短編


 06※

 翌日。アツは帰ってこなかった。
 別に珍しいことではないとわかっていたが、前回傷だらけで帰ってきたときのことを思い出して気が気ではなかったのだ。俺は煙草を買いに行くついでに、と言い訳をしながら夜の街へと出た。

 夜というよりも既に朝日が登り始めていた街は始発を待つ人間がちらほらいるくらいで、酷く静かだ。
 ひんやりと指すような夜風に身震いしながら、俺は何気なく街を歩いていた。
 アツがどこにいるかなんてわかるはずもないのに、宛もなくぶらつくのだ。つくづく自分の無計画さに呆れていた。

 もちろんこの広い街でそうそう目当ての人物を見つけることなんてできなかった。ましてや、アツがどこで遊んでるのかもわからない。
 本調子でない体も疲れてきて、結局俺はコンビニでタバコだけ買ってそのまま帰ろうとしたときだった。

 コンビニを出たとき、向かい側からやってくる見覚えのある人影。

「亘くん?」

 昔と変わらない小柄な体格に女の子特有の甘い声。
 そこには高校二年のときの元カノである美和がいた。
 つい最近見かけたばかりだが、こうしてちゃんと面と面合わせるのはすごい久しぶりだ。
 とはいえ、付き合ってたのも二ヶ月くらいだし別れてからは自然と疎遠になったし……。
 てか。

「久しぶりだな、美和」
「やっぱ亘くんだよね。うそ、帰ってきてたんだ」
「夏休みの間だけね。もうそろそろ戻るつもりだよ」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
「そうだったのか?アツから聞かなかったんだ」

 特に何も考えずに恋人であろう弟の名前を出してみれば、美和の表情が「え」と強張った。

「……なに?亘くん、知ってたの?」
「まあ、噂でちらっとな」

 やっぱりあんま触れない方がよかったのかな、と思ったが気になっていたし俺がコソコソするのも変な感じがしたのであくまでいつも通り接してみることにする。
 アツの名前を出した途端美和の表情が緊張し、なんだか落ち着かない様子だ。

「……あ、別に俺は気にしてないんだけど……そうだ、あいつ気難しい性格だろ?ちゃんと仲良くできてんの?」
「……うん、まあ……」
「なんかあったのか?」

 美和の歯切れの悪さからしてうまく行ってなさそうなのは一目瞭然だ。
 ……昨日アツに抱かれたばかりの俺が心配するのも変な話ではあるが。
 美和は辺りをちらちらと見渡し、そして「ねえ、亘くん」と顔を寄せてきた。普段は高めのその猫なで声も、自然と声のトーンも落ちる。

「……アツ君って、家でおかしなところとかない?」
「え?」

 美和から尋ねられ、思わず間抜けな声が出てしまう。
 おかしなところ、と言われればおかしなところしかないのだが、まさかどれのことを言ってるのかと変な汗が滲んだ。

「おかしなって……あいつ確かに変わり者だけど……どうかしたのか?」
「なんか最近冷たいし、前まで優しかった……わけじゃないけどそれでも付き合いもよかったのに最近素っ気なくて。……聞いたら他所で遊び回ってる風でもないし……その、家に別の子連れ込んでるとか……」
「んー……ああ、なるほどねー……」

 思わず手を叩いてしまいそうになる。
 ……浮気を疑ってるわけね。
 正直、俺は嫌なくらい心当たりがあった。……いや、まさかな、いくらブラコンとはいえ……美和のようなかわいい彼女よりも俺を優先させるようなこと……ありそうなんだよな、あいつなら。

「なるほどって、もしかして……」
「違う違う、俺が家にいる限りそういうのは見たことねえけど……あいつの場合気分ですぐコロコロ変わるからあんま気にするなって」
「……本当に?」
「本当本当。すぐにあいつも元通りに戻るよ。だからお前も今は好きなことしとけばいいんだって」
「……うん」

 ようやく納得したのか、美和は弱々しく頷いた。
 ……なんで俺がこんな二人の仲を保たせようとする役割になってんのだろうか。甚だ疑問ではあるが、やはり可愛い女の子が悲しんでるのはあまり見たくない。
 けれど、ちゃんと美和がアツのこと好きで安心した。兄離れして彼女できなかったらどうしようなんて心配をしていたのが遥か昔のようにすら思える。
 そうだ、俺が帰れば元通りになるのだ。

