そして、次いで視界に入ってきた鮮やかな赤に、思わず、呼吸が止まる。赤い液体が、絵の具をぶちまけたように空中に飛び散っていた。
――なんだ、なんだこの赤は。
見覚えのある赤に、喉が締め付けられ呼吸が上手く出来なくなる。この赤の出処を見ようと、視界の端に目を向ける。倒れかけている体。その体の持ち主を確認しようと、視線を上げて――、
「――!……いっ!…お…っ!――、ミズノッ!」
「――ッ?!……ッ!!」
「しっかりしろ!」
強く体を揺すられ、突如、急激に意識が浮上した。はっ、はっ、とまるで長い距離を走った後のように、空気を求めて息を吸う。バクバクと煩い鼓動を刻む心臓を落ち着けようと胸元をぎゅっと握るが、効果なんてものはない。
目を見開き、錯乱するミズノを落ち着かせようと、カマソッソは未だ必死に呼吸を繰り返すその体をぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫だ。落ち着き、ゆっくり少しずつ息を吐け」
とん、とん、と幼子をあやすようにカマソッソは背中を叩き、優しく声をかける。頭上から聞こえる低く、安心する声音と、トク…トク…トク…と一定のリズムを刻む心音に、ミズノの大きく上下していた肩は次第に落ち着きを取り戻していく。そして漸く、呼吸が元に戻ったのか、彼女は掠れた声を出した。
「カマソッソ……様?」
それはまるで、そこにいるのを確認するような、怖々とした声音だった。カマソッソは、自分はここにいると示すように、彼女の肩を抱き締める。
「ああ、オレだ」
「よかっ……た」
上を見上げ、カマソッソの顔を確認した彼女は力なく、眉を下げて笑う。その痛々しい笑みに、カマソッソはまるで心臓が掴まれたように苦しくなった。
「……まだ起きるには早い。もう少し寝ていろ」
髪を梳くように頭を撫でれば、それが気持ち良いのかミズノは段々と瞼を降ろしていく。何度かそれを繰り返せば、ずしりと胸に寄り掛かる体重。彼女が完全に瞼を閉じきったことを確認したカマソッソは、そのままゆっくりと寝台に横になった。そうして壊れ物を扱う様に、ミズノの体を抱き締める。
ふと夜中に目が覚めた。それは隣で眠るミズノから、苦しそうな声が聞こえたからだ。幾度となく夜を共にしてきたが、こんなことは今まで一度もなかった。顔を見れば眉間に皺を寄せ、苦しそうに何かに耐え、「いやだ……いやだ…」と譫言のように呟く彼女を見て咄嗟にその体を揺り動かした。何度も声をかけ、漸く目を覚ました彼女の顔は、まるで絶望に塗り潰さたようだった。
質の悪い夢でも見たのだろうか。腕の中ですうすうと寝息を立てる彼女に視線を向ける。自分の眉間に皺が寄っているのが分かり、カマソッソは静かに息を吐いた。夜はまだ長い。自分も眠りに就こうとカマソッソは今一度、胸に抱く温もりを優しく抱き締めた。
鳥の囀りが遠くから聞こえる。目をゆっくりと開けば、視界いっぱいに褐色の肌が広がっていた。寝起きで霞む思考のまま、ぼんやりと目の前を見つめる。そして温もりに寄り添うように、刺青が彫られた肌に頬を寄せた。
――トク、トク、トク……。
ゆっくりと一定のリズムを刻む鼓動に、何故か酷く安心したミズノは、そのまま音に聴き入るように瞼を閉じる。良かった、生きている。彼はここに、目の前にちゃんといる。まるで言い聞かせるように胸中で唱える。そしてミズノはその温かな鼓動に誘われるように、思考は微睡みに溶けていった。
「お久しぶりです、ミズノ様」
現れたカマソッソの遣いの戦士に、ミズノは片付けをしていた手を止める。今日も彼女は術式付与の手伝いをしており、丁度、明日に備えて片付けや準備をしているところだった。
「お久しぶりです。今日はどうされたんですか?」
最近はカマソッソといる時間が長いためか、こうして遣いの彼と話すのは久方ぶりだった。
「カマソッソ様より言伝です。こちらの仕事が終わり次第、玉座の間に来るようにとのことです」
言われた言葉にミズノがお礼を伝えれば、遣いの戦士は一礼し、踵を返していった。受け取った伝言に、ミズノは首を捻る。夜中に迷惑をかけてしまったことで、起床の際は酷くカマソッソから心配されたミズノだったが、その時には特に何も言われなかったのだ。もし、何か用事があったなら朝にカマソッソが直接言う筈だ。一体、何の用件なのだろうか。
