――吏部尚書・紅黎深の解任の報を櫂兎が受け取ったのは、絳攸が目覚めたという報のあって四日後、実に御史大獄の開かれる二日前のことだった。
前日ではない。そのことに、櫂兎は震えた。このことがどう働くのか、未知なそれは、期待と恐怖を綯交ぜにした感情をうむ。
櫂兎は幾度か深呼吸してから、雑務資料を手元に引き寄せた。目を通そうにも頭に入ってこない内容に、これは駄目だと、ぺちぺち己の頬を叩く。
清雅が室に入ってきたのは、そんな時だった。
両頬に手をあてた状態の櫂兎を前に、清雅は見てはいけないものでも見たような顔をした。
「……邪魔したな」
「待って!? なんで出て行こうとするかな?!」
出て行こうとする清雅の片腕を掴み、空いた手で扉を閉めてから、室の中まで引きずり込む。
「お前が正気でないようだったから…」
「俺がおかしいのはいつものことでしょ!」
「確かにそうだったな」
「そこは否定するとこだよ!? ねえ!?」
櫂兎はそうして清雅に縋り付くが、彼の顔には面倒臭いと書いてある。
「セーガ君ったら冷たいのー」
ぶぅ、と唇を尖らせた櫂兎に、清雅は戸惑う様を見せた。
「いや、お前……やはり様子がおかしいよな? 熱でもあるのか?」
「ピンピンしてまーす! いや、正気でない自覚はね、ちょっとあるんだけどね?」
へにゃへにゃと笑う櫂兎の顔は、血の気が引いているような青白いものだ。清雅は眉をひそめて彼の額に手をやる。……熱くはない。手に擦り寄るように頭を揺らすので、清雅は彼の額を叩く。次いで彼の手を握り、そのあまりの冷たさに驚いた。
「なんか、一気にブワッとなっちゃって、自分の感情が自分のいうこときいてくんないの。変だよねぇ」
「……何があった?」
「んー、と。御史大獄、二日後だね?」
それが、彼がこうなることに絡んでいるとも思えず、清雅は微妙な顔をした。
「お前はもっと、動じない性質の奴だと思っていたが」
「予測外の即興には弱いの。動じない俺になるからちょっと待って」
言うや否や、櫂兎は「佳奈は俺の可愛い妹で、俺は佳奈のお兄ちゃんです」などとぶつぶつ呟きだす。はっきり言って怖い。思わず清雅は掴まれている腕を解こうとしたが、その細い身体のどこにそんな力があるのか、清雅の力ではびくともしなかった。
そう経たず櫂兎の顔色は戻り、彼は清雅の腕から手をパッと離した。
「おかげさまで元気がでました。重ね重ねご迷惑をおかけして…」
「気持ちが悪い」
平に謝る櫂兎に清雅がそう言い捨てれば、彼はがっくり肩を落とした。
「おかしいな、セーガ君に会ったら俺が慰めてやろーって思ってたのに」
「慰める…?」
怪訝な顔をする清雅に、トンと椅子に腰をおろした櫂兎が言う。
「だって、掻っ攫われちゃったようなものでしょ。あんなに手こずったのに」
「手こずらせたのはお前だろう」
「そうでした! いやでも、その執念は少なからず知ってるからさ」
「執念ならば、奴にもあった」
その清雅の言葉に、櫂兎は目をぱちくりと瞬かせてから破顔する。
「いい好敵手って感じだね!」
「何処がだ」
不満そうに顔をしかめる清雅に、櫂兎は抑えられないとでもいうように眩い笑みを向ける。すっかり調子は元通りらしいと、清雅は騒がせな彼に息を吐いた。
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