「美和もなんか用事あったんだろ?呼び止めて悪かったな」
「ううん、どうせ暇だったし全然平気。それよりも、アツに会ったらちゃんと電話って言っててね」
「……はーいよ、了解」

 なんて手を振りあって美和と別れる。
 それにしても、寿命十年くらい縮んだんじゃないか?なるべく表に出さないようにしていたつもりだが、前髪の下、額に汗が滲んでるのを掌で拭う。
 ……こんな緊張は浮気現場見られたとき以来だな。なんて思いながら、俺は買ったタバコを開け、一服して家へと帰ろうとする。
 それにしても美和、ちゃんと成長してたな。前も可愛かったが、いいところは残したまま成長してたっていうか……あーあ、アツの彼女じゃなければな。
 なんて邪なことを考えながらタバコを灰皿に押し付け、そのまま捨てる。
 いい感じに時間も潰せたので目的は果たせなかったけどこのまま帰るかと残ったタバコの箱をポケットに捩じ込み歩き出す。夜の空気はどこか湿気を孕んでいて重たい。
 アツは俺が喫煙してると嫌な顔をするのであまり家で吸わないようにしているのだが、考え事してるとやはり口が寂しくなるから仕方ない。
 いつの日か俺が先輩からもらったタバコ吸ってるの見た中学生だったアツがそれを取り上げて「体に悪いからやめろ」ってキレ散らかしていたのを思い出す。
 あのときのアツは見たことのない顔をしていた。子供の癇癪とは違う。周りよりも少し早かった成長期の最中、顔つきが少年から青年へと変わるその中間。感情のない、それでいて押し殺したような目。

「美和と何を話してた?」

 ……そう、あの日もこんな目をしていた。
 閑静な住宅街。切れかかった街頭がチカチカと頭上を照らす。その灯りによりアツの顔にかかった陰が更に濃くなっていた。

「……アツ……?」

 このタイミング、この場所。どこから見ていたのか、聞いていたのか、なんでここにいるのか、色々疑問は湧いたが、目の前のアツの纏う空気に俺は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 空気が、おかしい。それを肌で感じたからだ。
 本能、シックスセンス、この際言い方なんてどうでもいい。
 やばい、そう数多の修羅場を潜ってきた俺の本能が警笛を鳴らす。

 あー、もしかしてこれって結構修羅場……なのか?なんとなくただ事ではない雰囲気をアツから感じた俺は、慌てて手を上げた。

「何って、何も……普通に世間話だって。ほら、美和のやつ、前も可愛かったけどまた可愛くなったなーなんて……」

 あくまで友好的に、明るく、そう思えば思うほど余計なことを言ってしまって後悔する。
 そうだ、元カノとは言えど今アツの彼女だ。兄弟であろうが、何度か寝てろうが、アツからしてみればそれは変わらない。

「……あの、勘違いするなよ?別に寄り戻そうとか思ってるわけじゃないから……っ、ておい、アツっ、待っ……」

 伸びてきた腕に肩を掴まれる。
 筋肉質な腕はガッチリと首に嵌り、逃れようとしても逃れられない。力づくで路地に押し込まれ、流石にやばいと思った俺は慌ててアツの腕を引き剥がそうと爪を立てるが、離れない。
 それどころか、こちらを睨むアツに胸倉を掴まれ、そのまま乱暴に汚れたコンクリの壁に押し付けられた。
 ごり、と後頭部に固いものが当たる。痛い、なんて言ってる場合ではない。

「っ、ん、ぅッ」

 当たり前のように口を塞がれ、ギョッとする。
 いくら人通りがないと言ってもだ、外でこんなことされるとは思ってもなくて。

「っ、ふ、んぅ、ぐ……っ」

 ぬるりとしたものが唇に触れた瞬間、俺は耐えられずにその舌に思いっきり歯を立てた。
 ガリッと音がして、口の中に血の味が広がる。薄暗い場所だ、こちらを見下ろすアツの表情まではわからなかったが、唇は離れてくれた。
 そして。

「……あの女に近付くんじゃねえ」

 ゾッとするほどの低い声。
 口の中いっぱいに広がる鉄の味。あの女が誰の声を指すのかわかった。だから俺は今度は慎重に、茶化さないように返した。この男を下手に刺激しないように、慎重にだ。

