亡霊が思うには


 01

 南波の精神世界から現実世界へと戻ってきて、南波が暫く姿を消したとき。
 本当に寂しかった、というわけでないが南波の姿を探してしまったのは事実だ。

 だから、またこうして南波と会えるようになったことになって安心した。なんて言ったら不謹慎なのだろうが、それでも自分の気持ちにまで嘘は吐けない。
 日が昇り、外も白ばんできたとき。部屋の窓の外を覗いてると、見つけた。南波だ。

「南波さん!」

 そう、窓を開いて名前を呼んでみる。
 口に出したあと、聞こえるはずないか、と諦めかけたとき、南波はこちらを見上げた。そして。
 少しだけ周りを気にしたあと、そっと片手を上げた。……挨拶に応えてくれたつもりなのだろうか。
 わかりにくいが、それでも以前の南波ならば一目散に俺から逃げていたはずだ。
 嬉しくなって、俺はつい下へと降りた。

 屋敷外、庭の前。俺が来るのを待っていたわけではないだろうが、太い木の根を椅子代わりに腰を下ろして喫煙していた南波はやってきた俺を見て少しだけ視線を泳がした。

「……よぉ。……どうした、そんなに慌てて」
「いや、どこか行くのかと思って気になって……」


 トラウマ、というわけではないがまた南波がいなくなるんじゃないか、とか、生前の南波が現れたりしたことから南波のことから目が離せなくなった。なんて言ったら南波には気味悪がられるだろうか、それとも、呆れられるかもしれない。
 南波は「そうかよ」とだけ応え、そのまま俺から顔を反らしたまま黙りこくるのだ。

「……………………」
「……………………」

 ――沈黙。
 聞きたいことはたくさんあるのだが、ありすぎてどこから手を付ければいいのかわからないのだ。

「なあ、……準一」

 さん、と言い掛けて堪える南波。どうやら大分俺の呼び方にも慣れてきたらしい。はい、と答えれば、南波は視線を反らしたまま口を開く。

「お前は、成仏したいと思うか?」

 それは、予想してなかった問だった。
 俺の私生活や趣味などについて聞かれるとも思わなかったし、俺達の共通の話題となると限られてる。わかってたけど、それでもそんなことを聞かれるとは思わなかった。

「……俺は、したいです。というか、そうじゃないと……」
「困る、か?」

 頷き返す。
 南波は口から煙を吐いた。その煙は本物なのか、どんな味がするのか俺にはわからないけど、漂うヤニの匂いには嗅ぎ覚えがあった。事務所で南波がよく吸っていたものと同じだ。

「……まあ、そうだろうな」
「南波さんは、その……立ち会ったこととかないんですか?その、成仏に……」
「ある。っつっても、大分前だけどな」

 その言葉を聞いて俺は少し驚いた。
 他の住人たちの話を聞くに南波は今いる面子の中では二番目の古株だ。そんな南波ですら成仏した者を知らないとなると、奈都の言っていた言葉を鵜呑みにするわけではないが本当に成仏という概念が存在するのか怪しい。けれど、南波が知ってるとなると本当に存在するのだろう。

「どんな感じなんすか、それって」
「知らねえよ。……俺だって見ただけだしな」
「……そう、ですよね」
「……っ、なんだよその目は……けど、俺が想像してたのよりは大分地味だったけどな」
「地味?」
「消えるんだよ、仏さんが。それっきりだ。成仏だから苦しむわけでもない。ただ、砂みたいに消えるやつもいたら瞬きした瞬間そのままいなくなる」
「……それは……もしかしたら、ただ隠れてるだけとかは……」
「さあな、それについては知らねえよ。けど、現にそれ以来パタリと姿を見せなくなる。カマ野郎に聞けば『ああ、無事天に召されたのですね』なーんて抜かすからな。……馬鹿げてるが、んなこと言ったら今の俺だって馬鹿げてるもんな」

 皮肉混じり、話してる間にフィルターしか残っていない煙草を指で揉み消した南波はそのまま吸い殻を地面に捨て、踏み潰す。

「……つか、わざわざそんなこと聞きにきたのかよ」
「あ、いや……それは……」
「……それは?」

 立ち上がる南波。じとり、と睨むような視線がこちらを射抜く。こうして並ぶと南波の威圧感に飲まれそうになるのだ。
 ……やっぱり、別人みたいだ。昔の南波が恋しいというわけではないが、やはりどうやったって比べてしまっては戸惑うのだ。

