人形姫・01
1st・出会う
花風。
それがこの街での名前の呼び名。
生まれつき体から香る艷やかな花のような芳香がその所以。花風が通った道は、その残り香が風に運ばれて行く。その芳しい風が花風を忘れられない存在にさせるのだ。
可愛い名前を付けてくれたお母さんには感謝している。
慣れた手付きで白粉を首筋まで塗り、唇と瞼に紅を引く。紅い目元は、蝶も誘われそうなほどに甘く潤んでいた。
豊かなまつげは、ふと伏せるとまるで泣いているかのような艷やかさ。
花風は、この花街でも最も人気のある舞妓の一人。
小柄で華奢ながらも美しい線の体、鈴をふるような声、白粉を塗る事でさらに倍増する可愛らしいお顔の美しさ。
美しい舞妓、芸子達に慣れた男達でさえ、花風に微笑まれれば、お座敷遊びの手を止めてしまうほど。
舞の才能にも恵まれ、美しい舞は芸妓の姉さん達にも魅染められるほど。
まるで、舞うために生まれてきた白い蝶のよう。
花から花へ舞い、見るものを飽きさせない。
化粧を終え、髪を整える。最後に、花風だけの鈴蘭のかんざしを髪に差す。これで支度は終わり。
「花風、今日は珠藤も連れて行っておやり」
「はい」
「花風姉さんと!?ほんま嬉しいわ」
妹の珠藤を連れて、お茶屋へ向かう。
置屋を出れば、お茶屋に入れない花風のファン達が花風の美しい姿を写真に収めようとする。
花風の所作全てが美しく、どんな瞬間さえも画になるのだ。
彼達を尻目に、花風は残り香を残して去っていく。
花街の中でも静かで厳かな場所に、花風が舞うお茶屋があった。今日も、花風を楽しみにしている方がいる。
この橋を渡りきれば、もう数歩で着く。
その時だった。
橋の真ん中で、花風の足が止まる。
「花風姉さん?」
「珠藤…何や聞こえへん?」
「?」
花風が、耳に手を添える。
珠藤もそれを真似る。
「助けて、と声がしいひんかった?」
「姉さん、うちにはわかれへん」
気のせいかと思い、花風が歩きだそうとした。
その瞬間、
見えない力で、花風の体が橋の外に投げ出される。
否、川に向かって引っ張られたのだ。
力が強すぎて、花風は声をあげる隙もなかった。
「姉さん!!!」
珠藤から伸びた手も届かず、下に落ちてしまった花風。珠藤は、追うように橋の下を覗く。
「姉さん?」
落ちたはずなのに、花風の姿はない。
水のドボンという音も無く、いつもの穏やかな川面がさらさらと流れているだけ。
欄干に全体重をあずけ、そのまま落ちてしまいそうなほど頭を下げて川面を見つめるせいで、珠藤の髪からかんざしが抜け落ちる。
チャポンと音がして、浅い川底に落ちたのが見えた。
流されてしまったのだろうか。
深くても膝ほどしかないこの穏やかな川に、美しく着物を着飾った者が流されるのだろうか。
「姉さん……」
珠藤は、混乱と大好きな花風が消えてしまった恐怖に震える体を無理やり言い聞かせ、助けを呼ぶためにお茶屋に駆け込んだ。
突然の強い力に一瞬気を失った。
しかし、すぐに目を覚まして視界を開けば美しい透明な水の中にいた。
水面の向こうには、珠藤の姿が見えたがすぐに歪んで消えた。あぁ、珠藤。
この川はこんなに、深かったかしら。
夏には、小さな子供達が遊べるほど浅い川にどんどん沈んでいく自分。
体が何かで支配されているように、意思を介することはなく、大人しく、限りない透明な世界へ沈んでいくしか選択肢は残されていなかった。
水の中なのに冷たくなくて不思議だ。
自分は目を開けた時には死んでしまったのかもしれない。それも、それで、良いかもしれない。
「なんて美しいんやろう」
もしかして、これは天国への道なのかもしれない。
そう思った瞬間、花風は息を吐き出しながら意識を失った。
最後に見えたのは、自らが吐き出したあぶくだけだった。
ー2ー
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