紅差し指・10



あの日から1週間経った頃、名前は火影邸から少し離れたマンションを借りた。
自分から提案したのだから、カカシが出て行くと言って来たのだが火影が火影邸に不在など有り得ないと名前から断った。

病院にほど近いマンションで、名前はダンボール2つばかりの荷物を紐解いた。

「あー、せいせいする」

言ってから、負け犬の遠吠えみたいだと思った。
俺のせいだからと、カカシが上手く病院にひと声掛けたらしい。何も疑われることもなく数日、休みになった。火影の力は凄いのだ。

ついに、別居してしまった。でも、これは望んでいたことだ。
向こうから言ってくれたなんて、正直願ってもないことだった。久しぶりの一人暮らし、満喫してやろうと意気込む。
影分身を出して荷解きと、家具を配置する班に分かれた。
名前自身も、もちろん荷物の片付けに取り掛かる。荷物は大したものはなくて、家具の配置も早々に終わり順番に影分身を解きながら荷物をしまっていた。

「ねえ、何で浮かない顔してるの?」

突然声を掛けてきたのは、最後に残された影分身。

「離婚、したいんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、喜べばいいじゃん」

名前は、そんな単純じゃないし、と不機嫌に言い返した。

「私が貰ってきてあげようか、記入済みの離婚届」
「勝手なことしないで」
「いいじゃない。また独身に戻ってさ、暗部にでも戻れば世間体もないし」
「そうだけど」
「暗部に戻ると火影様に会わなきゃ行けないのが苦しい所ね」

勝手なことをペラペラ喋る影分身に、名前は苛立ちを募らせる。分かっている、影分身なのだから自分の心の内は丸わかりであることも、意地悪なことをする性格の悪さは自分由来であることも。
腹が立つのも、意地悪したくなるのも、全て自分のせいなのだ。

「もう、消すよ」
「はいはい、ごめんなさい。後悔ないようにね」
「分かってる」

分身は、音と共に煙になって消えた。
名前は、隠していた重みを吐き出すように床にへたりこんだ。望み通りなのに、胸が晴れないのだ。

間違ってもカカシのことが本当は好きだからではない。後味が悪過ぎるのだ。死んだ恋人の墓の前に現れて、その直後に別居しようと話をされて、話し合いの道を選ばずに逃げるように出てきてしまった。
カカシから別居を切り出されて何故ショックを受けてしまったのか。

「有り得ない」

だって、今でも死んだ恋人のことが好きなのだから。
殉職は何かの間違いで、実は遠くで任務に当たっているだけなのだと何度望んだだろう。暗部時代に知った忍者登録証の保管庫に火影夫人の権限で入り込んで、調べたりもした。殉職の判が押されていたのを見た時、泣き崩れてしまった。

もし、自分に恋人が居なければカカシを好きになっていたのだろうか。
でも、そんな仮定なんの意味もないのだ。今起きていることが現実なのだから。

「もう寝よう」

疲れた時は寝るがいい。疲れは油断と隙を生む。
明日は仕事だ。それがせめてもの救いだ。





翌朝、一人分の朝食と弁当を作り支度を済ませると家を出た。
別居したことは、もちろんカカシと名前だけの秘密だ。もし、本当に離婚となったら公表はどうするのだろう。カカシのことだから、きっと名前には悪くないように取り繕うだろう。

病院までの道は、人に会わないように屋根の上を通った。こんな時、自分が忍で良かったと思う。

病院に無事出勤できたのはいいが、もちろん、仕事に身なんて入る訳もない。患者がみんな風邪や軽い怪我であったことが救いだ。これでは医師失格だ。
明日からは仕切り直そう。落ち込む自分を鼓舞して、名前は家に帰った。

翌日からは、いつも通りの自分に少しずつ立て直して仕事を続けた。
カカシは元気だろうか、ふと頭をよぎる。否、そんなことどうでもいいのだと名前はすぐに忘れるように努めた。