「また、どこかに行くんじゃないかと思って……気になったんです」

 誤魔化す必要もないだろう、相手は南波だ。白状すれば、少しだけ南波の目が丸くなる。そして、ばつが悪そうに舌打ちをした。

「……はぁ……」
「……南波さん?」
「お前……っ、いや、別に……いいけど……」
「あの、気を悪くしたんなら……すみません、余計なお世話ですよね」
「そうじゃなくて……だな、その、……お前そんなんだからあいつらに舐められんだろ」

 吐き捨てるような乱暴な言葉遣いだが、南波なりに言い方には気をつけてるらしい。予想外の返答に俺は一瞬反応に詰まる。
 ……これは、つまり。

「お前、前から思ってたけど……人が良すぎなんだよ。俺のことなんか別に一々気にすんなよ、この前だって、消えて清々したって喜べばいいってのに……お前は……」

 これは、怒られてるのだろうか。でも毒も怒気もない、寧ろどこか心配するような口ぶりだった。

「別に、俺は……」

 誰にだってそうするつもりはない、相手が南波だったからだ。そう答えかけて、言葉を飲む。滅多なことは言うものではない。言い淀む俺に「なんだよ、はっきり言えよ」と南波が促してきたときだった。

 無数の虫の鳴き声に混ざって玄関の方から扉が開く音が聞こえた。
 遠目に扉の方を振り返れば、どうやら幸喜が屋敷を出たところみたいだ。まだこちらには気付いていないようだが……。

「げ、……クソ、ここもゆっくりできねえな」
「あ、南波さん……どこに……」
「森林浴だ。……………………別に、心配しなくても勝手にいなくなんねえよ」
「……っ!」
「それとも、……お前も来るか?」
「――え?」
「……昼間は日差しと暑さがうぜえから今のうちだぞ」

 南波の方からこんな風に誘ってくれるなんて。
 ……心を開いてくれたみたいで素直に嬉しかった。けど、邪魔にならないだろうか。そう迷ってると「行かねえならいい」とさっさと南波が歩き出すので俺は「待ってください」と慌ててその後を追いかけた。


 南波の頭の中を全部覗いた今、南波もわざわざ取り繕う必要もないと思ってくれてるのだろうか。なるべく精神世界と同じ、生前のときの態度で俺に接してくれようとしてるのがわかって嬉しかった。

 暫く森の中を彷徨っていると、見覚えのある拓けた空き地に出た。
 ……ここは、確か墓場だ。最上の指輪を見つけた、最初の場所。
 南波はパンツのポケットから潰れた煙草の箱を取り出し、そのまま地面の上に置いた。

「……不法投棄だって、花鶏の野郎に怒られっかな」

 そう南波は笑う。けど、全部が全部吹っ切れてるわけではないのだろう。その目には寂しさが確かに混ざっていた。

「いや、花鶏さんなら……きっと喜びますよ。南波さんが、こうしてお参りをしてくれたこと」
「どうだかな。あの野郎、俺が何してもケチつけてきやがるから」

 確かにそういうところはあるが。
 ……南波に対する当たりの強さは花鶏なりの親愛も含まれてるように思えるが、どうなのだろうか。あの人は特にわかりにくいからな。苦笑するしかない。
 そんなときだった。

「そんなことありませんよ、……貴方がそうやって弔うということを覚えるのは私としても喜ばしいこと」
「……げ」
「あ、花鶏さん……いつから」
「今朝はいい天気なので久方ぶりに森林浴ついでに墓の手入れでもと思いまして。……するとなんと奇遇でしょうか、貴方がたがやってきた」

 音もなく現れた花鶏に、俺も南波も顔を合わせた。神出鬼没の男だとは思っていたが、ここまでくるとずっと監視していたと言われても驚かないだろう。南波は露骨に顔を歪める。

「やっぱ滅多なことはするもんじゃねえな、ろくなことにならねえ」
「全く、貴方の減らず口はいつになれば治ることやら。……しかしまあ、見ない内に随分と親しくなられたようですね」

 ねえ、南波?と薄く形の整った唇の端を持ち上げ、優雅な笑みを携える花鶏に南波は青褪めた。そして大きな舌打ち。

「別に親しくなってねえよ」
「そう邪険にしないでください。別に責めてるわけではありません。ただ、今の貴方なら前回はできなかった接吻――それ以上のことはできるのではないでしょうか」

