08
やっぱり、余計なことをするのではなかった。
部屋に戻ってきた俺はずっと後悔していた。
南波の様子がおかしくなってから、まだ会えていない。けれど、これでもし南波の身になにかがあればと思うと気が気ではなかった。
霊体になった南波は記憶がなかった。そんな南波が自己形成して今までずっと忘れてきていたもの。そして、その鍵である6月23日……恐らく南波の命日となった日。
死んだときのことなんて思い出したくもないはずだ。けれど、あのカメラがなんでそれを読み取ったのか。或いは指輪があったあの場所に何か隠されているのか。
「あーッ、くそ、わかんねえ……」
「何が?」
「何がって、そりゃ……色々……って、うおッ!!」
当たり前のように人の独り言に割って入ってきた幸喜は、飛び起きる俺を見て「やっほー」と手をヒラヒラさせる。
「やっほーって……じゃなくて、勝手に入ってくんなよ!し、心臓に悪いんだよ……」
「それより、何やら悩んでるみたいだねえ準一。お兄さんが相談に乗ってやろうか?」
なにがお兄さんだ、こういうときばかり年上アピールしやがって。「いいから出ていけよ」と睨みつけるが、知ったこっちゃないと言わんばかりに幸喜は床にどっこいしょと座り出す。
「おい!腰を落ち着かせるのやめろ!」
そう、やつのフードを掴もうとすれば、伸ばした手首を逆に取られる。
食い込む細い指の感触に、汗が滲む。腕を引っ張り、俺を引き寄せた幸喜は顔を近づけてきた。
「南波さんの様子がおかしいの、準一の仕業だろ?」
そして、そう一言。大きな双眼は俺を真っ直ぐに見据える。
その言葉の意味は、すぐに理解できた。と、同時に、なんでこいつが、という疑問が沸く。
「さっき南波さんと会ったんだけど、なんかブツブツ言って俺にも無反応なのよ。そんなことするのってあの根暗だけじゃん?南波さんはこんなこと今までなかったし、どうしたのかなーって思ったけどやっぱ原因と言えば準一しかいないじゃん?んで、準一の様子見に来たら案の定こっちもこっちで様子おかしいし?」
「っ、それは……」
言いがかりもいいところな雑な推理だが、実際俺が原因で合ってるだけになにも言い返せない。
「……原因といえば俺って、なんだよ」
「だって、アンタがきてから変なことばっか起きるじゃん」
にっこりと笑う幸喜。やつが先日の義人ことを言ってるというのは、その嫌味な言い方ですぐに分かった。
確かに、この屋敷にきて色々あったが、それを言いたいのはこちらの台詞だ。
言い返したいところだが、そんなことでムキになったところで幸喜の思うツボだ。「そりゃ悪かったな」とそっぽ向けば、顎を掴まれすぐに幸喜の方を向かされる。
「な、おい、離せよ……」
「離してほしけりゃ、俺の手砕いて逃げればいいじゃん」
「……お前に構ってる暇ないんだよ」
「ゴロゴロしてうんうん唸ってただけでしょ」
「……っ、なんだよ、さっきから言わせておけば……俺に嫌がらせしにきたのか?それなら後にしてくれ」
「…………うーん、違うなぁ」
「……なっ、なんだよ……人の顔見て首捻るのやめろよ……」
失礼にも程がある。カチンと来たが、幸喜はあっさりと俺から手を離した。そして、ボリボリと髪を掻き上げる。
「えーとね、少しは俺にも相談してくれてもいいんじゃない?……って言いたかったんだけど、伝わんなかった?」
「は?」
「ちょっと、は?はないでしょ。花鶏さんには色々頼るくせにさぁ、なんか、ずっと俺の顔見たら避けるじゃん準一。そういうのって、俺、結構傷つくんだけどなー?」
