亡霊が思うには


 18

 ただ無我夢中で走った。
 南波の手の感触だけを確かめ、後ろも振り返らず、とにかく剣崎から逃げるためだけに。
 心臓が煩い。目の奥が熱くなり、それでも頭の中は恐ろしいほど冴え渡っていた。
 枝を踏む音が響く。泥濘んだ土に足を取られないように、立ちふさがるように生える木の間を縫うように逃げた。
 そんなことを暫く続けていたとき、掴んでいた南波の手に引っ張られる。止められたのだと思ったが、そうではない。躓いたのだろう、膝をついた南波はそのまま蹲る。

「っ、南波さん……」
「じゅん、いち……さん……ど、して……」

 弱まった語気。その声は震えている。
 何に対しての問いかけかわからなかった。或いは、全てか。俺は言葉に詰まる。焦点の合っていないその目に、血の気の引いたその唇。言葉に詰まる。
 答えなど最初から限られているのにだ。

「……南波さんを助けるには、これしかないと思ったから」
「……っ」
「剣崎辰爾はもう死んでます。あの男は、南波さんの作り出した幻影です」

 言わば、剣崎そのものが南波の心的外傷でもある。
 それが具現化し、現実で襲いかかってきたとなると、ここでこの男を始末しなければ恐らくこのまま俺たちは共倒れということになる。

「あの男は俺が何をしても死にません。恐らく、南波さんじゃないと……」

「南波さんじゃないと、あいつを殺すことができない」口にしてしまえば簡単だが、恐らく、それは南波にとって簡単ではないはずだ。今、目の前にいる南波には全ての記憶が戻っている状態だろう。蒼白の南波は、飼い主を探す犬のように視線を彷徨わせるのだ。そして、縋ることができないと理解したのだろう。目を瞑る。

「……っ、剣崎……あいつは、俺には……殺せない」
「っ、南波さん……」
「そんなことしたら、俺は、最上さんは……」
「……っ、南波さん、しっかりしてください……」

 最上はもう死んでる、なんて言いかけて、口に出来なかった。大きく見開かれる目が、俺が言わんとしてることに気づいたのだろう。俺を見てるはずなのに、俺を見ていない。無理だ、駄目だ、あいつだけは、駄目だ。そう、何度も呪詛のように口にする南波。その額から汗が流れる。手足を震わせる南波からして、その怯えようは明らかだ。
 俺は、それ以上何も言えなかった。
 南波は一度、剣崎に殺されてる。それも、死んだあとも心に傷を深く残すほど心身痛めつけてだ。
 そんな相手に立ち向かえなんて言えるわけがない。……南波の記憶を見てしまった俺には、余計、無理だった。

「……っ、わかりました……」
「っ、準一……?」
「……なんとかできないか、別の方法を探してみます。……南波さんは、隠れててください。時間の問題かと思いますけど……あの男はきっと俺を先に殺すつもりだから」

 おまけに、轢き殺したり爆死させたりとヘイトも充分溜まっているはずだ。震える手を握りしめる。どこまで保つかわからない。それも他人の精神世界だ、本人は不安定な状態で、もし俺まで喪失状態になればどうなるのだろうかなんて考えるだけ無駄だろう。

「っ、じゅ……――」
「……それじゃあ、後はお願いします」

 やれることはやるしかない。
 俺になにができるかなんてわからないけど、俺はこの人のことが助けたくてここにいるのだ。
 それならば、それに準ずるだけだ。


 ◆ ◆ ◆


 時間稼ぎなんてこと、できるかどうかすらわからない。けれど、やるしかない。南波が決心できるまで、信じることしかできないのだ。

 なるべく、南波が落ち着けるようにと離れた場所へと戻ってきた。夜の樹海に方向感覚なんて通用するわけもなく、数歩歩いただけで最早自分がどこにいるのかすらわからなくなる。
 深い夜の闇、頭上を照らす月の光だけが頼りだった。

 自分の足音と呼吸音だけが聞こえる。南波の方も心配だったが、あの男は南波よりも俺を先に殺そうとする確信はあった。
 あいつは南波の一部だ。ならば、いつでも殺そうと思えば殺せるはずだ。けれど俺はそうではない。

