邸の奥の一室で、老婦人はゆるりと睫毛を上げた。
「……ようやく、決めおったか」
気高い外見をものの見事に裏切って、彼女は苛立ちも露に羽扇をひるがえす。乱暴に卓子に叩きつけられた扇から、柔らかな白い羽根が幾筋か抜けてくるくると舞った。
「遅すぎるわ」
こちらのゴタゴタが表面化するまで腰を上げぬとは、まったくどうしようもない腐れ外道だ。茶州にきておいて暫くは何もせずぶらぶらしているだけなど、ふざけるなと物申したくなる。
昔から虫の好かぬ男だった。狐狸妖怪爺道を驀進しているだろう今も――やつにそれ以外の道があろうはずがない――その評価は変わることはないだろう。
何もかも知った顔をする鬼畜男……霄瑤旋。それでも、彼女は彼を待った。虫は好かぬが、自分たちには唯一、そして何より大きな共通点があったから。
彼女は歳を感じさせぬ優美な動きで立ち上がった。
片翼はもがれてしまった。それでも、まだ守るべきものがあるから、逝けない。
(許せ、鴛洵……今しばし)
歩き始めた愛しい孫たち。かつて自分たちが駆け抜けた時を、彼らもゆこうとしている。
己が道を、己が手に掴むため。
――彼女がこの室から出るには、まだしばしの時が必要だった。
「うっわー、お前……お前がきちゃったのかよー」
会った瞬間燕青は額を抑えた。由准と名乗る悠舜に彼の算段は分かる。分かるのだが……。
「琥漣城はほんっと大丈夫なのかぁ?」
苦笑いして悠舜の身体を支える。新州牧二人には、彼の紹介は着任後にきちんとすることを述べ、死体一歩手前なへろへろの悠舜を、臥室に追い立てて休ませた。
目覚めた悠舜は、現時点である分の仕事を取り敢えず持ってきてもらうことを新州牧二人に頼んだ。
(櫂兎の言ってた「やるときはやる、引きこもりの振りしてみせた捻くれ者」ってこういうことな……)
確かに今「鄭悠舜」は琥漣城に引きこもっていることになっており、目の前にいる彼は由准を名乗っている。しかし捻くれ者といってしまうには少し引っかかるような。
「櫂兎から、手紙貰ってんぞ」
「櫂兎が?」
疲れの色がまだみえるというのに机案を並べ、金華の事後処理関係の仕事にとりかかろうとしていた悠舜は、櫂兎の名に動きを止める。ほい、と差し出された手紙を燕青から受け取り、開いてさっと目を通して…折り畳んだ。そのまま机脇に置いて、彼は処理仕事に戻る。
「何かいてあったんだ?」
「この前の手紙の続きでした。芋は冬頃までもつから、焼き芋でも食べに貴陽まで来いと。『返事くれないと、俺が一人で全部食べちゃうぞー』だそうです」
「……へぇ」
「どうせ櫂兎のことだから、来年の朝賀に私も出るようにという意味合いで『冬に貴陽』をずっと言ってるんですよ」
深読みし過ぎな悠舜に、櫂兎のあの様子からしてそれはあり得ないような…と燕青は片頬引きつらせた。なるほど、これは確かに捻くれ者かもしれない。
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空中三回転半宙返り土下座
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bkm