「…………」
わざわざ部屋に来るからなんだと思えば、そんなことを言い出す幸喜に、正直、出鼻を挫かれたような気分だった。
というか、よくそんなことを言えたな。人の腕もいで、頭蓋骨叩き割ったやつが。そう言い返したいのに、幸喜も幸喜なりに俺のことを気にしてくれたのかと思うと、悪い気持ちはしなかった。俺も、相当単純なのだろう。これでは藤也にお人好しの単細胞と言われても仕方ないと思うが、あの幸喜が、と思うと、無碍にすることができなかった。
「……あれ、なにその顔」
「や……その、驚いて……お前がそういう風に言ってくれたの初めてな気がして……」
「そう?俺わりと素直な方だと思うんだけど?準一がちゃんと俺の話聞いてなかったからじゃないわけ?」
「うぐ……っ」
「ははっ、図星だ」
そう年相応に笑う幸喜を見ると、分からなくなる。けれど、以前までとは違う、幸喜のことを知った今だからこそなのかもしれない。得体の知れないやつから、得体は知れたがやっぱり不気味なやつに変わったのも事実だ。
「それで、何があったんだよ」
そう、ずい、と身を寄せてくる幸喜に、俺は条件反射で一歩下がる。そして、
「……………………言わない」
「…………は?なんで?おかしくない?今の流れで言わないのおかしくない?」
「お前口軽そうだし、今回はデリケートな問題だし……」
「なんだよそれ、花鶏さんにはなんか相談してたじゃん!それなのに俺は口がゆるゆるのガバガバ野郎だからだめって?なにそれ、この屋敷一口が硬い俺を信用できないとか準一男見る目なさすぎ!」
「……っ、絶対言ったところで邪魔しかしねーだろ!この前だって…………」
そう、言い掛けて思い出す。そうだ、こいつの雰囲気に流されそうになっていたがこの前だって仲吉たちに接触して余計なことをしたんだ。こいつは。
危ない、危うく絆されそうになっていた。
「この前だって仲吉に手を出しやがって!」
「いいじゃん、俺が誰と何しようが、それに仲吉だって喜んでただろ?」
「そういう問題じゃ……」
ねーだろ、と言い掛けたときだ。
「準一さん!!」
部屋の扉が開き、血相を変えた奈都が現れた。
なんつータイミングの悪さだろうか。
幸喜と取っ組み合いになっていた俺を見て、奈都の目の色が変わるのを見てしまった俺は機能していないはずの胃が痛むのを感じた。
「な、にを……」
してるんですか、と告げる奈都の表情は恐ろしいほど冷えていた。部屋の空気が一度下がったような気がした。
咄嗟に俺は、幸喜を引き剥がす。「いや、別に何も」と誤魔化そうとしたとき、幸喜に後頭部を掴まれる。そして。
「んむ……ッ」
唇に柔らかい感触が触れる。ちゅっ、とリップ音を立て、幸喜は唇を離した。
「見てわかんないの?お取り込み中なんだよ」
「なんなら混ざる?」と凶悪な笑みを浮かべる幸喜に、俺は、言葉を失う。またコイツは、人で遊ぶのに飽きたから奈都にまでちょっかいかける気か。
胃の辺りがキリキリと痛むようだった。頭が割れるように痛んだが、流血せずに済んだのはそれどころではないという意識があったからだろう。
「いい加減にしろ……ッ」
そう、幸喜を突き飛ばそうとした矢先だった。
「お前……ッ!!」
それよりも先に、奈都が幸喜の胸倉を掴む。
喧嘩だ、と思った矢先、間髪入れずに奈都が幸喜をぶん殴る。が、瞬きした瞬間には幸喜がいた箇所には藁のカカシが鎮座していた。
どこに消えやがった、と辺りを見渡せば、扉の向こう、そこに幸喜は立っていた。
