秀麗のその言葉の意味するところを理解した者たちは目を見開いた。
御史台の副官が埋まったという話題は、その名が伏せられていたこともあり、御史台内に限らず、春の除目でそれなりの話題となっていた。
その人物こそが、棚夏櫂兎なる人物だと、彼女はそう告げたのだ。
あの氷の長官にして御史台を統べる葵皇毅が、いわゆる使えない人間を副官に据えることを許すはずもない。彼が副官の席にいる、そのことこそが、棚夏櫂兎が能吏であるという証明だった。
「私、副官になる条件として、副官であることは公表せず黙秘することを長官にお願いしてましたよね?」
秀麗が、黎深の尚書不適任を断固主張するとして、黎深のクビにした櫂兎こそ能吏であったと証明すれば話は早い。その証明に、名を伏せられていた副官というカードが切られた。
暗に、こうなることを予測していて何故彼女を止めなかったのかと櫂兎が問うと、皇毅は柔らかに息を吐くのだった。
「その条件は今も必要か?」
「うわーんもうやだこの人」
櫂兎はすっかり皇毅にペースを崩され手のひらの上で転がされていた。扱い方を把握されてきたのだろうか、櫂兎にしてみれば突然皇毅にデレ期が訪れたようで、怖がるべきところであるにもかかわらず、否応なしに心が弾んでしまうのだった。
もしまだ櫂兎が副官補佐役で、いま皇毅に副官になれと言われれば、櫂兎は無条件になっていたことだろう。こうして視線を集めることは、相変わらず櫂兎にとって好ましくないことだったが、それすらも許容できてしまうくらいには、彼のことが嫌でなかった。
「第一、あれが勝手に気付き、勝手に告げたことだ。これなら、私が公表したことには当てはまるまい」
「うわ、皇毅キミ悪どいよ」
俊臣も思わず言うほどであった。
「元はといえば、あの娘にお前が悟られたのが悪い」
「そんな無茶苦茶な…といいますか、秀麗ちゃん、自分で気づいちゃったんですか」
気付かれるような真似をしただろうかと櫂兎は首をひねる。自分を副官だと知る清雅と情報を共有していることや、御史台でも上の方にいなければ知らないことを知っている節を彼女の前で見せてしまったのが悪かったのかもしれない。まあ、櫂兎がいくらボロを出さないでいたって、調べれば櫂兎の名が御史台の職位のどこにもないことや、それなのに副官補佐役として認識されているのはすぐ分かることなのだが。
「五日ほど前だったか。お前が副官なのかと問われたので、それを肯定した」
「そんなあっさりと」
櫂兎は口をへの字にするが、彼女を止めなかった理由もわからでもなかった。
御史台が櫂兎を御史台の一員、それも副官として扱うのならば、櫂兎に法を犯した無法者のレッテルをつけたままにはできない。その点、この法廷という場を借りた彼女の行動は、櫂兎の無法者というレッテルを剥がすどころか塗り替える一手になる。正当性は櫂兎にあると宣言するようなものだからだ。
その許可は、御史台長官としては、正しい判断だったのだろう。櫂兎にとっては胃に優しくない出来事だったが。肩を落とす櫂兎を見て、秀麗が首をかしげるのを見るに、彼女はこの許可の裏に何かあることはわかっても、皇毅の意図までははかれていないようだった。それほど裁判の内容で頭がいっぱいだったのだろう。
声をひそめた囁きも、あちこちでされればざわめきになる。秀麗達は裁判を進めようとするが、聴衆の声はそれをかき消してしまっていた。
ピシャンと、空気を裂くような音がする。不思議と響いたそれは、ざわめきをも止めその場に静寂をもたらす。俊臣が笏を打ったのだ。法廷の支配者とでも言うべきその堂々たるや、櫂兎が思わず口笛を吹きたくなるほどだった。
俊臣はゆったりとその口を開く。
「彼の有能さなら私も知っている。何せ同期だ」
棚夏櫂兎が
あの悪夢の国試通過者だということを意味する発言に、その場の空気がピシリと凍った。櫂兎も彼にそれを明かされるとは思わず、不意打ちを食らったように息を止める。
時の止まった法廷の中で、俊臣一人が動く。
「しかし今論ずべきはそこではない。これは李絳攸の裁判だ。
――訊こう。本当に李絳攸を罷免させたくないのなら、なぜ君は『官当』を請求しないのかね?」
あっさりとその場の空気を裁判に集中させる方向へと運んだ俊臣は、さらに秀麗へと鋭い問いを投げかけた。
その鮮やかな手腕に櫂兎は感嘆の息を溢しながらも、駄目押しとばかりに悪目立ちの種を蒔いてくれた彼には後ほど文句を言わねばなるまいと思った。
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