 笑いながらさらりとろくでもないことを言い出す花鶏。その言葉に反応する前に、「冗談じゃねえ」と南波が大きな声を出した。

「こいつはお前の玩具じゃねえんだよ、発情ジジイは一人でマスでも掻いてろ」
「おお、怖い怖い。ただの冗談ではありませんか」
「あぁ?」
「私が何をしなくても幸喜が貴方と準一さんの関係を知れば、嫉妬してまた何かけしかけてくるでしょうしね」

 幸喜の笑顔が脳裏を過り、背筋が震えた。
 確かに、南波がどこまで俺に耐性がついたのか調べてみよう。なんて言い出してもおかしくない。

「……っ、糞が」
「南波さん」
「俺はもう少しブラブラして戻る」
「……あ、は……はい」

 無視されるかと思ってただけに律儀に教えてくれる南波にも驚いた。帰ってくるなら、大丈夫か。なんて思いながら俺は暫く南波の背中を見送った。
 ……南波。もう少し話していたかったのに、花鶏が変なことを言うせいだ。

「それにしても、あの南波が『ブラブラして戻る』とは……随分と手懐けたではありませんか、ねえ準一さん?」
「そういう言い方やめてもらえませんか。……別に、南波さんは元々こういう人だったってだけですよ」

 口も態度も粗暴だが、面倒見がいい。そんな南波の一面を側で見てきたからこそ、俺は揶揄する花鶏にも言い返すことができたのかもしれない。

「ええ、それもあるかもしれませんが――それを取り戻させたのは貴方です、もっと胸を張ってもいいと思いますよ」

 私はね、と微笑む花鶏。近付く花鶏にぎょっとして咄嗟に後退れば、「何もしませんよ」と花鶏はクスクスと笑うのだ。

「人と繋がることは容易くない。それも、あの南波の心に入り込むなんて……共感性の高さも才能でしょうが、それよりも私が興味あるのは貴方の……」
「……っ、花鶏さん……?」
「貴方なら」

 貴方なら、もしかしたら。そう、こちらを真っ直ぐに見つめてきた花鶏は微笑む。優しい笑顔、けれど、その瞳の奥底は見えない。

 ――貴方なら、私のことも救ってくれるのでしょうか。

 生暖かな風が吹き、花鶏の声はぶつかる葉の音に掻き消された。
 けれど、確かに俺の耳に届いていた。

「救うって……」

 どういう意味だ、と尋ねる前に、花鶏の指先は離れてしまう。

「なに、年寄りの戯言です」

 どうぞ、お気になさらないでください。そう花鶏は目を伏せ、微笑むのだ。
 いつものことだ、花鶏の言葉を一から十まで真剣に聞いていたら身が保たない。
 わかつていたが、それでも俺に口にしたあの目、あの声、あの表情が引っ掛かったのだ。いつもと変わらない表情、けれどその目の奥に羨望にも似たものを感じた。まるで玩具を欲しがる子供のような――。

「さあ、私たちも戻りましょうか。……午後から天気が崩れるようですからね」

 花鶏さん、と呼びかけてもそれ以上は何も言わない。ただ微笑み、屋敷へと踵を返す花鶏。
 なんだったんだ、一体。
 もやもやが胸の奥燻ったまま、俺は花鶏の後から着いていく。
 花鶏が妙なことを言うせいだ、歩きながらずっと俺は花鶏の真意を考えていた。

 思い返してみれば、俺は花鶏の過去の話らしい話を聞いたことがない。
 何を言ってもはぐらかされるし、そもそも気軽に踏み込んでいい話題ではないと分かっていたから無理して聞き出そうとはしなかった。
 そんな花鶏が、俺にいった言葉だから余計頭に残ったのかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていたときだ、遠くからエンジン音が聞こえた。車だ、車の音だ。

「花鶏さん……」
「おや、貴方も気付きましたか。恐らく仲吉さんでしょうね」
「あいつ、また……」
「貴方がいない間も何度か来られてたのですが、ここまで通うなんて。……余程準一さんのことを心配されてるのでしょう。顔を見せに行ってはいかがでしょうか」

 仲吉が、俺に会いに。
 確かに南波の中に入っていた時間は体感大分長かった。少なからず現実世界でも時間経過してるのだろうというのは花鶏たちとの会話から知っていたが、もしかしたら俺が考えてるよりももっと時間が経っているのではないかと思うと怖かった。

「……そうっすね、ちょっと行ってきます」
「ええ、ごゆっくり」

 花鶏は来ないのか、あれほど仲吉に興味を持っていたくせに見送る花鶏に驚いたが、俺が声を掛けるよりも先に花鶏の姿は見えなくなっていたのだ。
 俺は花鶏と別れ、車が停まったであろう崖の傍まで向かった。