「わかった、悪かったって。もう近付かない。別に俺はお前と美和を別れさせるつもりも邪魔するつもりもないから……っ」

 だから、そんなに怒るなよ。そう言いかけた言葉を飲み込んだ。見開かれた目、まるで信じられないようなものを見るかのようなそんな顔でアツが俺を見るからだ。

「……は?」

 やべえ、俺、またなんか言ったのか。

「お前、何言ってんの?」
「何って、俺は……」
「俺、あいつと付き合ってねーから」

 それは当たり前のように、なんの感情もこもってない声でただアツは静かに続けた。
 その言葉に、俺は一瞬耳を疑った。

「でも、美和が」
「あの女が勝手に言い触らしてるだけだろ。一度寝ただけで彼女ヅラしてうぜーんだよ。セックスしか能がないバカ女が」

 そう口汚く吐き捨てるアツに、俺は言葉を失った。
 ショックだとか悲しいとかそんな感情ではない、本来ならば怒らないといけないのだろう。別れたとはいえ元カノだし、後輩だし、美和は美和なりにアツのことを思っていた。
 けれど、同時にアツの言葉を聞いて腑に落ちた。自分の胸の奥にあった違和感が姿を現したような、そんな感覚だ。

「なら、なんで寝た?」
「……っ!」
「そう言いたいんだろ、お前」
「わかってるんなら……」
「……兄貴が好きになったやつだったから」

「だから、試しに寝た」どんなもんかと思って、なんて悪びれた色もなく言い放つ実弟に、俺は、今度こそ言葉を失った。
 そんな理由で、好きでもない女と付き合うのか、こいつは。
 別に、アツも男だ。誰と遊ぼうが俺には止める資格はないし一晩だけの相手を欲する気持ちも俺にはわかる。けれど、問題はその理由だ。

「お前……ッ」
「別に美和だけじゃねえよ」
「へ」
「……アンタさぁ、まじでろくな女と付き合ってきてねえな。馬鹿かビッチか顔だけの性悪、よくこんなんと付き合おうと思えたのかすら謎だわ」

「セックス馬鹿同士だから気があったんだろうな、お前と」息が、詰まりそうだった。
 ショックとかそんなもんじゃない、実弟が得体の知れない怪物に見えた。
 こんなこと普通じゃない。冗談にしては笑えない。
 凍りつく表情筋を無理矢理動かして俺は、「嘘だろ」と口にした。笑えるわけがない。そんなステキな告白を前に笑えるか。

「俺を捨ててまであんなクソみたいなやつら優先させたお前の頭を疑うよ。……お前、まじで女の趣味最悪だな」  
「っ、いい加減にしろ、お前、自分で何言ってんのかわかってんのか?そんな嘘……」
「……嘘だと思うのか?だとしたら、お前散々兄貴ヅラしといて俺のこと全然わかってねえな」

 冷めた目に、見たことのない笑みに体の奥底から冷えていく感覚に襲われる。
 そして、取り出した携帯端末。それを操作したアツは俺に向かってそれを投げて寄越した。
 落としそうになり、咄嗟にそれを受け止める。「見ろよ」と視線で促してくるアツに、俺はその画面に目を向け、凍り付いた。
 見覚えのある裸の女がカメラに向かってピースをしてるのを見て、血の気が引いた。横にスライドすれば、また違うタイプの、それもよく知った女が写ってる。
 髪型は違えど、見間違えるはずがない。……だって、俺が付き合ってきた彼女たちだ。

「疑り深いアンタのために全員分残してやったんだ」

 感謝しろよ、と言わんばかりのその言葉に、俺は、自分が悪い夢でも見てるような気分だった。
 寧ろそっちの方が幾倍もマシだ。
 おかしいとは思っていた。けれど、それだけのためにここまでするやつがいるか。いくら兄弟のことが気になるからと言って俺だったらアツの彼女を寝取るような真似はしない。それも、好きではないタイプなら尚更だ。

「っ、あ……頭おかしいじゃないのか……嫌がらせかよ、こんなこと……っ!」
「……ああそうだよ。この先お前が他のやつ選ぶんならそいつら全部確かめてやるよ」
「……っは……」
「いい加減気付けよ、あいつら全員お前のことなんて好きになっちゃいねえよ」

