天国か地獄


 01

 ――昔の話だ。

『初めまして、壱畝遥香です』

 教壇の上に立ったあいつは目立っていた。
 派手に染めた金髪もあるだろうが、それでも他の同級生に比べて垢抜けていて、あのときの俺の目には本当に自分と同い年なのか疑うほど大人びて写ったのだ。
 こんな娯楽のない田舎街では壱畝遥香は刺激そのものだった。あっという間に周りに溶け込むあいつを俺はただ教室の片隅で眺めていた。

 あいつと初めてまともに話したのは、やつが引っ越してきて間もない頃だった。
 日も浅いというのにまるで最初からそこにいたかのようにあっという間にクラスの輪に溶け込んでいた壱畝のことを、当時の俺は純粋にすごいと思っていた。だってそうだ、俺だってこの中学に入学して一年以上経っても未だに慣れることもなかった。
 俺自身はなにも変わらない。ただ一人、いつものように一人自宅へと帰っていた。

 入学当初から送迎の車はいらないと使用人たちにも伝えていた。ほんの少しの見栄のようなものだ。きっと中学生になれば友達ができて、その友達と一緒に歩いて帰ったりするのだと――そう思っていた。だからこそ断ったのだが、実際はどうだ。ただ足が疲れるだけだったが、それでもその帰路には細やかな楽しみもあった。
 道端に芽吹く花だったり、毎回挨拶してくれる近所のおばあちゃんだったり、そんな楽しみだ。
 途中野良犬に吠えられることもあったが、それも俺の平穏の生活の一部だった。

 そんな中に、あいつは現れたのだ。
 帰り道の途中、一人住宅街を歩く壱畝遥香を見つけたのだ。

『……あの、壱畝君?』
『え? 君は確か同じクラスの……』

 先に友人たちに囲まれて帰ったはずの壱畝が何故ここにいるのか。驚いたが、話を聞けば家に帰る途中の道で迷ったということのようだ。
 たまたま帰路が同じだったので、俺はそのまま壱畝のマンションがある通りまで一緒についていくことになった。
 それからだ、俺と壱畝が一緒に行動することが多くなったのは。

 ――それが、あいつと初めてまともに話したときの記憶だ。

 ずっと、ずっと忘れようとしていたのにこんなことを思い出したのは間違いなく壱畝の自己紹介を聞いたからだろう。
 あいつは何一つ変わらない。身長が伸び、髪の色が黒く染まっただけで何一つ変わらない、そのまま俺の記憶から現れたように立ち塞がるのだ。


「ゆう君」

 夢、などではない。HRが終わるとともに教室を出ていく担任を追いかけようとしていた俺の前にあいつは立っていた。

「……壱畝君」
「ほんっと奇遇だよな、まさか教室まで同じなんて。……これからよろしく、ゆう君」
「…………」
「よろしく、って言ってんだけど」

 表情筋が強ばる。こいつの言うことには大人しく従っていた方が無難だとわかっているはずなのに、忘れていた痛みが、昨晩与えられた苦痛が蘇っては全身がそれを拒否するのだ。

「っ、……よ……」

 とにかくここまで無視するわけにはいかない。本意ではないが合わせておこう。
 そう、よろしく、と口を開きかけた矢先だった。

「――壱畝」

 壱畝の背後、ぬっと影が現れる。そして、そのまま志摩は壱畝の肩を掴んだ。
 驚いたような顔をした壱畝だったがそれも一瞬、壱畝はいつもの顔を貼り付けるのだ。まるで人良さそうな顔を。

「……ああ、君は確か」
「驚いたよ、まさか同じクラスなんて」
「そうだね、そっか志摩君も同じクラスって言っていたもんね。ゆう君と」

 俺には聞こえてくる。話しかけてくる志摩に笑顔で応対しながらも、志摩が邪魔で仕方ないのだろう。
 それでも助かった。志摩の方をちらりと見れば、ぷい、と逸らされる。
 ……さっさと行け、ということなのだろうか。
 前回も前々回も、助け舟を出してくれる志摩には感謝しかない。後で改めてお礼を言わなければ、と思いながらも俺はどさくさに紛れて教室を後にした。

 壱畝がこちらを見ていた気がしたが、無視だ。俺は考えるよりも先に教室の通路を歩いていく担任に声を掛けた。

 それから阿佐美が承諾してくれたこと、早めに部屋を移りたいという旨を担任に伝えることができた。担任は手続きをしておくから好きなタイミングで部屋を移動していいという許可はもらった。

 トントン拍子、というわけではないが、相部屋の方はなんとかなりそうだ。
 職員室を後にし、俺はそのままの足取りで学生寮へと向かう。
 阿佐美にも一応声をかけた方がいいのだろうが、また教室に戻って壱畝に捕まることだけは避けたかった。
 ……阿佐美には大まかな説明はしてるのだし、先に俺の荷物だけ纏めて阿佐美の部屋まで運んでおけばなんとかなるだろう。

 そんなことを考えながらも俺は学生寮の自室前までやってきていた。
 そして、333号室前。

「……ゆうき君」

 扉の解錠をしようとしていると、いきなり背後から声をかけられて飛び上がりそうになる。

「し、詩織……っ!」
「先生とちゃんと話したみたいだね。……さっき俺のところにも確認がきたんだ。きっとゆうき君もここに来てるかなと思って……」

 なるほど、そういうことか。
 担任には感謝しないといけない。

「ごめんね、一緒に行けなくて」
「いや全然そんなこと……それよりも、もしかして……」
「荷物運ぶの手伝いに来たんだよ。……あまり力にはなれないかもしれないけど」

 その阿佐美の言葉にほっとする。

「あ、ありがとう……詩織」
「いいよ。それよりも、早く済ませてここから離れた方がいいかもしれない」
「え?」
「……もしかしたら俺と担任が話してるの、壱畝遥香にも聞かれたかもしれない」

 その阿佐美の言葉に背筋に冷たいものが走る。

「気のせいだと思いたいけど……念の為。荷物は結構ある?」
「いや、そんなにはないと思うけど……」

「わかった」と言って、阿佐美は通路の奥の奥から大きなカートを取り出すのだ。業務用の人が何人か乗れそうなやつだ。

「これに全部乗せたら一往復で足りるかな」
「こ、これは……流石に足りるよ」

 というかどっから持ってきたのだ。驚く俺に「ならよかった」と初めて阿佐美は安心したような顔をしたのだ。

「それじゃあ、手短に済ませようか。……お腹も減ったから、昼前には全部済ませてゆっくりしよう」

 せっかく制服に着替えたのに、午後からはサボる気満々のようだ。いや、実際俺も同じなのだからなにも言えない。
「そうだね」と頷き返し、俺は部屋を開けて予めある程度荷造りしていた荷物をどんどんカートに乗せていくという作業に入ることになる。

 home 
bookmark
←back