02



「氷……」
「ん?」
「氷、自分で持ちます」
「あ、そうだね」

カカシは、慌てながら手を離した。ジンジンと熱を持った患部を氷で擦りながら、名前はカカシに問う。

「私のこと知ってるんですか?」

カカシは、微笑んで深く頷く。

「もちろん、名前ちゃんをずっと探してたからね。会いたくて会いたくて仕方なかったよ」

まだ話して間もない相手に、恋愛映画のようなセリフをかけられ、素直に照れていいものか分からず困惑した。前世から俺達は繋がってたんだよ、とか言うダサいナンパならば引っかかりたくない。しかし、この男が自らをカカシと名乗るのならば、事情は変わってくる。

「私について知ってること、教えてください」
「……ごめん、それは出来ない」

カカシは申し訳なさそうに眉を下げた。

「そんな……本当は私のこと、知らないんじゃないんですか」
「知ってるよ。凄く知ってる」

やっと目の前に全てを知っていそうな人を見つけたと言うのに、何も教えてもらえないなんて。目の前の男、ナンパにしてはタチが悪すぎる。

「やっぱり、記憶喪失になってるんだよね?」
「……からかってるんですか」
「からかってないよ」

カカシの言う通り、自分の本当の名前も年齢も、どこで生まれて、どんな両親のもとに生まれて育てて貰ったのか、名前は何も覚えていない。

ある日、目が覚めると知らないこの場所にいた。
まるで生まれたての鳥の雛のように、何も分からないのだ。
目が覚めて彷徨い続け、どこに行けばいいのかも分からない。誰に助けを求めればいいのかも分からない。三日三晩も何も食べられずに倒れてしまった。
気が付いた時には、白いヘルメットを被った人にどこかに意識が朦朧とした中連れて行かれ、回復すると知らない人に話し掛けられた。言葉だけは何となく辛うじて分かったが、何を話しているのかサッパリ意味が分からなかった。とにかく、色んなことをしつこく聞かれたが何を言いたいのか最後までその時は分からなかった。

後に、しつこく質問して来た人を医者と知った。そして、病院と言う場所にいて、入院と言うものをして治療を受けていたことも。
入院期間は長きに渡った。そして、そのうち同じ年くらいの子供から小さい子供達もが暮らす施設に入れられて、定期的に病院に通っては言葉の練習から日常生活の営み方まで教えられた。箸の使い方さえ分からなかったのだ。

「記憶喪失だったんでしょう?」

カカシの問いに、名前は暫く考えてから頷いた。

「今も、全部思い出せない?」

頷く。
カカシは、そっか、よかった。と言いながらコーヒーを啜った。名前は腰を思わず浮かしてしまう。

「これのどこか良いんですか、人の苦労を知らないで」
「……そうだよね、ごめん」

なに初対面の男に、感情的になっているんだ。名前は椅子に座り直し、水をひと口含んだ。

「そもそも」
「ん?」
「あなたは、誰なんですか」

全てを知っているようで、何も教えてくれない。
記憶喪失と知り、カカシと名乗る。これが悪質な冗談だとしたら、目の前の男は詐欺師か悪魔か。

「だから、俺はカカシだよ。その感じだと、読んでくれてたんだね手紙」

やっぱり、この男が疑いもなくカカシなのではないか。

自分の名前すら分からない中、着ていた衣服以外の唯一の持ち物が一通の手紙だった。それは、恥ずかしいまでに愛を綴ったラブレターだった。初めて読んだ時、何故か涙が止まらなかった。
差出人の名前がカカシと書いてあるから、偽物の手紙だろうと人は言った。そんな冗談みたいな名前の人間が居るだろうかと。聴取に来た警察も、名前を探しては見るが無駄足に終わるだろうと言って相手にはしなかった。
手紙の存在を知るのは、名前の担当だった医者と看護師、それから警察だけ。