「……二人で仲良しこよしで逃げ帰ったと思えば、今度は一人ですか。不用心すぎじゃありませんか?」
「……」

 ――剣崎辰爾は、現れた。
 あれほどの爆発に巻き込まれたはずなのに、音も立てず、影の中から現れるあの男に俺はいつもと変わらない身なりだった。まるで何事もなかったかのように銃を指先で弄ぶように回し、そして、呆れたように軽薄な笑みを見せる男。すぐに殺すつもりはないのだろうか。ポケットの中、忍ばせていた銃を握り締めたまま俺はやつから一定の距離を取る。

「それで、庇ってるつもりなんすか?隠れても無駄なんすからもう少し賢くなればいいのに……あの人も、アンタも」
「……お前だって、南波さんなんだろ」

 剣崎は銃に向けていた目を俺へと移す。そして、その涼しい目を細めて笑うのだ。腹立つほどの余裕の笑顔。

「そっすね。……親父さんも、宗親さんも、この世界も全部俺っすよ。だからどこに逃げようが俺に筒抜けってわけです」
「なら、何がしたいんだよ、お前……もし南波さんが死んだら、お前だって死ぬことになるんだろ」

 そうだ、南波の自我を崩壊させればこの精神世界は勿論消えることになる。そうなれば、下手すりゃ霊体としても留まることはできなくなる。……それは、俺達にとって二度目の死だ。
 話が通じる相手とは思わないが、それでも、聞かずにはいられなかった。そんな俺に、剣崎は顔を歪めるようにして笑う。

「……本当、バカっすね。アンタって」

「全てを思い出して、俺が生まれたんですよ。南波宗親は死にたがっている。俺に殺されたいと心から思ってるんですよ」そう言って、剣崎は銃をこちらへと向けた。
 鈍く光るその銃身に、体が強張る。

「だから、この世界で邪魔なのはアンタだ」
「っ……死ぬつもりなのかよ」
「あの人は別に生きたかったわけじゃない。寧ろ、親父さん殺されてまで自分がまだこうして存在してることの方があの人にとっては理解し難い状況なんだ。あるべきものを正しき道に戻す、それだけっすよ」

 ああ、と思った。これが、南波の本音なのか。
 本当にそうなのか。これは、南波の認識してる剣崎という男のまやかしではないのだろうか。
 ……そうだ、俺は、まだ南波自身の言葉をちゃんと聞いていない。
 銃を引き抜く。手の震えを誤魔化すように、剣崎に銃口を突き付けた。引き金を引くのに躊躇はなかった。
 やらなければ死ぬ、そう悟った俺は剣崎の頭目掛けて発砲した……つもりだった。
 けれど。

「その手に二度も引っかかると思うんです?」

 耳を劈くような破裂音が空に響いた。その反動に痺れる腕を無理矢理動かし、声のする方へと視線を向けた時。
 伸びてきた腕に首を掴まれる。あの弾を避けられたようだ、無傷の剣崎は俺の手から銃をもぎ取り、そのまま俺の額に銃口を押し付けるのだ。

「……邪魔なんだよ、お前」
「っ、それが、本性かよ……っ!」
「さあ?そんなに俺のこと、気になるんです?」

 ごり、と鈍い痛みが頭蓋骨に直接響く。
 癪に障る笑い方。無言で睨み返せば、剣崎は鼻を鳴らして
 笑い、そして、銃身へと掴み直した剣崎は間髪入れずに人を殴った。グリップで殴られたのだと気づいたときには遅かった。

「っ、……ぐ……ッ!!」

 ほんの一瞬、衝撃に耐えられず剣崎から目を逸した瞬間、そのまま泥濘んだ地面へと押し倒される。

「っ、こ、ンの野郎……ッ!」
「知りたいんでしょう、俺のこと」

 腕を掴まれ、捻り上げられる。ベルトで両腕を縛られ、しまったと思った次の瞬間、月をバックにしたあの男は緩やかに笑った。そして、暗転。瞬きをしたほんの一瞬で世界は切り替わり、気づけば見知らぬ部屋、その真ん中の椅子に座らされていた。
 体を動かそうとするが、肘置きに縛り付けられた腕と椅子の足と一体化するようにぐるぐるに縛られた体は文字通り縫い付けられたように動かない。
 声を出そうにも、口の中に何かが入ってる。視覚では確認できなかったが、何か猿轡を噛まされてることだけはわかった。
 天井、チカチカと点灯する裸の電球の周りには蛾や羽虫が集まっている。
 泥と埃で汚れたコンクリート。そこには覚えがあった。
 南波の記憶の中で出たあの部屋だ。