「奈都じゃあ俺には敵わないって、無理無理、とろすぎんだよ、もっと頑張んないと王子様にはなれないよ?」
そうクスクスと笑う幸喜。
やつは「南波さんの様子でも見てこようかな」と言い残すなりそのまま霧のように消えた。
奈都が追いかけそうだったが、引き止める。
南波さんのことが気になったが、奈都の怒りの沸点低さは熟知してるつもりだ。
「……準一さん、あいつ……」
なんで引き止めるんだ、と言いたげな奈都の目。
俺は「それよりも」と強引に会話を変える。
「どうしたんだよ。……何か、俺に用があったんだよな」
流石にあんな場面を見られてシラフでいるのはキツかったが、いつまでも引き摺るわけにもいかない。唇を拭いながらそう聞き返せば、奈都の頭にのぼった血も引いたようだ。
「……実は」と、切り出す奈都。
「先程南波さんが戻ってきたんですが、様子がおかしくて……」
「…………ッ!本当か!?」
「はい……僕も最初、信じられなかったんですけど、その……」
「今、どこにいるんだ?」
そういや、幸喜も南波のところに行くと言っていた。
まずい、こんな状況で幸喜に会わせるのは避けたかった。
「一応、僕が見かけたときは食堂に向かっていたんですが……」
「食堂だな?わかった!」
「あっ、準一さん!」
こうしてはいられない。
俺は、食堂まで瞬間移動する。奈都が何か言いかけていたが、つい聞きそびれてしまった。
気にはなったが、今は南波のところに行こう。
食堂の扉を開いたときと、それが飛んできたのはほぼ同時だった。
「ぅ、おわッ!!!」
目の前、吹っ飛んでくるそれを認識するよりも先に、受け止めることができずにそのまま廊下に尻餅をついた。
何事だと顔を上げれば、そこにいたのは幸喜だった。
あいたたた、と呻く幸喜は起き上がる。なんで幸喜が、と思ったときだ、目の前、佇む陰が一つ。
「逃げてんじゃねえぞ、クソガキ」
眩しいほどの金髪に、シルバーアクセサリー。そして、真っ青なシャツ。
南波は、俺の上にいた幸喜の胸ぐらを掴み、まるでぬいぐるみでも手にしたかのように軽々と持ち上げる。そして、壁に向かって叩きつけた。鈍い音が響く。何かが叩き潰れるような音ともに、壁に、赤い染みが滲む。ずるりと力なく落ちる幸喜に、俺は、声を失った。
幸喜も幸喜だ、いつもならひょいひょい逃げるくせに、なんで。まさか、死んだふりか?わざとか?そう思った矢先だった、南波がこちらを振り向いた。
否、南波、なのか。いつもの真っ赤なシャツとは違う。真っ青なシャツには見覚えがある。写真の中の男だ。
それに、いつもの南波だったら俺の姿を見るだけで怯えて逃げ出すはずだ。それなのに。
すぐ目の前、座り込んだまま動かない俺をじっと睨む南波に、俺はその場から動けなかった。
「南波、さん……」
汗が滲む。なんだろうか、よく見知った顔のはずなのに、目の前にいる男は纏う空気が違う。得体の知れない威圧感に、声が掠れた。
南波の顔をしたその男は、俺のすぐ横、その壁を思いっきり蹴り上げる。響く音に、肩が震えた。
「用がねーなら退け、邪魔なんだよ」
そう吐き捨て、俺の横を通り抜けていく南波。
南波だけど、南波ではない。俺を見て、眉一つ動かさない南波を見て確信した。
南波の男嫌いが治ってるどころか、俺の記憶までなくなっている。
その人物をその人たらしめるもの。
見た目?性格?それともその立場?
或いは、それら全てが揃ってこそ、その人と認めることができるのか。
それならもし、その内でも一つでも欠けてしまったら?
