じんじんと痺れる頬に手をやった朔洵は――笑い出す。
「参ったな……」
どう考えたって最期なのに、彼女は諦めないで、前を向いて、それこそ一度も振り返らず走っていってしまった。
「君は本当に『特別』だったんだ……」
彼女が居ただけで、この半月は穏やかで、満ち足りて。
「――…………ぁ」
そこで朔洵は、血の香りに紛れてただよう優しい甘い香りに気付いた。
(これは――)
「――久しぶり、甘露茶飲む?」
目の前に立った、知らないはずの、それでいて懐かしい男はそう言って甘露茶の用意した茶器盆にのせ、微笑んだ。
「誰」
名前なんて――知らない。それは彼が名乗らなかったから。
目の前の男が固まったのが見えた。知らない、そのくせ懐かしい。
「……とりあえず、こう、この出会いにさ、何か言葉ない?」
おずおずと問う目の前の男。
「誰」
鼻孔を、甘い香りがふわりと撫でた。
ああ、そうだ。――彼は、
「14年くらい振りなんだから、懐かしむとかあるだろ」
「貴方との懐かしめる思い出なんて、甘露茶くらいしかないよ」
初めて、この茶朔洵が甘露茶を淹れた人。人のために何かした、最初の。
(そう、……そうだ。彼に、『甘露茶を大切な人たちのために淹れる子』の話をきいたんだ。だから私は、こんなにも――)
「……ばっちり覚えてるじゃねーかよ」
「うん、ついさっき、思い出した。死に際に走馬灯が走るって本当なんだね」
笑った朔洵に苦虫噛み潰したような顔を男はした。
「縁起でもないこと言うなっての。ああ、くそ…で、淹れていいの?駄目なの?」
「淹れて」
「おう」
甘露茶を注ぐのを、みつめる。視界は甘露茶注ぎ終わるまでに闇色に染まった。――漆黒の夜の色。朔洵はまた笑った。それから思いついた風に言う
「二胡も弾いて」
「俺でいいの」
「うん」
男は、迷わず朔洵の血濡れた二胡を手にとったらしい。すぐに曲ははじまった。曲名は想遥恋――永遠に叶わぬ片恋。
「……皮肉?」
「おう」
「……下手」
どかっ、と音して曲が止まった。ずっこけたのかもしれない
「弾くことは上手いのに、奏でる点では下手だよね」
技術的には彼の弾き方に感嘆の声漏らすところ多かった。絶妙の間や強弱、彼独自に曲解釈してか、編曲してあり、二胡でも聴きやすくしてあった。しかしそこには、いっそ不自然までに色がなかった。
「悪かったな、表現力ない無感情曲で!」
「はは…秀麗の二胡の音の方が、ずっと、ずっと綺麗だよ」
「知ってるよ馬鹿。…くそ、そこは気を使って世辞の一つや二つ言ってくれたっていいだろうに」
「死に掛けの人間目の前に甘露茶飲むとか訊いてきた人間に言われたくないなぁ」
「……お互い様、か」
確かにその通りだった。お互い、どうも間の悪いというか、突拍子もないというか。
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bkm