 なんで、とかどうしてとか、そんな疑問はここでは通用しない。質素な部屋の奥には頑丈そうな作業台がある。俺にはそれが解剖台のように見えて仕方なかった。
 黒い手袋を手に嵌めた剣崎は、こちらを振り返り、そして背もたれに触れるように覗き込んでくる。

「その顔、アンタもここがなんなのか知ってるんでしょう。……準一サン」
「……っ、……ッ」

 ここは剣崎と南波が死体の処理や拷問に使っていた場所だ。――そして、最上が殺された場所でもある。
 染み込んだ吐き気がするほどの悪臭と、聞こえないはずの悲鳴が聞こえてくるようだった。
 俺の反応に剣崎はふ、と目を細め、そして台上に置かれた何かを手に取るのだ。

「準一さんは痛みには強い方ですか?」
「……」
「俺ね、昔から喧嘩とか弱くて、殴られたらすぐ泣いて親父に怒られてたんですよ。だからかな、我慢強い人見るとすごい憧れちゃって。かっこいいなーって。……どこまでこの我慢は続くんだろうって、気になって気になって仕方ないんです」

 背筋に冷たい汗が滲む。聞いてもいないのに一人で喋る剣崎が気味悪かったし、その言わんとしてる意味が理解できたとき、吐き気がした。ゆっくりとこちらへと歩み寄る。その手には見慣れたものが握られていた。――ニッパーだ。
 それは少し力を加えるだけで、大抵の金属を潰すことやねじ切ることを可能にする道具だ。何故そんなものを、なんて考えなくてもすぐにわかった。

「宗親さんは最後まで我慢強い方でしたよ。……準一さん、あなたはどうなんですかね?」

 期待してますよ、なんて、女を口説くような甘い声で囁く剣崎に吐き気を覚えた。

 この男は、人が死ぬことに罪悪感を覚えないようないかれた犯罪者だ。わかっていた。覚悟していたし、その片鱗を見てきた。
 そして今度は、やつの目の前に自分がいる。そう仕向けたのは俺だし、覚悟もしていた。
 幸い、俺は既に死んでいる。時間稼ぎには適材だろう。

「どうせ自分は死んでるから痛みは感じない。死ぬこともない。そう言いたそうな顔、してますね」
「……ッ」
「それは勘違いですね。体だけじゃなくて心も死にます」

「そして、あの人は心の方が先に死んでしまったからあんなちぐはぐだったんですよ」そう笑いながら指と爪に出来たその僅かな隙間に金属の歯を無理矢理差し込まれた。
 こいつの言葉を聞くな、耳を塞げ、硬く目を瞑って堪えるが、それを愉しむように剣崎はゆっくりと爪を皮膚から剥がしていくのだ。ぶちぶち、と本来ならば聞くことがないはずのその音が聞こえてくる。奥歯を噛み締め、声を殺す。剥がされている。想像するな。強い力で固定された指先から力づくで引っ張られる。想像するな。想像するな。

「っ、ぐ、ッ、ぅ……ッ」
「すみません、本当はもっときれいに剥がせるんですが……久しぶりなもんでつい力加減がうまく行かなかったみたいで」

「余分な皮膚まで剥がしちゃったみたいです」なんて笑って、ニッパーで挟んでいたそれを近くの銀の皿の上に置く。見たくもなかった。手のひらサイズの赤く染まった肉色のそれを。赤く滲む自分の手を。痛みなどない、ないはずなのに、それ以上に自分が怯んでいる。恐怖を殺そうとしても、殺しきれない。剣崎はそんな俺を見てクスクスと笑いながら隣の指を掴む。それだけで、指が震えた。