一先ず、彼の元に訪れなければ分からないか。
そう結論付けたミズノは、最後の片付けを済まし、備品の在庫チェックを行った。特に不足している物も見当たらなかったため、彼女は簡易テントから出て、近くにいた同僚に声をかけながら神殿へと足を向ける。
長い廊下を歩き、そうして玉座の間に足を踏み入れれば、前に来た時と様子が異なっていることに気付いた。前に来た時は、壁際には臣下たちが並んでいたというのに、今日は誰一人としてその姿がなかった。
「来たか」
上からかけられた声に顔を向ける。そこには椅子にゆったりと腰掛けたカマソッソと、彼の後ろにいつも見る神官が立っていた。いつもと違う雰囲気に首を捻りながら、ミズノはカマソッソの前へと立つ。
「急に呼び出してすまなかったな。体の方は大丈夫か?」
「はい、お陰様で大丈夫です」
悪夢に魘されたミズノではあったが、朝には多少眠気を抱えていたものの、特に体調が悪いといった物はなかった。ミズノのその言葉に、カマソッソはひっそりと胸を撫で下ろす。
「それでカマソッソ様、本日はどうなさいましたか?」
ミズノから問いかけられた言葉に、カマソッソは一度、静かに息を吸った。
「ミズノ。昨夜お前が魘されていたのは悪夢を見ていたということで間違いはないか?」
「はい」
「覚えている範囲で構わない。夢の内容を話せ」
「……それ、は」
そこでミズノは一旦、言葉を切った。何故カマソッソが自分に夢で見た内容を話せというのか、彼女は検討がついていた。だがしかし、と思う。たかが夢、その情報を鵜呑みにするなど危険ではないだろうか。
「……なに、案ずるな。ここカーン王国では古くから夢の情報を参考にしてきたことなど星の数ほどある。眉唾物の物からそれこそ、予知夢と呼ばれる物までな。聞い後にどう扱うかオレの方で精査するつもりだ」
だから気に病まずに話せというように、カマソッソはミズノに語りかける。審議を見極める力強い瞳に、ミズノは張り詰めていた息を吐き出した。
「……では、僭越ながら、」
そう切り出して、彼女は昨夜見た、己の夢の話を紡いでいく。暗い森の中で見た巨大な蜘蛛のような異物。崩れた足場に、そこに立つ沢山のカーンの戦士たち。そして、眩い光に貫かれる戦士たちの姿。
そこまで話して、ミズノは口を閉じた。玉座の間には酷く重く、静かな空気が漂っている。
「……以上が、私の見た夢の内容でございます」
そう言葉を押し出して、彼女はカマソッソを仰ぎ見た。彼女の夢の内容を聞いていた彼は、顎に手を当てて、端正な顔を顰めている。不快な気持ちにさせてしまっただろうか。夢とはいえ、自分の民が傷付く話を聞いたのだ。思うところもあるだろう。
「……ミズノ、その森の場所は覚えているか?」
「……見れば直ぐに、分かるかと思います」
静かにカマソッソはミズノに問いかける。「そうか」と言葉を返した彼は、何か考え込むように目を閉じた。それは時間にして数秒だった。
「神官、船は直ぐにでも動かせそうか?」
「はい。カマソッソ様の命が出れば直ぐにでも出立出来ます」
「よし、ならば明日にでも向かうとするか。後ほど、戦士長と総元締めにも伝令を回しておけ。奴らもいた方が何かと都合が良い」
「はい、承知いたしました」
ミズノを置いてぽんぽんと軽やかに進む会話に、彼女は一瞬、ぽかんと口を開けてしまうも、はっと我に返った。そして慌てたように声を出す。
「お、お待ちください、カマソッソ様!」
「なんだ?無論、お前には着いてきて貰うぞ」
「いえ、そうではなくて!」
「じゃあなんだ?」
なんだ?と問われた言葉に、一瞬、言葉が詰まる。だが臆する訳にもいかず、彼女は焦りを隠すように、ゆっくりと口を開いた。
「たかが小娘が見た悪夢です。易々と信じるのはその、危険なのでは?」
「そんなことを気にしているのか。先程も言ったが、夢の内容を参考にすること自体、ままある話だ。お前が気にする必要はない」
「で、ですが……!」
「……それに、お前の見た巨大なる蜘蛛の姿。それは恐らく、星喰いの怪物だ」
