「そろそろ、燕青が帰ってくる頃ですね」
書き物の手を止めて、悠舜は窓の外に広がる空を見上げた。
座ったままでいるのは、足があまり役に立たないせいだ。昔はそれでひどく絶望した時もあったが、今はそんなことを思い悩む暇もない。今の仕事で出会った、自分よりずっと歳若い上司のおかげで。
その彼が帰ってくる。この城の、新たな主を連れて。
「さて、どんな主がくるものやら」
くすりと彼は優しく笑った。そして卓子の隅に置かれた三通の書簡を取り上げる。
「ふふ、あの黎深と鳳珠から、まさか『くれぐれもよろしく』なんて便りをもらう日がくるとはね。櫂兎は……新州牧について何も書いてない、か。
それにしても合間に一行『お前は無事か』くらい入れてくれてもいいでしょうに。櫂兎に至っては『お前は無事だろ』って……断言ですか。」
訊くまでもないから書かない前者二人と、頼まずとも頼まれてくれると確信していた後者。相変わらずどこかズレた櫂兎に悠舜は苦笑した。
「『長い休暇はどうだった?』…ですか」
そう、休暇。それはきっと、茶州で過ごす自分を言い表したもので。
「全く、仕事に勤しむ私を休暇中だなんて…地方だからってそんな言い分酷いじゃないですか」
もう、と少し眉寄せながらもその瞳は優しい光を携えている。
筆を取り直した彼は、山のように積まれた書簡に目を通し、次々と筆を入れた。それがあらかた終わると、硯のそばに置かれた印章に朱色の印泥を塗っては捺してゆく。
その手を止めて、また手紙を思い出す。一文目から滅茶苦茶言って、最初から最後まで芋引きずってる彼の、手紙。
『長い休暇はどうだった?』
自嘲する。全くその通り、ここ茶州での数年暫くは、自分にとっては生ぬるい気楽な休暇。そして、一つの予感。
(もうすぐその休暇も…終わる)
悠舜は、ゆったりと椅子に体重をかけ、目を瞑った。
「暑いー、暇ー、絳攸仕事頂戴」
そういって櫂兎は絳攸の手からひょいと書類を奪う。
「あっ、棚夏殿、それは自分のすべきものですから…」
「そっか。んじゃ他の人手伝いにいくな」
そうして書類を絳攸の手に戻し、ふらりと他の官吏らに櫂兎は声掛けにいった。
秀麗一行が貴陽を出てから約ひと月。季節は、すっかり夏となっていた。
「黎深様、失礼致します」
尚書室に入れば、黎深が机上の書状をみつめて小さく震えていた。その書状は櫂兎による休暇申請書だった。
櫂兎は、春の人事あたりから毎日のように黎深に休暇の申請を続けていた。そして黎深は毎日それを却下し続けているのだが――
いつも即座に破られる書状を黎深は今日はというと一心に穴あきそうなほど見つめて震えている。
(棚夏殿の苦労も、ついに報われる、か。)
「おい絳攸」
「はい、黎深様、何でしょう」
「この兄上の顔の部分だけ切り取って厳重に保管だ」
「………………はい?」
言われた意味が分からず書状をよくみれば、とてつもなくよく似た邵可の似顔絵が書状の印を捺す位置の近くに書かれていた。とても優しい顔で微笑んでこちらを見ている。
その書状がふわりと持ち上げられては宙を舞う。黎深が扇を一閃したかと思うと、次の瞬間、邵可の似顔絵の部分のみが残り、後の部分は細切れの紙屑になっていた。
(……神業っ?!)
黎深はというと、その似顔絵をほくほくと眺めてはにやけて、抑えきれない笑い声を漏らしていた。
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