「今日は月の出が遅くないですかー?」
落ち着かない心地で空を見上げた影月に、燕青は笑う。
「何言ってんだ影月。今日は新月だぞ。真っ暗闇だって」
「……そうでしたっけ」
茶本邸、その大邸宅を軒から一目見上げた影月は、急に背筋がゾクゾクと寒くなった。
「……うわー風邪かなー」
「なんだぁ影月、医者の不養生か? この一大事に。健康管理も州牧の必須条件なんだぞ。早いとこ香鈴嬢ちゃんを嫁にもらうしかないな」
「なっ、ななな何言ってるんですかー!」
顔を真っ赤にする影月にからかい甲斐があるなぁと笑ったあと、燕青自身も首を傾げた。
「……とかいいつつ、実は俺も妙に鳥肌立ってんだよなー」
略装とはいえ正規の官服をまとった燕青は、窮屈そうに襟元をくつろげた。
「燕青さん、そういうきちっとした衣もすごくお似合いですね。とっても格好いいです。はぁ、それに比べて……。春の時も櫂兎さんに用意してもらった服を着て思いましたけど、ほんと僕『着られてる』って感じですよねー」
眉を下げた影月に燕青は苦笑した。
「なぁ、ちゃんと鏡見たか? 春よりずっと似合ってるぜ。自信もてって。お前、これからどんどんいい男になるぞ。それこそ十年後には櫂兎や俺様顔負けのもてもてだ」
『十年後』――燕青の言葉に影月の顔はわずかに曇る。自分に十年後があったなら……
表情暗くなっていたことに気付いて、慌てて影月はいつも通りをよそおう。幸い、燕青は茶本邸を見上げていてこちらの表情には気付かなかったらしい。
「さーて影月、覚悟決めたか? ぜーんぶこっちに惹きつけるために、わざわざ派手にこんな恰好してきたんだからな。とはいえ乗り込むのは今のところ俺たちだけ。周りは敵だらけ。人はこれを無謀という」
影月は吹き出した。
「嘘ばっかり。あんなにたくさん色々やってくださって。……ねぇ燕青さん、あなたは僕に、こんなときでも陽月を出さないのかって言わないんですね?」
「なんでだ? 州牧なのはお前であって、陽月じゃないだろ」
当たり前のようにかえされたその言葉に、影月は満面の笑みを浮かべた。
元気を取り戻した影月は、門の中へ消える軒の数を数えながら燕青に言った。
「たくさん一族のかたが入って行きますよー。僕たちも、そろそろいいんじゃないですか?」
「ああ。……ああ〜……こんなバカみてーに豪華な軒借りちまって……もう俺、一生彰に借金返せねーよ……」
馭者をつとめる彰は、眼鏡を押し上げつつにっこりと笑う。
「実は貴方がたへのお手紙とは別に、姉の御客人から置き手紙頂いてます。なんでもご祝儀として『軒代は肩代わりするからとびっきり豪華なのを頼む』んだそうです」
ぱぁ、と表情明るくした燕青に彰はニコリと笑う。
「でも他の借金が消えたわけではないこと、お忘れないよう。それに馭者代は軒代に含まれません」
私は高いですよと言った彰に、ガクッと肩落とした燕青を影月がおろおろしつつ慰める。彰はそれをみてくすくすと笑って、眼鏡を押し上げた。
「一生ツケて差し上げますから、ご心配なく」
さあ参りましょうか、と彰は馬に鞭を当てる。
今宵は新月。――漆黒の月の宴は、今始まった。
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