別居生活が始まり、気付けば幾許かの時間が経っていた。
カカシがいないことで、夕食の準備をどうするか苦慮することもないし、洗濯も3日に1度で済む。小さな物音で起きてしまうこともない。そもそも結婚生活においてカカシがいる時間は余りにも少なく、もともと別居のようなものだった。
快適な毎日にせいせいする、と名前は思っていた。
あとは、世間の目がなければ前のように自由に生きていける。

なんなら離婚出来たら忍を辞めて、里を出て、遠い町で診療所でもやろうかしら。きっとそれは穏やかで、まだ長いであろう残りの人生を楽しむにはうってつけだ。

そう考えていると、名前のもとに看護師が駆け込んで来た。

「救急?」
「いえ!火影様が!」





「ごめんね。俺は大したことないって言ったんだけど」
「まじで、大袈裟なんですけど」
「だよねえ」

看護師が慌てていたものだから、カカシの身に何か起きたのかと思った。慌てて火影邸に戻ってみれば、単に風邪を引いていただけだった。

「でも、大事ではなくて良かったです」
「ありがとう」

看病するなんて気まず過ぎる。名前は、完全に医者のモードに切り替えて何とか凌ごうとしていた。

「不便はしてない?」
「え?まあ」
「ま、俺がいない方が楽だよな」
「肯定しにくいんですけど……」

本当に家事をする暇がないのだろう。洗い物が溜まっていて、洗濯もできていない。カカシが気まずそうに笑った。

「男ってのは情けないよね」
「火影様ですから、仕方ないです。先輩は寝ていて下さい。色々やっておくので」
「ごめんね、助かるよ」

カカシが寝入るのを見て、名前は台所に向かった。
洗い物と言っても、湯のみや小皿程度しかない。ちゃんとした食事は、会食でもない限りできていないだろう。綱手様は隙を見つけると良く酒を飲みに行ったりしていたが、カカシはそんな息抜き出来ているだろうか。
洗い物を済ませると、溜まった洗濯物に取り掛かる。仕事しかしていないし、たまのオフの日でも直ぐに対応出来るようにカカシは休みでも同じ服を着ていた。名前が居ない時も同様で、同じインナーやズボンが何枚も溜まっていた。それらを洗濯機に突っ込んで回した。
あとは、掃除だ。寝ているカカシを起こさないように、モップを取り出して埃を集める。
掃除を終える頃に、カカシが寝室から起きてきた。

「大丈夫ですか?」
「ちょっと楽になったよ。名前、本当にありがとう」
「あ、いえ、暇だったんで」

我ながら素直じゃないなと思う。それに、風邪の火影を放って仕事に戻る訳にも行かない。
カカシはソファーに座ると、テーブルに置いてあった封筒を開け始めた。

「医者の前で仕事始めないで下さい」
「ごめんね、これだけでも」

寝巻き姿のまま、カカシは書類にペンを走らせている。
名前は小さく溜息をついた。こう言う時、火影の仕事が分からなければカカシの仕事を無理矢理止めて寝させることも出来るだろう。しかし、今まで三代目と綱手様を見ていたから嫌という程、火影が背負っている物の重さと多さを知っている。綱手の頃よりも同盟を組む国は増え、外交も段違いに増えている。火の国では、カカシが最も外交する立場にある。

「それが終わったら、薬飲んで寝て下さいね」
「ごめんね、ありがとう」

カカシが仕事をしているのを横目に、名前は薬を煎じる。湯のみ1杯の薬湯を作ると、作業が終わった頃合を見てカカシの前に置いた。
カカシは礼を言いながら、湯のみに口を付ける。

「ああ、やっぱり苦い」

カカシは小さく唸りながらも、名前の作った薬を飲みきった。
最低限の看病も終えたし、名前はもう帰ろうかと考えていた。もうこれ以上、カカシの傍でどんな顔をすればいいか分からなかったのだ。

「それで、名前はどうしたい?」

急にカカシに言われて、名前は肩をビクリと震わせた。

「自分の中でも分かりません」

別居すれば清々しい気持ちになると思っていたのに、予想に反してずっと胸の奥が鉛のように重い。こんなつもりじゃなかったのだ。

「カカシ先輩はどうなんですか?」
「俺は……」

カカシは、眉間に皺を寄せて暫く黙っていた。




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