 ――森の入り口付近、崖下。
 すぐにその姿を見つけることに成功する。危なっかしい足取りで崖下へと滑り落ちてきたのは、間違いない、仲吉だ。



「仲吉!」

 そう、声をかけたとき。服についた泥を払っていた仲吉ははっとこちらを見上げた。そして、俺の姿を見つけると嬉しそうに破顔した。

「準一!っ、お前やっぱいたのか!……って、本物、だよな?俺の幻覚とかじゃないよな?」
「ああ、残念ながら本物だよ」
「……よかった、もう会えねえのかと思った」
「大袈裟なんだよ。……つーか、寧ろ会える方がおかしいんだからな」

 駆け寄ってくる仲吉は「わかってるよ」と笑うのだ。安心したような笑顔だ。
 久し振りに会ったからか、仲吉の顔を見てほっとする自分がいた。ここ最近非日常――いや、死んでから非日常が続いているようなものだが、ともかくまあバタバタしていたからか、余計、見慣れたこいつの顔を見るというだけでも現実に帰ってこれたのだと安心した。

「それより、どこ行ってたんだよ。花鶏さんも奈都もわからないの一点張りだし、心配したんだからな、俺」

 花鶏も言っていたが、この様子からすると本当に心配してたらしい。確かに花鶏たちには何を告げることもなく入り込んでしまったわけだし、他の住人たちからしても急に俺と南波の姿が消えたということになるわけだから。

「それは、色々あったんだよ。こっちも」
「色々ってなんだよ」
「色々は色々だ。……あんま詳しいことは話せねえけど
「なんだよそれ。こっちは心配で心配で夜も寝れなかってのに」
「プライベートなことだからだよ。前に、お前の夢の中で会っただろ。あれと同じようなことが起きたんだよ」

 それに、あれは南波自身に関わるデリケートな問題だ。いくら何も知らない仲吉だとはいえ、あの世界で見てきたもの、起きたことをべらべらと話す気にはなれなかった。それは、仲吉だけではなく他の連中も同じだ。墓に持っていくつもりだ。……いや、もう墓もクソもないのか。
 けれど、しつこい仲吉がそんな返答で満足できるとは思っていなかった。

「ふーん。俺以外のやつと?できんの?」
「まあな」
「なんだよ、それ。……教えてくれたってのにいいのにさ、俺だってそんなに口軽くねえのに」

 ……出た、拗ねやがった。仲吉の悪いところだ。自分の思い通りにならないとすぐに臍を曲げやがる。いつもの流れならここで数日は引き摺るのだが、仲吉はどういうつもりか「まあいいよ」とあっさりと引き下がるのだ。

「それより、そうだよ。なあ、貸してたカメラ。写真溜まったか?バッテリー切れてるだろうって思って予備バッテリー持ってきたんだけど見せろよ」
「……あ」
「その間、なんだよ。もしかして忘れてたのか?」

 ……正直完全に失念していた。
 確かに元はといえばあのカメラが妙なものを写したのが全ての元凶、いやきっかけでもあったのだ。……けど、確かあれ藤也に貸して……花鶏に渡したんだっけか?やばい、覚えてない。
 俺の手元にないことは間違いないが。

「忘れてるわけじゃないんだけど、その……今手元にない」
「は?まさか壊したのか?」
「……ってわけじゃないんだと思うけど……あー、その、他のやつに渡してて」
「他のやつ?」
「ああ。……取り戻してくるか?」
「別に取り返さなくてもいいけど、バッテリーは交換しといた方がいいだろ?つか写真気になるから見たいんだけど、そいつって俺の知ってるやつ?」
「多分。けど、向こうは知ってる」

 藤也の顔を思い浮かべる。
 ……確かにまだ藤也とちゃんと会ってなかったな。
 あまり亡霊たちを仲吉に近付けたくないというのが本音だったが、藤也なら、という気持ちもあった。というか、この場合あいつの方が嫌がりそうだけども。バッテリーのこともある、一回会いに行ってみるのもいいかもしれない。

「……来るか?会ってくれるかどうかはわかんねえけど」
「勿論、つうか連れてかないつもりだったのかよ」
「当たり前だろ。カメラ手に入れたらちゃんと帰れよ。午後からは天気が崩れるらしいからな」
「はいはい、わかってるよ」

 本当かよこいつ……とじとりと睨みつつ、俺は呑気な仲吉を連れて屋敷へと戻ることにする。
 途中、仲吉とは他愛ない話をしていた。
 ここ最近はずっと旅館の部屋を借りていること、それから薄野たちがまた来るかもしれないということ。

