ゆめまくら
2021/05/26 00:24

 眠れない夜が続いた。ある晩、扉を叩く男がいた。日を越える深夜のことだ。
『眠れないなら僕を抱いて眠るといい』
 なんという言い草と態度だろう。当たり前のように靴を脱ぎ、上着を脱いでベッドに座る。そして奴はおれの手を引き、ベッドに押し込む。
 出て行け、不審者め。
 そんな言葉を呑んでしまう。
 奴はおれを抱き、おやすみと言い放った。溶けるように意識が失せる。
 おれはこいつを知っている気がした。

 お前は誰だ。
 僕はバクだよ。
 バクとはなんだ。
 夢を食べる生き物だ。
 夢とはなんだ。
 君が見るものだよ。
 君とは誰だ。

 ハッと目覚めると朝が来ていた。腕の中に不思議な感触がある。そこには誰もいないのに、誰かがいたような感触だ。
 夢のような枕を抱いた。そんな夜だった。


 眠れない夜は尚も続いた。
 自称バクの男は毎日現れた。
 おやすみ、その言葉を聞くたびに、おれの意識は深くに落ちていく。とても名残惜しい気持ちだった。
 自分よりも少し高い体温で、布団よりも少し硬く、柔らかい感触。自分の鼓動よりもゆっくりと大きな鼓動。どこか甘い匂い。
 ずっと抱きしめていたいと願うのに、気が付けば朝は訪れていて、その頃には腕の中はもぬけの殻だった。
 夢枕は夜明けとともに溶けていってしまうのだ。


 バクを抱いて眠る夜は尚も続く。
 もはや、夜が来るたびに彼を待っていた。
 家の外を歩く音を、耳を澄まして待ってみても少しも聞こえはしない。それなのに、ある時突然ノックの音がする。
 お前はどこから現れて、どこへ消えていくのだろう。
 バクに引き倒され、ベッドに横たえる。
 眠りたくなくて苦いコーヒーを飲んだ。馬鹿な話だ。眠るために眠らないでいる。それでもやはり、すぐに眠ってしまうのだ。

 おれの夢を食べているのか。
 そうだね。
 おれは夢を見ているのか。
 そうだね。
 おれの夢はどんな味をしている?
 少し甘くて苦いかな。
 ……どんな味だ、それは。

 ふと、目が覚めるいつもの朝。
 口の中が仄かに、甘くて苦い気がした。
 夢枕は今日も溶けていない。


 眠れない夜は続いていく。
 朝が怖くなっていく。
 今までは眠れないのが怖かった。今は違う。目覚めるのが怖い。
 それでもバクは訪れる。お前のせいで眠れないのに。
 おやすみ。
 意識は溶けていく。口走る言葉は届いただろうか。
 行かないでくれ。
 ちゃんと言葉になっただろうか。

 ハッと目が覚める。さめざめと泣く。しとどに濡れる、夢枕は。
「おはよう」
 優しい朝を抱いた。


終わり
追記

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