花は紫宮に咲く 37
「――いいや、最初からこうすれば良かったと思うよ、景侍郎」


ふってきたのは、その場の誰のものでもない第三者の声――
朝議が終わるまでは開かれることのない扉が、重い音をたてて開いた。誰もがそれを振り返り、そこに立つ二人の姿に瞠目する。


「まったく、ここまで馬鹿だとは思わなかった」


ゆったりとした足取りで堂々と入ってきた黎深は、蔡尚書に侮蔑の目を向けた。


「まさかこんなことを自ら言い出すとはな。鳳珠が仮面をかぶって許されているのは、誰一人代わりなんかできるはずがないことを知っているからだ。第一、鳳珠に素顔のままそこらを歩かれてみろ。政治は即日全機能停止だ。玖琅なんて目じゃない。誰も仕事に手なんかつかなくなるぞ。古参官吏は十年かかってようやく鳳珠の顔を思い出さないで仕事できるようになったというのに――魯官吏、なんだってこんなヘボ尚書に黙々と仕えてたんだい」


後ろに控えていた魯官吏も、この成り行きにさすがに額をおさえていた。
まっすぐに蔡尚書のもとへ足を運ぶ黎深に、誰もが慌てて道を譲った。波が引くようにできる道は、街中の龍蓮を思い出させる。
黎深はまっすぐに部屋を突っ切って、半分白目をむいている蔡尚書の前に立った。


「このまま茫然自失じゃつまらない」


黎深はパン、と相手の顔の前で手を叩いた。ハッとまるで催眠術がとけたかのように蔡尚書の目に正気が戻る


「い、今何かが――な、何かが」

「なんですか、蔡尚書」


蔡尚書は目の前に忽然と現れた同僚に青くなった。


「こ、紅――尚書」


黎深はにっこりと笑った。その表情の裏で腹に黒いものが渦巻いているのはよく見て取れる。


「さて、あなたは非常に面白いことをしてくださった。今回の捨て身の戦法には、まったく感嘆します。私も同じだけの熱意でお返しいたしましょう」

「い、いや、わ、私は、私がしたんではなくて……」

「百万が一そうでも、私はあなたがしたことと思っているので、事実は関係ありません」


出た、無茶苦茶な黎深理論。
櫂兎はくすりと笑った。さすがは我儘大魔王様々だ。


「この私を嵌めようとした度胸と頭の足りなさは認めます。数年前の一件だけで終わっていたなら、鬘を引っぺがす程度で我慢してあげたのですがね。性懲りもなくあなたはまた私の大切な者の誇りを汚そうとした。私は二度同じ人物を許すほど寛容ではありません」

「ひ――」


この世の絶望という顔をした蔡尚書に、いとも優雅な仕草で黎深は書状の束を取り出し床にどさりと落とした


「あなたの家産一切合切、すべて紅家が差し押さえました。替えの鬘ひとつ残っていません。この書状はご家族、ご親族、及び親しいご友人からの縁切り状です。事情を話したら、どなたも快く、我先にと書いて下さいました。どうぞ大切になさって下さい。また今後、紅家ゆかりの場所には近寄らないのが無難でしょう。手配書を回しましたからね。見つかったら最後、近くの川に重しつけてドボンです」


この国で紅家の息のかからない場所などない。それを承知の上での脅しだった。


「うちの一族は私同様怒ると手が付けられない上、非常に執念深いので、百年経ってもあなたの名と顔は忘れませんよ」


恐ろしい言葉を吐いて、黎深はにっこり笑った。


こわい。


会話に聞き耳たてていた諸官たちは、自分のことでもないのに背筋が寒くなった。絳攸は養い親のあまりの徹底振りとらしさに、無言で俯いた。


櫂兎は眉根を寄せる。


(俺の顔は、たった数ヶ月で忘れたくせに……)


忘れた原因は、すべてがすべて黎深のせいではないとはいえ、思い出す気配もない黎深は、俺に執念やら未練やらなかったらしい。櫂兎は小さく溜息ついた。


蔡尚書はがくがくと身体を震わせ、まろぶように跪くと、もはや外聞もなく土下座する。


「も、もうこんなことは」

「あいにく私は、嫌いな相手はとことん追い落とす主義なんです」

「あなたが紅家の当主様と知っていたら――」

「そうですか。別に私が紅家当主でなくてもまったく同じことをしましたよ。まあもうすべては後の祭りなので、関係ないですね」


黎深は微笑をたたえたまま、絳攸にきこえないようにひんやりと囁いた。


「数年前、私の養い子を捨て子と馬鹿にしたくせに、官位が上がった途端今度は散々まとわりついて不釣り合い極まりない縁談をしつこくせまるとは、まったくあなたの面の皮の厚さをはかってみたいものです。あげく、あれに私が一番見たくない顔をさせるとはね。何を言ったか知りませんが、あのときから私はあなたを許すつもりはさらさらなかった」


絳攸へもきこえるようにいえばいいのに、と耳をすませばっちりきいていた櫂兎は思った。


「そうそう」


黎深は呟くと蔡尚書の鬘をひっぺがした。そこから転がりでたものに、劉輝たちはぎょっとする。茶家当主を証す指輪の贋作――あんなところに隠していたのか!?


「一応これも、頂いておきましょう」


最後の命綱だった指輪も奪われた蔡尚書は、今にも倒れそうなほど顔面蒼白となった。


「これをもって茶一族に助けを請おうとしても無駄ですよ。すでに手を回してあります。あなたとは何の関係もないというお返事を頂きました。贋物ということもしらせてあります」

「そんな!」

「あなた同様、あの一族は非常に選民意識が高いので、紅藍両家には扱いやすくてね。ふふ、この私が、退路を一つでも残すとお思いですか?」


その冷酷な笑みに、蔡尚書は己が手を出してはならぬものに手出ししたことを知った――。

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空中三回転半宙返り土下座
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