人形姫・20
アラームを掛けていたが、それよりも早く目を覚ました。
隣を見れば名前が寝息を立てて眠っている。
何度も夢で見た光景。これも夢ではないかと疑って、自分を抓ったり、名前に触れたりしてみる。痛いし、やはり暖かい。
名前が隣にいる、その事実だけで向こう何年かは新鮮に喜びを噛み締める自信がある。下手したら死ぬまで喜んでいるかもしれない。
本当にこれは、必然的だが奇跡だ。
名前に出会えたことも、こうして再会出来たことも。
と、ここでカカシの頭に疑問符が浮かんだ。
そもそも、名前に聞いていなかった。
一緒に木ノ葉に帰ってくれるか、と。
お母さんに頼みますと言われたが、名前は泣いてばかりで自分の意思を言っていなかった。改めて聞いてみて、断られたらどうしよう。
いや、有り得ない。あんなに再会を喜んでくれて、自分のことを好きだと言ってくれたのだから。もっと言えば、そもそも婚約だってしている。2年前のことだが。
悪く表現すれば2年間も放ったらかしにしていたのだ。娘盛りの女の子を。
あんなに美しくなったのだから、男が放って置く訳がない。何も無いわけはない。そう、何も。
そう考えている内にみるみる自信は失われ、カカシはどうにかして再び名前を振り向かせるしかないと方策を考えていた。
「……カ、シ」
名前の小さな唇から紡がれたのは恐らくは、自分の名前。シーツの中を何かを探すように泳ぐ手と、微かに開かれた睫毛の間から覗く瞳。先程の不安を取り除こうと、カカシは慌てて名前の手を握った。
「おはよう、名前」
名前が嬉しそうに目を三日月形に変えて、おはよ、と小さく囁いた。
カカシの胸の中で希望がささやかに鳴り響く。
カカシは、名前の両手を手に取り、その指先に口付けをする。
こんな寝惚けている時に聞くのは狡いし、申し訳ないと思うが早く聞かなければ自分が持たない。少しだけの罪悪感を抱きつつ、カカシは名前の額に自分の額をコツンとぶつけた。
「ねえ、名前」
「ん?」
「あのさ、俺と一緒に木ノ葉に帰ってくれる?」
名前は、睫毛の先に微睡を残しながら嬉しそうに笑った。
「うん、もちろん。一緒に帰りたいよ」
喜びと安堵に包まれる。はあ、と肺の中の空気を追い出した。
「カカシ、お腹空いてる?」
「え?」
「一緒に食べよ」
名前が手を握り返す。カカシも目元をくしゃくしゃにした。
「うん、お腹空いたね」
朝食は、お母さんがルームサービスを付けてくれていた。
部屋の中で、サラダやサンドイッチを齧りながら名前は思い出した!と大きい声をあげた。
「何よ、ビックリするじゃない」
そう言いながらも、全く驚いた素振りもなくカカシはコーヒーを啜っている。
「ねえ、火影様になったって本当に?」
「あ、言ってなかったね」
「凄い!カカシが次期火影様なんじゃないかとは周りには言われてたけど、本当になったんだね。おめでとう」
「ありがとう。ま、火影なんて柄じゃないからさ、ナルトにすぐに譲るよ」
「うふふ、それが良いかもね」
嬉しそうにニコニコしている名前だったが、突然深刻そうな顔でサンドイッチを皿に置いた。
「あ、でも、カカシがなるってことは、綱手様が……」
「大丈夫、現役引退ってだけで見た目は前よりも若返ってるよ」
安心して、と笑うカカシに、名前は安心した!と笑いながらサンドイッチを齧った。
朝食を終え、身支度を整えると部屋を出た。カカシがチェックアウトを済ませている間、名前はロビーのソファに掛けていた。
お母さんが用意してくれたのは観光客向けのホテルで、向かいのソファーには海外から来たと思われる家族連れが座っていた。子供が母親と手遊びをしているのを、ぼーっと見ていた。
「名前さん?」
名前を呼ばれて何とはなしに振り返ると、医者が立っていた。
お互い気不味い雰囲気、今はまずい、これは非常にまずい。名前は、何事もないように装いながら早くこの場を去る方法を考える。
「やっぱり名前さんだ。すみません、声を掛けてしまって」
「先生、お仕事ですか?」
「アメリカで働いてた時に世話になった博士がいまして、その方が日本に来たので迎えに来たんです」
「まあ、アメリカにいらした時期があったんですね」
どうしよう。ここでカカシと鉢合わせになるのは避けたい。
「そんなに長くはないんですけどね。名前さんも約束が?」
「ええ、そうなんです。そろそろ時間ですので、私はこれで……」
「あ、そうですね」
さよなら、と言おうとした時だった。
「名前の知り合い?」
間に合わなかった。医者は驚いた顔をして、名前の背後を見ていた。名前はおずおずと振り返る。
「えっと……私の担当医です」
「そうなの。その節は、名前が大変お世話になりました」
カカシが頭を下げると、医者は慌てて頭を下げた。状況が飲み込める訳もなく、コイツは誰なんだ、と言いたげな顔をしていた。
カカシはいつもの飄々とした態度で、柔らかな表情で医者に話し掛ける。
「私達は用事があるので、これで。名前、行こうか」
「え?あ、はい!」
名前も軽く礼をしてから、ホテルのエントランスに向かうカカシを慌てて追いかけた。早歩きのカカシを追いかけて、エントランスを抜ける。
ホテルから暫く歩いて、大通りに出たところでカカシが振り返った。
「アイツ、何?」
「え?」
その表情はカカシには珍しくとても不機嫌で、名前はその表情を見てヤキモチを妬いているのだと気付いた。