カマソッソの静かな、しかしはっきりとした声がミズノの耳に届く。あれが、彼が前に言っていた星喰いの怪物だというのか。彼女の心に、じわりと不安の闇が滲む。
「お前にはまだ言っていなかったが、近々。防衛戦を作る話が出ていた。何処に作っても変わらぬのだ。ならば、少しでも参考になるところに設立した方が良いだろう」
にやり、と勝気に笑うカマソッソにミズノは張っていた肩から力が抜けるのを感じた。そして同時に、ミズノが気負わないように言葉をかけてくれたカマソッソに、彼女は心が軽くなる感覚を覚えた。ミズノの強ばっていた表情が緩むのを見て、カマソッソは目尻を下げる。
「そういう訳だ。お前には明日、拠点確認に同行して貰う。いいな?」
「……はい、分かりました」
あの悪夢を現実にしないためにも、今は残された時間で自分に出来ることをやるしかない。ミズノは強く、心にそう誓った。
「これがカーン王国の飛行船ですか……」
「カーン王国の叡智を集めた結晶だ。中々に便利な物だろう?」
得意げな表情を浮かべるカマソッソに、ミズノは「はい、とても」と微笑みながら返す。
カマソッソと神官との話し合いをした翌日。彼女は話し合いにいた2人と戦士長、そして開発部門の総元締めと数人の幹部の戦士たちと共に飛行船に乗っていた。まるでSFのような機内に、ミズノは内心、わあ……、と感嘆の声をもらす。飛行船というよりも、それは最早、艦隊と呼んでもいい代物だった。
カーン王国を出立した飛行船は、緑生い茂る豊かな森の真上をなだらかに泳いでいく。第3層を出て第4層、第5層、第6層と順調に進む。飛行船から灯りが出ているとはいえ、太陽がない所為か辺りは暗く、まるで闇の中にいるようだった。光があったのなら、一体、どんな風景が広がっていたのだろうか。ミズノは目の前の窓から見える暗い、深海のような景色にそう思った。
そして、飛行船が最後の冥界線を抜け、第9層へと辿り着く。機体から伸びる灯りに照らされた景色に、ミズノはひゅっと息を呑んだ。
鬱蒼と生い茂る、暗く、深い木々。それは夢で見た場所その物だった。
人知れず、ぎゅっと手を握り締める。
「……カマソッソ様、ここです」
「……シバルバーか」
ミズノは静かに、正面へと指を指し示す。そこには深い森林と、所々に湿原がぽつぽつと生えていた。遠くにはカーン王国と似た建築の建物、カラクムルが建っている。カマソッソは目の前の景色に目を細めた。
「術式が完成して良かったというものよ」
「術式とここは何か関係があるのですか?」
「第8層からは人体に有害な毒が出ていてな。あの術式なしには活動もままならぬのだ」
まあ年に1度、その毒がなくなる期間があるがな。とカマソッソは言葉を区切る。ミズノ自身も術式開発中に話は聞いていた。しかし、てっきり毒ガスが充満していると思っていたのだ。改めて、目の前の景色に視線を映す。まるで、来るものを拒んでいるかのように見える森の奥には、ぽっかりと、暗い穴が空いていた。
「戦士長。戦士たちは毒に対する術式を全員入れたのだな?」
「はい、残るは住民のみとなります。その数も残り4割くらいかと」
「開発部門。術式の効果はどのくらいだ?」
「第9層で活動をしても問題ないレベルです」
彼らの言葉を聞いたカマソッソは目を閉じる。そしてゆっくりと、その瞼を持ち上げた。その目は、視線の先は、まるでカラクムルの先を睨みつけるかのように、その眼光は鋭かった。
「第9層に、対星喰いの怪物防衛戦を敷く。この地は猛獣共も多い。拠点設立メンバーは腕の立つ者を中心に組め!」
「はっ!」
カマソッソの声に、戦士長と幹部の戦士たちが力強く応える。遂に星喰いの怪物への戦いを見据えた準備が始まるのだと、ミズノは感じた。防衛戦が敷かれれば、戦闘の幅も広がる。自分もその設立に組み込まれる筈だ。だとしたら、幾らでも対策が出来る。
でも、何故だろうか。ミズノはぎゅっと、何かを抑えるように自分の二の腕を掴んだ。良い方向に進展している筈だというのに、心を覆う暗雲は未だに晴れない。大丈夫、まだ、夢で見ただけだ。まだ、変えられる――。
そう言い聞かせるように、彼女は目の前の景色を睨みつけた。
23/07/02