暗き迷宮の巫女 08
ぺちぺちと、頬を叩く小さな手に櫂兎は起こされた。
目覚めた櫂兎の視界に、真っ先にとびこんできたのは、くりくりとした大きな瞳だ。そうして、目と目が合う。瞳の主ははにかんで、櫂兎の顔を覗き込むのをやめた。

長い黒髪の、幼い女の子。仕立てのいい、ゆったりとした服を着ている。櫂兎はその子供に、何処かで見たひとの面影があるような気がした。

寝起きの頭は鈍く、いまひとつ回らない。上半身を起こした櫂兎は、まだ残る眠気に大きな欠伸をした。つんつんと衣服を引っ張られる感覚に、先程の子供が自分の服を引いているのだということに気付く。
はて、何用かとそちらに櫂兎が視線を向けるも、子供は何も言わず、ただ、服から手を離し、今度は櫂兎の手を取った。

彼女に手を引かれ、櫂兎は行先も分からず、ただ歩き続けた。あいも変わらず地面らしきものは認識できず、櫂兎には不確かな場所を歩き回る感覚がつきまとう。
と、不意に子供が駆け出した。繋いでいた手はほどけ、櫂兎は慌ててその背を追いかける。不思議となかなか追いつけず、ようやく捕まえた頃には、空はいつの間にか、夕暮れ時のような橙色に染まっていた。
ほっと息を吐く櫂兎を脇目に、彼女はきゃらきゃらと楽しげに笑っている。どうやら彼女は、途中から追いかけっこをしていたつもりだったようだ。

櫂兎は口元を緩め、彼女と手を繋ぎ直そうと、彼女の小さな手を取った。――その筈だった。


「えっ……」


空を切った手に、櫂兎は目を見開く。何に触れた感覚もなかった。

櫂兎の手をすり抜け、彼女の姿は溶け消えた。かわりにそこにいたのは、一羽の燕だ。
彼女の髪にも似た色の羽根を広げ、燕が飛ぶ。その先には、人影がある。それが「誰」であるかに気付いた櫂兎は、その場で固まった。

――縹、璃桜。
夜の静けさ、天の星々。日は落ちきり、清らかな月明かりがその姿を照らす。白銀の長髪はきらめいて、悠然と佇む彼をどこか浮世離れした存在に仕立て上げていた。

まさかあの幼い少女は彼の罠だったのだろうか。そうだとすれば、あまりにずるいと言うほかない。
櫂兎はいま猛烈にこの場を逃げ出したい思いに駆られていた。尤も、この不思議空間でどこに向かえばいいかなど、櫂兎には分からないのだが。

そもそも、どこからが彼の関与していることなのか。この謎空間の形成から、引きずり込んだことまで? それどころか、鏡を用意したのも…? それとも、この状況は偶然から発生していて、彼はそこに介入しただけ――?
いくら考えてみても、答えが出せるわけはなく。櫂兎は思考を打ち切った。


「『また会った』か」


璃桜の声に、櫂兎はびくりと肩をはねさせる。
その言葉に、どこか含みがあるように思われるのは、気のせいではないのだろう。いつかの璃桜が、意味深な言葉を口にしていたことを思い出して、櫂兎は身震いした。
日がなごろごろ寝て過ごしているらしい縹家御当主様が動く事態となると、並のことではないだろう。

つまりは、今が『その時』だと。


「……どうも。こんばんは、でいいんでしょうかね?」


重い上唇を持ち上げて、櫂兎は言葉を紡ぐ。彼は深い黒の瞳を細めた。


「ああ、君には月が見えているのだね」


まるで、彼にはそれが見えていないかのように告げられ、櫂兎は固まる。この人はどのような景色をみているというのだろう。


「其方が手繰り寄せたか、此方に引き寄せられたか」


ぽつり、と独り言のように彼は呟いた。


「何れにせよ、君はここに訪れた。
……君は姉に、縹瑠花に用があるのだろう。私が彼女のもとへ案内しよう」

「それは、願ってもみないことですけれども」


櫂兎には、この状況がいまひとつ分からないままだ。
まさか、櫂兎が瑠花との交渉を希望していた件がリオウから伝わって、あの鏡からお呼ばれすることになってしまったのだろうか。だとすれば、あの鏡はいつから用意されていたというのか。鏡の入っていた箱は、明らかに、十年以上前から放置されていたような見た目だったのだが。

璃桜にそれを説明する気はないらしく、それどころか、櫂兎に対してもあまり興味はないようで、彼は櫂兎から視線を外すと、ゆったりと移動をしはじめた。
……ついて来いということだろう。心のうちでは迷いながらも、櫂兎は彼のその背を追うことにした。

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空中三回転半宙返り土下座
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