「……ッ」
「おお、強いですね。……言ってもまだ一本、それも一枚目です。指は合計二十本もあります。次に行きましょうか」

 先程同様、隣の指の爪をニッパーで挟まれる。棚で指をぶつけただけだ、堪えろ。堪えろ。堪えろ。そう念じる、目を瞑る。指から引き剥がされる爪に、皮膚が千切れる音に、やけに涼しくなる指先に、熱く、どんどんと指先に集まる血液の感覚に、どうにかなりそうだった。いや、まだいける。こんなこと、幸喜にやられたときに比べれば。爪を皿の上に追加していく剣崎。その上を確認する気にもなれなかった。それからすぐ、今度は雑談もなしに隣の指をニッパーで挟む。違う、そこは爪ではない。指だ。と目を開いた瞬間。思いっきり剣崎は俺の中指を潰した。第一関節を挟み、無理矢理押し潰す。

「ッ、ぅ、が」

 耳のすぐそばで細い骨の潰れる音、肉が潰れる音が聞こえるようだった。全身に力が入り、拘束を外そうともがくが身動きは取れない。違う、そこは違う。わかっててやってるのだこの男は。一切緩められるどころか更に強く加えられるその力に全身から汗が滲み、噛み締めた奥歯の更に奥から声が漏れる。

「準一さん、あんた骨丈夫っすね。まあ見た目通りですけど。ほら、見てください、まだ頑張ってますよ。これはトンカチじゃないと難しそうだな。肉しか切れない」
「っ、やめ」
「安心してください。ちゃんとトンカチも用意してるんで」

 そう、小振りのハンマーを手にした剣崎はそういって、金属の刃で散々潰され赤黒く変色した指先を捕まえ、狙いを定める。それから、まるで釘を叩くかのように簡単にそこを叩き潰すのだ。
 声にもならなかった。開いた口から獣のような声が漏れる。額から流れるのが汗なのか涙すらもわからなかった。指先から全身に痛みが走り、めの前が赤く点滅する。下腹部に力が入り、爪先が冷たくなるのだ。死んでる。俺は、死んでる。痛くない。痛くない。こんなの、平気だ。へいき。平気なのに。

「っ、う゛、ぐ、ぅあ゛ッ!!」

 何度も念入りに指の形を無くすように潰される。その都度感じないはずの痛みが電流のように流れ、体が痙攣した。違う、痛くはない。痛くないんだ。脳が、錯覚してるだけだ。見るな。見るな。叩かれるハンマー。潰れる指先が邪魔して潰れる音しか聞こえないそれがやがて何も聞こえなくなったとき、俺は目を開いて自分の手を確認することもできなかった。あった場所の指先は擦り切れ、叩き潰され、そこには革に磨り潰されたような肉片と血で汚れていた。

 ……大丈夫だ、俺は、死なない。
 南波さん、南波さんも、死なない。

「……強情っすねえ、あんたも。でもま、そうやってる方がまだ可愛げがあっていいですよ。まあ、自分は宗親さんと違って優しくないので貴方を生かすつもりは毛頭ありませんが」

 何度目かもわからない、どこの爪を剥がされたのかも分からない。唇の奥、声が漏れる。痛みも、恐怖も、恐らく限界を越えている。でも俺はまだこうして生きてる。心までは、死んでない。
 これから、剣崎は着実に俺を殺しにかかってくるだろう。爪から始まって指先、手足、腹、頭、そして心臓。そこまでやられてしまえば、流石に俺も残っていられる自信はない。南波を待つ。けれど、俺が死んだら、南波が死んだら、意味はない。

「……っ、なぁ……」
「はい?」
「お前……ヤクザのくせにちまちまと、せこいやつだよな……拘束してなきゃ怖いのかよ、ヘタレ野郎」

 今の俺はうまく笑えているだろうか。強張った表情筋、涙で乾いた頬が動けているかすらよくわからないが、確かに剣崎の目の色が変わるのを見て俺は内心息を飲む。

 これは最後の賭けだった。
 そして、釣れた。その手応えは確かにあった。


 List 
bookmark
←back