想いは遥かなる茶都へ 42
「君と、君の二胡と、しばらくお別れするのは寂しいけれど、待つのも嫌いではないんだ。ああそうだ、教えてあげる。仲障おじいさまは新しい茶家当主の指輪をつくらせてるよ」


この言葉には貘馬木は成る程と小さく呟き、克洵が目を剥いた。


「一族に諮らずにそんなことを!?」

「みんなで一つの椅子を争っているのに、相談なんて無意味だろう。でも勝手につくった当主印だけでは、他の者が納得しない。おじいさまは傍系で血も薄いし、なおさらだ。だから新州牧が必要なのさ」


秀麗を背中にかばった静蘭へ、朔洵は歌うように言った。


「ねえ“小旋風”、君がさっきしたことと同じだよ。官吏は王の代理、特に州牧が指名したなら、誰もが新当主と認めざるを得ない。だからおじいさまは州牧の印と佩玉を欲しがった。意のままに動く者を州牧に据え、自分を当主に指名させるように」


じゃあね、と朔洵は笑って窓から身を躍らせた。まず間違いなく絶命する高さから。思わず秀麗は前へ踏み出しかけ――寸前で思いとどまった。


「死んでないよ、逃げた」


貘馬木の淡々とした声が響く。


「紅州牧! 御身ご無事でいらっしゃいますか!?」


そのとき、上品そうな初老の男が官兵を引き連れ、雪崩を打って飛び込んできた。朔洵から逃れえた秀麗は、ようやく邸の外が大騒ぎになっていることを知った。きっと今頃は全商連の精兵たちが“殺刃賊”の残党を粛清しているだろう。だがこれほどの騒ぎに、秀麗はまるで気付いていなかった。神経のすべてをあの男に注いでいたのだ。
かすかに震える秀麗を支えながら、静蘭はその様子を注意深く見つめていた。


「ちっとばかり遅かったぞ柴のじっちゃん」

「浪州牧……でなく浪補佐! 私がいたらぬばかりにこのような……新州牧におかれましてはもはやお詫びのしようもございません! この責はこの身をもって贖いを」

「柴太守……でいらっしゃいますね」


思ったよりも落ち着いた声が出た。まるで自分の声ではないかのように秀麗には思えた。


「幽閉されていたにもかかわらず、真っ先に駆けつけてくださったそのお心を嬉しく思います。金華は大切な街です。私たちの州牧印及び比武官の権限をもって事態の収束と平定にあたりたいと思っておりますが、よろしくご指導願えますでしょうか?」

「は……」


柴太守は一瞬呆け、次に燕青をチラリと見やり、笑みと共に深々と膝をついた。


「杜州牧と同じことをおっしゃる。私金華太守柴進ならびに金華全民、遅ればせながら、両州牧のご赴任のお慶びを申し上げます」


ざっと、背後の官兵たちもそろって膝をついた。


「……お礼を……」


秀麗は言いかけたが、限界まで張り詰めていた糸がぷっつりと切れたように静蘭の胸に倒れこむ。
外では雨が降り始めていた。雷鳴が轟き、寸時に豪雨となる。全てがまだ始まりにすぎないことを暗示するかのように、その日は深夜まで雷雨がやまなかった。


茶朔洵はその日、金華から忽然と姿を消した。









そのまま菊の邸を後にし、倒れた秀麗を一室に寝かした静蘭らは、そこで影月たちを待つこと決めた。燕青は、秀麗から目を離さず何を考えているか見せない静蘭を暫しみつめていた。
不意に背後に気配が現れ、二人は振り向く。そこで見たものに、彼らはその顔を驚愕の色で染めた。


「反応速度上々、どうも先程ぶり、御機嫌よう皆さん」


にこりと笑い、そこに立っていたのは――秀麗。思わず寝台に臥せた秀麗に目をやる。秀麗が、二人――いや、この目の前の人物は、秀麗ではない。


「菊の邸へ行く前に、もしお嬢さんに何かあれば身代わりなりなんなりと思って姿を借りておいたんだよ。だから朔洵には見られたくなさに姿を出さなかった」

「……もしかして、貘馬木」


恐る恐るという風にきいた燕青に、彼はにこりと笑んだ。


「ああ、俺が貘馬木梦須だ」

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空中三回転半宙返り土下座
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