「絶対駄目だ、連れてくんなよ」
「なんでだよ、一人より大勢のが楽しいだろ」
「お前な、なんにも学習しないな。もし何かがあってからじゃ遅いんだからな」
「けど、ここにいる連中皆準一の知り合いみたいなもんなんだろ?なら安心だろ」

 ……そして、またこの流れだ。何遍言ってもこの男には馬の耳に念仏同然だ。
 平行線を辿る一方だ。そしていくら俺が口煩く言ったってこいつは言うことを聞かないのだ。

「お前と話してると頭が痛くなるんだよ」
「なんだよ、人を馬鹿みたいに言いやがって。そもそも俺もあいつらもいい年なんだし、自分の身くらい自分で守れる」
「それで、俺は死んだんだよ。あの崖から真っ逆さまで」

 死にやしねえよ、と最後までこいつは笑っていた。そのとき喧嘩別れのような形になってしまっていたことを思い出す。口にして、ああ、と思った。これは言うべきではなかったかもしれない。仲吉の横顔が強張るのが見えて、余計。

「……っ、それは……」
「とにかく、俺はお前に俺みたいになってほしくないから言ってるんだよ。……分かるだろ」
「……分かんねえよ」

 は?と顔を上げた時、隣を歩いていた仲吉が急に立ち止まった。高い位置に上がっていた太陽が陰り始める。足元に落ちていた木陰が重なり、生温い風が俺達の間を通り過ぎていった。

「なあ、準一。お前は俺がこうして会いに来るの、本気で迷惑だって思ってんのか?」
「……なんだよ、急に。そんなの」
「答えろよ」

 決まってるだろ、と口を開こうとすれば、強い口調で促され思わずむっとする。
 そんなの、決まってる。本気で迷惑なわけがない。俺はただ、心配なだけだ。けれど、こいつが会いに来てくれるのを喜んだら行けないのだ、俺が。こいつのためを思うなら突き放さなければならないのだ。

「迷惑に決まってんだろ。……俺は、ずっと行ってきたはずだ。それなのに、人の話を全く聞かないからな、お前は」

 静まり返った森の中に響く自分の声はやけに冷たく響いた。口にしながら、胸が痛んだ。けれど心を鬼にする。
 ここまで言ってもこいつはわからないのだ。どうせケロッとして「ああそうだな、じゃあ今日もよろしくな」って俺の肩を叩いて笑うだろう。そう思いながら、顔をあげたとき。

「――……そうかよ」

 仲吉は、ただそう一言ぽつりと吐き出す。
 ぽたり、と灰色の分厚い雲が浮かんだ空から雫が落ちてきた。しまった、雨だ。間に合わなかったのだ、俺は。

「ほら、いいからさっさと行ってさっさと帰れよ。…………仲吉?」

 ぽたぽたと雨の粒が大きくなっていく中、うんともすんとも言わずその場から動こうとしない仲吉が気になって振り返ったとき。

「……俺、やっぱ帰るわ」
「え?」
「……カメラも、やるよ。好きにしたらいい。これ、予備バッテリー。充電されてないから、これがラストな」
「あ、……おいっ!」

 俺にカメラのバッテリーを投げ渡してきた仲吉は、そのまま来た道を戻っていく。なんだ、あいつは。どういうつもりだ。意地でもついていく、ならまだわかる。けど、と手元のバッテリーに目を向けた。
 仲吉の背中はどんどん小さくなっていく。降り注ぐ雨粒はあっという間に地面を濡らした。

「……なんだよ、あいつ」

 本気で怒ったのか?……今ので?
 こんなやりとり、別に初めてなわけでもない。いつもの押し問答だというのに急に豹変した仲吉がただただ理解できなかった。
 それ以上に、仲吉が俺の言う通り帰るということを素直に喜べない自分にだ。

「どうしろっていうんだよ、これ……」

 手渡されたバッテリーをポケットに突っ込み、溜息を吐いた。非常に癪ではあるが、雨の日の山は危険しかない。そんな場所をあいつ一人で歩かせるのは危険だ。俺は仲吉の後を追いかけようとしたが、既にそこには仲吉の姿はなかった。

 そして、やつの車がある崖周辺を待ち伏せしていたが仲吉が戻ってくる気配もなかった。
 雨脚はどんどん強まり、数メートル先すら雨にかき消されて何も見えない中、俺は仲吉を待っていた。
 けれど、待てども待てども仲吉は戻ってこなかった。

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