別に私だって好きで遭遇した訳ではないのだと言い返したくなったが、この表情も愛しいと思ってしまうのだから、本当に自分はカカシに相当惚れ込んでいるのだと自覚させられる。名前は、口元を綻ばせながらカカシに近付く。
「本当に私の担当医だった人だよ」
「でも、アイツはそうは思ってないでしょう」
「……何でもないんだよ。私が好きなのは、後にも先にもカカシだけよ」
名前が困ったように見上げてくるものだから、カカシは、肩の力を抜いてごめんと謝った。
「この2年間、名前が他の男と仲良くなってたらと気が気じゃなかったよ。ちょっと目を離したらこれじゃない。本当に……」
「ごめんね、気を付けるね」
「いや、俺がもう少し広い心を持てば良いんだよ」
置屋に戻る道すがら、名前は寄り道をしていいかと聞いてきた。カカシはゆっくりする時間はないよ?と言いながらも、名前に道を譲る。
置屋に続く道を通り過ぎて、角を曲がるとこじんまりとした花屋にぶつかった。名前は、その店の中に入る。カカシもすぐ後ろについて入った。
所狭しと飾られた花達の中から、名前は迷わずにひとつの鉢植えを選んだ。花のついていない葉っぱだけの小さな鉢植え。
「名前、これは?」
「お母さんにあげるの」
カカシが、なんの花?と聞けば、鈴蘭だと教えてくれた。
鈴蘭と言えば、名前の好きな花だ。会計を済ませ、鉢植えをカカシが受け取る。
「カカシ、ありがとう」
「重いのは俺が持つから」
空いている方の手を繋いで、また置屋の帰路に戻る。
「ねえ、カカシ」
「ん?」
「私ね、酷い娘だったと思う」
「名前が?俺には分からないな」
カカシはやさしいね、と名前は微笑んだ。
「木ノ葉にいる時、前の世界に戻っても誰も私を必要としてくれていないと思ってた。でもね、本当は皆にとても大切にして貰ってたんだって戻ってから気付いたの」
「……そう」
「お母さんの愛情に気付けなかった私は、娘として失格だったと思う。この2年間で、少しは芸事を上達させてお客さんを集めて恩を返して行こうと思ってたんだけど、それも苦しくて出来なくなってしまったの」
「そう、帰ってから頑張ったんだね。俺は、お母さんの本当の気持ちは分からないけどね、名前が生きていてくれているだけで、十分だったと思うな」
名前のご両親から、名前を任されたお母さんの気持ちはどんなものだったのかは分からない。ただ、名前が席を外した時に、お母さんとカカシは少しだけ話をした。
最初は、名前のご両親から任されていから育てていたこと。だが、母親のお腹の中にいる時から知っている名前が次第に娘のように感じられて可愛くて仕方なかったのだと言う。
「血の繋がりも大切ですけど、それだけじゃないのね」
ほら、こんなに可愛いと携帯電話の中にある名前の写真を見せてくる姿は親馬鹿と言われても仕方のない程で。
「本当に、私が名前さんを貰って良いんですか?私が貰うと言うことは、もう二度と会えなくなるんですよ?」
「そりゃ、寂しいわ。身を切られる思いよ。でも、私は名前より先に死ぬ、それは貴方も同じだとは思うけれど、カカシさんは一国の主みたいなものなんでしょう?それなら、選択はひとつしかないわ、それに」
ここで、名前が戻って来て話は中断した。
花街の通りに差し掛かる前に、名前があのさと見上げてくる。
「流石にね、ここに一緒に入るのはマズいと思うんだ。まだ出待ちの人はいないけどさ、顔見たら私だってバレると思うし……」
「そっか、じゃあ俺が裏口から入るよ」
「うん、ごめんね」
名前が置屋に入ったのを確認して、カカシも勝手口から中に入った。
「カカシさん、すみません」
「いいえ、慣れてますので」
「ありがとうございます。名前なら部屋におりますよ。他の者達は稽古に出ておりますのでご安心を」
言われた通りに部屋に行くと、名前が棚の整理をしていた。
「リュックひとつ分位なら持っていけるよ」
「良いんだ、これだけあれば」
それは、アルバムひとつ。幼少期からの名前と家族の写真、それから置屋のお母さんと妹達との写真。
こればかりは木ノ葉で手に入らないからと、名前は大事にリュックに仕舞った。
「何か準備はいる?」
「口寄せをしてもらうから、名前の血をちょっと借りてもいい?」
「血?」
「そう、名前の血を使って契約して置かないとナルトも口寄せ出来ないんだよ」
腰のポーチから巻物を取り出して、床に敷いた。名前の手を取ると、服の下に仕込んでいた小さなクナイの切っ先を指先に向ける。
「痛いけど、ごめんね」
「大丈夫だよ」
名前は見るのは怖いらしく、ぎゅっと目を瞑っている。カカシは心の中で、ごめんねと何度も繰り返しながらほんの先だけを、ツンと指に刺した。
指先に血を集めると、指の先に血溜まりが出来た。
「名前、自分の名前書ける?」
「うん」
恐る恐る血溜りを作りながら名前を書いていく。ほんの少ししか切らなかった為、やっとの思いで名前を書いた。かと言って、普通の忍と同じくらいに名前の指を傷付けるなんて、カカシにはとても出来ない。
「ふう……」
「ありがとう。これでオッケー。後は、もう待つだけ」
巻物を仕舞い、傷を絆創膏で覆った。時計を見ればタイムリミットまであと少し。
「カカシさん、場所はどちらが宜しいでしょう」
「どこでも良いのですが、念の為靴を履きたいので庭があれば」
「庭なら、塀に囲われてますからお使い下さい」
カカシが先に庭先に出ると、名前はちょっと待っててと自分の部屋に再び引っ込んだ。
ー85ー
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