中身もまるで別人で、記憶もない。そんな人物をその人本人と認めることができるのだろうか。
「邪魔だ、退け」
「っ、ぉわ……ッ」
まるで別人のような南波は、俺に対しても同じだった。
以前のような怯えの色もなく、それどころか突き飛ばされそうになり、俺は咄嗟に南波を避けた。
あの人は、俺が触れるだけでも縮み上がっていた。
なのに、今の南波は、指先が掠ろうがお構いなし。特に気にする素振りを見せることなくさっさと食堂を出ていく。
俺はというと、暫く南波の後ろ姿を呆然と見つめることしかできなかった。
「ま、じかよ……」
南波であって、南波ではない。俺の記憶の中の南波とは、顔貌しか一致しない。
何が起こってるのかわからない。けど、表情や振る舞いからして、以前の南波とまるで正反対だ。
記憶が、なくなった?
とはいえ、傲慢不遜なその態度は以前の南波でも伺えた。とすると、男アレルギーが出る前の南波が現れた、ということか。
自分で考えて、余計わからなくなってくる。
「……おい、いつまで寝てるんだよ」
一人で考えても埒が空かない。
俺は、床の上、伸びたフリをする幸喜に声を掛ける。
やつは、待ってましたと言わんばかりに何事もなかったかのようにむくりと起き上がった。
「あはっ、俺のことを心配してくれるなんて準一ってば俺のこと超好きだよね」
「別に心配してねえよ」
「またまたーそんなこと言っちゃって、ドキッとしてたの俺分かったんだからね」
「…………」
幸喜は相変わらずだ。ご丁寧に血糊でベタベタ顔を汚していた幸喜はニコニコと笑いながらそれを拭う。
「それにしても南波さん、ずいぶんと元気になったね。あんな活きのいい南波さん、初めて見たかも」
「……あれは、どういうことだ?お前、なんか言ったのか?」
「言いがかりだよ、別に俺は何もしてないし。……今回に関してはね」
意味深な笑み。自分がトラブルメーカーという自覚はあるらしい。なにをそんなに自信ありげにしてるのか、なんとなく不愉快ではあるが一々引っかかったところでこいつが喜ぶだけだ。
押し黙っていると、幸喜はふっと笑みを消した。
「戻ってきたときからあんな調子みたいだよ。……まるで、南波さんじゃないみたいだ」
「……それは……」
「だって今の南波さん、活きはいいけど反応悪くてつまらないんだもん」
南波ではないみたい。
その言葉に、ひやりと背筋に冷たいものが走る。
「……それって……」
「準一見ても逃げ出さなかったしね。……記憶がなくなったというよりも、別のものにすり替わった、或いは何かが切っ掛けで死ぬ前の記憶に戻ったとか、ない話じゃないしね」
生前の記憶が戻った。
その幸喜の言葉に、パチリと音を立て、抜けていたピースが嵌ったような気がした。
同時に、最後南波さんと会話したときのことを思い出した。『6月23日』……やはり、あの日付が原因なのだろう。
そう思うと酷く気が滅入るようだった。俺のせいで、いや、恐怖症がなくなったのならそれはいいことではないのだろうか。……わからない、わからないが、とても嫌な予感がする。
「まあ、こういう面倒なことは花鶏さんのが詳しいだろうしお任せするかな、俺はもうちょっと南波さんと遊んでこよーっと」
「あ、おい……幸喜!」
何を言い出すのかと、俺が咄嗟に呼び止めるよりも先に幸喜は音もなく姿を消した。
あいつ、行きやがった。
一人食堂に残された俺。このまま南波と幸喜をまた対面させるのは危険だと感じた俺は、舌打ち混じり、南波が立ち去った方角へと足を向かわせた。
幸い、南波はテレポートを使っていない。否、もしかしたら使えないのかもしれない。
すぐに南波の後ろ姿を見つけることに成功する。幸喜はまだ来ていないらしい。ほっとするが、俺の足音に気付いた南波はこちらを振り返る。
