「黎深が吏部尚書を辞めた今、櫂兎の越権行為は、同情はされど、咎める者は少ないでしょう。
では、何故私が、櫂兎の名を出さなかったか。お判りになりますか?」
囁きのような悠舜の問いかけに、劉輝は少し首を捻って、それから答えた。
「名を、知られていないから?」
悠舜はそれに微笑みだけを返して、是とも否とも言わずに、ただ問いを重ねた。
「知られていないことが、不思議だとは思いませんか?」
こくこくと劉輝は頷いた。と、同時に、でも櫂兎だしなと思った。
彼の凄さ、というのは一見しただけでは分からない。彼はいかにも凡庸ななりで、あっさりと並外れたことをしでかしてくれていたりする。それでいて浮かず、それどころか埋もれてしまうというという、何とも不思議なところがあった。
「先王は彼に、何の任も命じませんでした。そして霄太師もまた、彼を要職には据えなかった。――一体、何故でしょうね?」
劉輝は悠舜の顔を見た。悠舜は、依然として微笑みを浮かべたまま、ただその心の内を読ませぬ声色で言った。
「一度彼と話をしなければならないと。そう思っています」
「王様から、あの名を聞くたぁねえ」
宰相会議の後、人も捌けた政事堂で零された陵王の呟きに、旺季は僅かに肩を揺らした。
「確か、例の元筆頭女官の親戚だっつう」
その言葉に、旺季があまりにも間抜けな顔をしたものだから、陵王は大口を開けて笑ってしまった。
その元筆頭女官に、陵王が直接顔をあわせたことはない。何の心配をしているのか、旺季が彼女を見せたがらないのだ。自分は彼の姉一筋だというのに。……それを言えば、それはそれで怒らせることになりそうなので、何も言わずに素直に彼の希望を汲むことにするが。
「思えばその元筆頭女官、知識や技術はあの王様に注ぎ込むだけ注ぎ込んでおいて、王としての心構えってヤツを何も説いてないんだな」
彼女ほどの傑物の噂ならば、旺季を介さずとも陵王の耳に入ってきていた。女にしておくのがもったいない、義を曲げず戦う姿勢は、まるで昔の武人のようだなんて陵王は思っていた。それでいて実際に貫き通してしまうのだからすさまじい。それほどの彼女が、肝心のそれについてぬかる筈もない。
「琴の琴に関しても、知らせてすらいないたぁ、こりゃあ、どういう意味だろうなあ?」
顎を撫でては口端をもたげる陵王に、旺季はきゅっと眉を寄せる。
「今は、彼女の話をする場面ではないだろう」
「そうか? まあいいが。その棚夏櫂兎って奴は使えるのか?」
いくら血縁であろうとも、それは能力を保証するものではない。彼に関する噂が流れている様子すらないことからして、棚夏櫂兎という官吏を旺季の話からしか推し量ることができない陵王は、その人物を『国試を状元及第するほどの頭脳はあれど実績なし』とみていた。
「吏部侍郎の付き人をしていた頃には、皇毅が何度か煮え湯を飲まされている」
それは期待できると思うと同時に、気になる単語に目を細める。
「……付き人なんざいたか?」
「表には滅多に出ず、吏部での活動を主としていたようだな。付き人などという扱いだが、官席として正式に設けられたものだ。尤も、設けられた経緯に関する資料は抹消されていたが」
「きなくせえ話だ」
「そう思い調べさせたが、貘馬木が絡んでいるようだった」
「そいつぁ。本人に関しては警戒する必要なし、か。しっかし、分からねえなあ…」
棚夏櫂兎は何の味方か。
王は彼の名を出した。王はある程度、その棚夏櫂兎という人間を信頼しているのだろう。では、棚夏櫂兎は、王をどう思っている?
「この春からは、皇毅の下に就いているな」
陵王が思案に耽っているところに、旺季がさらりとそのようなことを告げた。
「おいおいおいおい。初耳だぜ?!」
「知らせなかったからな」
「はぁ、ってーと、まさか遂に埋まったっていう副官か?」
こくりと頷く旺季に、陵王はどうやらその人物が面白い立ち位置にいることを知ったのだった。
そう、どちらにも傾くことのできる位置。ここまで深入りしてまさか、あの女傑のように中立を言い出すなんてことはないだろう。もし、あるとすれば――
「第三勢力。は、ないな」
呟き、すぐさまそれを否定する。そのような勢力の成立する気配はどこにもない。どちらが勝つか、そんな囲碁のような、二極の単純な勢力争いだ。
旺季の許可もなく煙管を取り出した陵王は、旺季が顔を顰めるのも気にせず煙草を燻る。のぼる煙に喉をひりつかせながら、陵王はその渋い香りを楽しむのだった。
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