ずっと、名前にとっては大切な自分の証のひとつのような気がしてならなかった。戸籍を作り直す時、手紙の宛先になっていた名前をまるごと拝借した。

「あの、お手紙の宛先は……」
「もちろん、名前。俺が君の為に書いた手紙だよ」

カカシは、それはそれはとても嬉しそうに名前に笑いかけた。

「わ、私ですか」
「うん」
「私は、名前で合っているんですか」
「当たり前じゃない。でも、不安になっちゃうよね。大丈夫、君は名前だよ」

カカシがゆっくりと、氷を当てる名前の手に触れる。少し冷えて震えていて、もしかして緊張しているのか。触れ合う手を見ていると、カカシにこっちを見てと指示される。その言葉になんの違和感もなくカカシを見た。
カカシは、口の端に笑みをしたためながら真っ直ぐな眼差しを名前に向けていた。まるで、大切な人に向けるような優しい眼差し。

「俺を信じるのは難しいかも知れない。少しずつでいいんだ、俺に名前の時間をくれないかな。名前に信じて貰えるように頑張るよ」
「は、はい?」
「時間がある時で良い。俺に会ってくれないかな」





この日から、名前は予定のない仕事終わりにカカシと会うようになった。カカシは、何の仕事をしているのかは分からないが、名前の都合に二つ返事をしていた。勤め人には見えないし、フリーランスや経営者なのかもしれない。

食事をしている時には、カカシは名前をずっと微笑みながら眺めて来る。酷い時には、カカシだけすぐに食べ終わらせてずっと頬杖をつきながら眺めて来るのだ。非常に食べ辛く、やんわりと苦情を申し立てるとカカシは心から申し訳なさそうにするのだ。

「名前は食べてるだけで可愛いなって思って、ごめんね」
「カカシさんは……趣味が特殊なんですね」
「ええ?どこがよ?それから、俺のことはカカシで良いから。俺もその方が名前に言われ慣れてるし」
「そうなんですか」

こんな風にカカシは、名前の情報を小出しにして来る。それはとても些細なことで、真偽を確かめる術なんてない上に確かめる必要も感じないものばかり。こんな細かいことまで覚えているなんてもしかしたらカカシは、手紙の通り自分の恋人だったのではないかと思ってしまう。
このような端整な顔立ちの男を惚れさせていた昔の自分は、どれだけやり手だったのだろう。

「あのお手紙は」
「ん?」
「私に向けて、カカシさ……が書いてくれたものなんですか」
「そうだよ。それ以外誰に出すのよ」
「じゃあ、私達って」
「そう、付き合ってたよ」

やっぱりだ。
とても変な気分だ。目の前の人と自分は恋人だったなんて。記憶喪失が10年も前だったから、きっとキスはしているけどそれ以上は……。
と、自分は何を考えているのだ。

「ねえ、名前休みの日分かる?デートしようよ」
「デートですか?」
「そ。1日一緒に過ごすの。こうして会ってくれてるけど、数時間で終わるじゃない。俺としては足りないのよ、やっぱ」

カカシは、深く色の染み込んだ皮の手帳を取り出した。向かいに座る名前には中を窺い知ることは出来ないが、自分との予定も全て書き留めてくれているのだろう。
名前は、スマートフォンを取り出してスケジュールアプリを開く。

「えっと、今週の日曜なら空いてます」
「日曜ね。分かった」

カカシは、ペンでサラサラと手帳に書き込んで鞄に仕舞った。

「楽しみだなあ」

嬉しそうなカカシ。
かつては恋人だった人間が、今は他人行儀にして来るなんてどんな気持ちなのだろう。

「頑張ります」
「ん?」
「カカシ……のこと、思い出せるように頑張ります」

きっと記憶が戻ったら、カカシの望む恋人の名前になれるに違いない。きっと思い出せば、自分もカカシを好きになれるだろう。

「駄目だよ」
「え?」
「昔のことは思い出さなくて良い。俺は、こうして名前が共に過ごしてくれるだけで幸せだよ」

思い出さなければ恋人に戻れないのに、思い出すな、だなんて。何を言っているのだろう。

「それにしても」

カカシが溜息をつきながら、名前を見つめる。

「名前は、歯に海苔がついても可愛いなんてね。奇跡のような可愛さだね」
「え!?嘘!?」

最悪だ。




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