暗闇でも映える、眩しいほどの金髪。真っ青なシャツ。そして、全身から滲み出るのは敵対心、というよりも、殺気に近い、ドス黒い感情。
「さっきの野郎か。……人のケツ付け回してなんの用だ?」
いきなり殴り飛ばすほどの凶暴なやつではないだけ安心したが、それでも、有無を言わせない低い声に全身が強張る。
……俺は、今までの南波のイメージからしてヘタレなんだなと思っていたが、まさかここまで印象が変わるとは思っていなかった。油断した隙に喉元を食い千切られそなほどの張り詰めた空気の中、俺は「あの」と声を絞り出した。
「……あなたはなんで、ここにいるんですか」
黙っていたら呑まれる。
それだけは避けたくて、俺は、咄嗟にそんなことを口にしていた。南波は、目を細める。短い眉を潜め、何を言ってるんだこいつは、と訝しげな色を滲ませた。
「お前には関係ねえだろ」
真正面から俺を睨むその目は、獣のそれだ。隠しきれていなかった敵意が溢れ出す。警戒心が増す。南波が一歩こちらに足を踏み出した瞬間、止まっているはずの心臓が反応しそうになるのがわかった。
「それともなんだ、お前の仕業か?……俺をこんな場所に連れてきたのは」
いつも丸まっていた背中はピンと伸び、長身の影が俺を見下ろす。冷や汗が滲む。気質ではないのは知っていたが、それでも醸し出す雰囲気は本業のその連中と同じだ。
逃げるよりも先に、伸びてきた手に胸倉を掴まれる。強い力に首を締められ、咄嗟に俺は南波の手を掴んだ。
「……見ねえ顔だな。誰の差金だ?さっきのガキもお前の仲間か。俺をこんなところに閉じ込めてただで済むと思ってんじゃねえだろうな」
誰と勘違いしてるのか、額と額がぶつかる音がする。鼻先までもぶつかりそうになり、思わず怯む。が、やつは俺から目を逸らさない。同様、俺も目を反らすことはできなかった。
至近距離。スラックスのポケットに手を突っ込む南波。底から何かを取り出したやつに、ぎょっとした。
薄暗い建物の中。黒光りする物体の特徴的なシルエットはすぐにわかった。テレビや映画では何度も見てきたそれは拳銃だ。けれど、本物を見たことはない。
というか、待ってくれ、どうしてそんなものが。と、凍りつく俺の額にその銃口を押し当てられた。ごりっと骨が擦れる音がして、今度こそ石のように動けなくなる。
「なんだ、口が利けねえのか。それとも、ここの風通し良くされてえのか?……どっちだ」
この人は、もしかして、自分が死んだということも気付いていないだけではなく、尚且つ霊体としての特技も活かすつもりなのだろうか。
金属特有の重く、冷たいその感触に俺は何度目かの死を覚悟する。
「っ、待……って下さい」
堪らず声が裏返りそうになる。
当たり前だ。今まで面倒な人間に絡まれてきたことが比較的多い俺でもいくらなんでも、こうして他人に銃を突きつけられることはなかった。動揺するなという方が無理な話だ。
冷たい南波の目、時計の針が進む音が聞こえてくる。想像してはならないが、明確に脳裏に浮かぶのだ、この男に脳天を吹っ飛ばされる図が。
どうすれば、どうすればいい。自問自答。俺は、考えるよりも先に両手を顔の横にあげる。……降参のポーズだった。
「……本当に、俺は南波さんにどうこうするつもりはないです」
「じゃあなんで俺の名前を知ってるんだよ」
「……っそれは……」
少しでも言い澱めば、南波の引き金にかけた指が動く。それを思いっきり引かれるよりも先に、俺は「南波さんは」と声を出した。自分でも何を言おうとしていたのかわからないが、このまま黙っていては本当に面倒だと思ったのだ。
この人は記憶がない。ここにいる理由すらもわからない。
そして、死んだということも気付いていない。
どこから言えばいいのか、どうすればいいのか、考える暇もない。
「南波さんは、俺は、俺たちは、もう死んでるんです」