「お前みてえなどうしようもねえ甲斐性なしの淫乱野郎、本気になるわけないだろ」アツの言葉は下手なパンチよりも効く。それも殺人級。
 手の中から携帯端末が落ちる。アツはそれを拾うこともしなかった。俺は、何も言い返す気力もなかった。
 こいつは俺と決定的に違う。根本的な何かを履き違えてる。同じ血を分けど、一生分かり合えない。それを理解してしまった瞬間、目の前が真っ暗になった。

「……亘」

 伸びてきた手に頬を撫でられそうになり、俺はそれを振り払った。乾いた音が響く。傷ついたような顔をしたアツに、俺は息を飲む。惑わされるな、この男は俺の知ってるアツではない。

「ッ、離せ、この……ッ」

 逃げたかった。こいつから、このままでは本当にどうにかなってしまいそうだった。「亘」と名前を呼ばれ、背筋に汗が流れる。それを無視して俺はアツを突き飛ばし、路地から抜け出そうとし……腕を掴まれた。食い込む指は離れない。咄嗟に近くの柵を掴もうとするが、届かなかった。

「っ、く……そ……っ」

 視界が暗転する。思いっきり地面に投げ出される体。歩み寄ってくるアツの影に手足が痺れたみたいに震えだす。
 砂利を踏む音、揺れる影に、呼吸が浅くなる。倒れる俺の目の前、座り込んだアツは俺の前髪を掴んだ。そして、無理矢理顔を上げさせられる。

「……なんでわかんねえんだよ、お前には俺しかいねえだろ」
「っ、馬鹿じゃねえの、こんなことまでして……っおかしいよ、お前……まじで……ッ!」
「だったらなんだよ。最初に手を出してきたのはアンタだろ」
「っ、そ、れは……っ、ぐッ!」

 頭を掴まれ、やつの股間に抱き寄せられる。鼻先に厭な膨らみを感じ、血の気が引いた。
 なんでこいつ、こんな状況で勃起してるんだ。
「やめろ」とアツの腰を引き剥がそうとするが、うまく力が入らない。それどころか、両手で頭を固定され、より一層顔面に擦り付けられ、息が詰まる。

「……しゃぶれよ、兄貴」
「っ、な……に」
「女にはこれはねえだろ。アンタの大好きなこれだよ、彼女にやらせたみてぇに咥えろって言ってんだよ。わかるだろ」

 言葉で舐られる。カッと頭に血が昇り、目の前が赤くなる。意識したくないのに、厭な硬度に、大きさに、散々抱かれたときの記憶が頭に呼び起こされ、心臓がバクバクと脈打ち始める。
 口の中にじわりと唾液が滲み、無意識に固唾を飲む。目を逸そうとしても、唇に当たるそれに嫌でも意識せずにはいられなかった。

「ふざけ……てんのか……ッ」
「ふざけてねえよ」
「こんな、こと、されて……っ誰が……ッ」
「嘘吐き」
「……ッ」
「アンタはもう俺じゃなきゃ駄目だろ。……なぁ、兄貴、俺ならアンタがどんな醜態晒そうが全部受け止めてやるよ。セックス狂いだろうが、付き合ってやる。……他の女にできなかったことも、俺ならできる」

 耳を塞ぎたくなるような甘い言葉に、目眩を覚える。耳朶の溝をなぞられ、頬を撫でられ、触れた箇所から伝わってくるアツの熱と鼓動に俺までどうにかなりそうだ。
「兄貴」と、こういうときに弟ヅラしてくるアツが憎くて、嫌で嫌で堪らないのに、それ以上に溺れそうになる。

「っ、なあ……これが欲しいんだろ。兄貴」
「……っ、ゃ、めろ……っ」

 ベルトを緩め、下着の中から張り詰めたそれを取り出すアツ。瞬間アツの匂いが濃くなり、堪らず視線を向けてしまう。
 顔の前、反り立つバキバキに勃起したそれから目を逸らすことができなかった。嫌悪感以上の、何かが胸に込み上がって広がっていく。

「……っ、ぁ、つ……」

 駄目だ、駄目だ、いけない。そう思うのに、思考が乱れる。アツの目に、何も考えられなかった。

「……手遅れなんだよ、アンタも。……俺も」

 あの時からずっと、なにもかも。
 アツの声が、鼓膜にじっとりとこびり付いては頭の中ひたすら反芻されていた。


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