝はぷいとそっぽを向いた。
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bkm