俺が言い終わるよりも先に、音が消える。視界が色を無くす。感覚もなかった。が、弾ける赤い血が、自分の頭から出てることに気付いたときには遅かった。
この男は容赦なく引き金を引いた。体が落ちる。痛みはない。けれど、遠くに自分の体の一部が落ちるのを見て体が震える。頭から溢れる血が視界を染め上げる。それを止めようと手を伸ばせば、南波の顔が引きつった。
「……っ、なんで……」
化物が、と確かに南波の顔に動揺の色が滲む。
これなら、少しは話を聞いてくれるだろうか、なんて、俺も俺で脳味噌吹き飛ばされたせいで物事を考えられなくなってるらしい。「南波さん」と名前を呼ぶよりも先に、二発目を残った右目部分に打ち込まれ、視界は完全に奪われる。痛みがないことはまだましだと思っていたが、体の中に鉛弾を捩じ込まれる感覚は気持ちいいものではない。
バランスを崩して倒れる体、その上に、腹部に靴の感触を感じた。思いっきり腹を踏みつけられ、そして、もう一発。今度は心臓の辺りだ。自分がどのようなことになってるのか、視界を潰された今わからない。
そして四発目。どこが吹き飛んだのかもわからなかった。わからなくていいと思う。
多分、見えていたら俺は今度こそどうにかなってしまいそうだった。
硝煙の臭いに混ざって濃厚な血の臭いと、そして南波の息遣い、罵倒が響く。
ガチャガチャと何度も引き金を引こうとする音が聞こえたが、出ない。恐らく、予め装着されてた弾を撃ってしまったのだろう。舌打ち混じり、俺の体を蹴り、南波は俺の上から退いた。
俺は、元の姿を思い出す。毎朝起きては嫌ってほど見てきた鏡に写った自分の面。拳銃で吹き飛ばされるのは、思ったよりも死に方としては楽だった。そう感じたのは俺が映画等を見て銃殺によるイメージから抱いたものからだろうが、実際に撃たれたことがないからこそ、死に際はあっさりとしていたのだ。もちろん、幸喜のアホに殺されるよりは、の話だが。
視界に色が戻る、手が動く、起き上がろうとすれば、立ち去ろうとしていた南波がこちらを振り返った。恐らくさっきまでは血の海だったそこに一滴の血すら落ちてない。立ち上がる俺を見て、南波は「冗談だろ」と息を吐き出すようにして、拳銃を構える。そして、もう弾が入ってないことに気づいたのだろう。俺は、拳銃を手にした南波の手を掴んだ。
振り払われそうになるが、それでも力づくで腕を下げさせれば、南波は俺を睨む。こんな形で南波にこんなに近づく事になるとは思わなかった。
「……南波さん、これでもまだ信じられないですか」
一か八かだった。俺は、南波から銃を取り上げる。ずしりとした重さ、ひんやりとした感触。少しでも力を抜いたら落としてしまいそうになるそれを握り締め、そしてそれをやつの額に押し当てた。
「バカが、そいつはもう……」
弾切れだ、と笑う南波に向けて、引き金を引いた。撃ち方なんて見様見真似だった。それでも、腕全体に衝撃が走る。ドン、と空気が揺れる。まばたきをしたほんの一瞬、部屋が真っ赤に染まった。
やり返したかったわけではないが、言葉で言っても通じない相手には『これ』が一番手っ取り早いと思ったのだ。
我ながら、毒されてると思う。けれど、これ以上この男に殺されては堪らない。
脳漿を撒き散らし、顔上半分を失った南波の体は倒れる。青いシャツは黒く染まり、吐き気を催すほどの濃厚な臭気に俺は鼻で息をするのをやめた。
そして、倒れていた南波の体は起き上がる。血が蠢き、肉片が傷口に吸い込まれるように失った部分が形を取り戻していく。
「……冗談だろ」
これが冗談ならば、それは俺が死んでからずっと思ってきたことだった。
何事もなかったかのように元通りになった南波に、その適応力に、俺は、少しだけぞっとした。やつの口元には、不気味な笑みが浮かんでいた。
←back