「鳳珠」
鳳珠は声のした方に顔を向けては、その人影が誰であるか視認し、顔をしかめた。
「何だ」
それはここ数日、櫂兎の知人達の間では非難の的の彼、紅黎深だった。
今回、越権行為を黎深が咎めた形で公では片がついたが、みる人がみれば、それは黎深が普段仕事していなかったツケを櫂兎が代わりに払ったにすぎないことが丸わかりなのだ。その上、黎深はそれに気付いてすらいない、いや――気付いていたとして感謝もへったくれもない。
(櫂兎のことを知らないなどとほざくこいつには、それに興味すらないのだろう。全く…何処まで馬鹿でいれば気が済むのか)
どうしてあのときの国試のことを忘れることができるのか、そして忘れていたところでどうしてあの櫂兎相手にこれほどまでに非情であれるのか、鳳珠にはわからなかった。
そこで、鳳珠は黎深がいつもと違う調子なことに気付いた。話しかけておいて、いつまでたっても喋りださないのだった。いつもは黙れと言おうが文句言おうが、聞く耳持たずうるさいくらいにべらべらと話すくせに、だ。
しばらく無言の静寂があったのち、鳳珠は話しださない黎深に溜息ついた。
「用がないなら私は行くぞ」
「ま、待て」
「……」
やはり、何か言いたいことがあるらしい。しかしいつまでたっても言わなければ埒があかない。また、無言の時が流れた。
双方無言、話しださない黎深に鳳珠が苛立ちをも通り過ぎ、呆れも終わり、無関心で他のことを考え出した頃、ようやく黎深は口を開いた
「私は、とんでもないことをしてしまった――の、かもしれん」
櫂兎がろくに出仕せず邸に引きこもってから五日目のこと。
「……引きこもるの飽きた」
櫂兎はそう言って身を起こした。
かといって出仕したところで、行く場所もすることもないのだが。
「……邵可んとこにでも、行くかな」
彼が府庫にこもっていなければ、そろそろ邸に帰る時間だろう。
何となく、嫌な予感がして、櫂兎は邵可邸に向かった。
その予感は当たっていた。
「何か父茶の香りしかしない…」
まだ敷地内に足を踏み入れていないのに、あの独特な漢方のような土のような葱のような香りがする。発生源はもちろん邵可邸だ。
「おや、櫂兎。こんなところでどうしたんだい?」
邸の門前でうろうろとしていれば、後ろから声が掛かる。
「邵可、今帰りか」
「うん。君は――あぁ、そういや冗官、だったね」
ポンと手を打ちさらっと口にした邵可に、櫂兎は苦笑いした。
「あれは上司を育てた誰かさんの面倒のみかたが悪かったんだろうな」
「さて、誰のことだろう?」
こいつ、分かっててしらばっくれやがった……。
「……ま、いいけど、いやよくないけど、まあいい。それより邵可、このにおい何だ?っていうか何でだ?!」
「うん?におい?」
今度は本当に分からないといった風に、邵可の頭の上にクエスチョンマークが並ぶ。
「父茶…あー、お前がいつも淹れてくれる茶の香りがここまでしてるんだけど」
「……あー、それって、ひょっとして、あれかなぁ」
「どれだよ」
「うーん、と、ねぇ……」
邵可は眉間に人差し指をおいて少し悩ましげな顔をつくった。
「実は昨日、お茶を沸かしたんだ」
「……それがどうしてこのにおいの原因になるんだ?」
「爆発したんだ」
予想の斜め上をいかれ、櫂兎は呆然とした。
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