天国か地獄


 03【完】

 
 その古びたビルの屋上は本来ならば立ち入りが禁じられていた。
 が、流石にろくに換気もされていない病室に籠りっぱなしだと気が滅入る。
 そう、いつの日かサイトウが言っていた。
 ――だから、こっそり屋上の鍵を開けるようにしたと。普段ならば人気がないので一人になりたいときに丁度良いのだとも。

 知憲の代わりにその扉のドアノブを開く。瞬間、微かな埃の匂いと共に錆びたような匂いが鼻腔にまとわりつく。
 既に日が落ちた空は濁ったように暗く、月明かりすらも見えない。似たような造りの古びたビルが幾つも並んでいる。
 飲み屋のキャッチも兄ちゃんも居ないような寂れた街だ、ここにいる俺達の姿も誰も見えていないだろう。

 屋上のスペースはそう広くはない。申し訳程度に取り付けられた錆びた鉄柵と、換気扇が大部分を占めている。
 知憲は鉄柵を背に、こちらを振り返るのだ。

「ここなら丁度良いんじゃないか」
「何がだ」
「俺を殺すんだろ、殺したきゃ殺せばいい」

 知憲は口にした。淡々と、なんでもないように。ギプスで覆われた腕、肩が動くのが見えたがやはり神経がズタズタになった腕は指先までは動かすことはできないらしい。
 そんな自分の腕を見て、知憲は確かに笑った。

「アンタがやらないなら、俺がやる」

 不安定な体勢で、足の力を使って鉄柵を乗り上げた知憲の身体はそのまま宙へと投げ出される。
 伸ばす手すらも動かせない状態でバランスを崩したその先、見えるのはただのコンクリートの地面だ。
 考えるよりも体が動いていた。
 鉄柵を乗り越え、そのまま落ちていく知憲に向かって手を伸ばそうとしたときだった。
 真っ暗闇の中、すぐ下から伸びてきた腕にそのまま腕を掴まれる。

「だから、あんたは甘いんだ」

 屋上のすぐ下、その微かな段差に足を掛けていた知憲は赤く滲む指先で俺の腕を引っ張った。

「お前……ッ」

 咄嗟に鉄柵に掴まろうとするが、錆びた金属がガコンと音を立てて外れる。
 浮遊感。
 咄嗟に手を伸ばそうとしたとき、知憲はその手を振り払った。

 あの日と同じだ。知憲はこちらを見下ろして笑っていた。
 ――邪魔なのはお前だ。
 そう、その唇が歪んだのを確かに見た。


 ◇ ◇ ◇


 志摩裕斗の身体が地面に叩きつけられるのを見下ろしながら、芳川知憲は息を吐いた。
 辛うじて保っていた腕の神経とそれらの周囲の筋肉が今度こそ千切れたのだろう。そう自覚できる余裕はあった。
 痛みにも慣れていたつもりだったが、それでもその痛みを快感として捉えることができるか否かはまた別の問題だ。
 拳を握りしめようとしても指先は震えるばかりでまるで言うことを聞かない。終わったな、と諦めたとき。

「……っ、知憲君……!」

 屋上の扉が開く音ともに聞き慣れた声が響いた。
 今にも泣き出しそうな情けなく震えたその声に、芳川は顔を上げた。
 そして、外れた鉄柵の元へと駆け寄ってきた一人の青年――栫井平佑の姿を見て舌打ちをする。

「……なんで来た」
「す、みません……っ、気になって……それに、血が……」
「問題ない。想定内だ」

 栫井平佑は何かあったときのために隣の病室に待機させていた。
 今回は何かあったということはない。だからこの男を呼ぶ気はなかったのだが、いつまでも部屋に戻ってこないから心配になって様子見に来たということなのだろう。
 こちらへと手を伸ばそうとしてくる栫井の手を無視し、芳川は安定した足場へと降りる。靴裏から伝わる振動に脳に直接痛みが走るが、その痛みが丁度いい眠気覚ましになった。

「知憲君……っ」
「問題ないと言ってるだろ。……お前は人を呼んでこい」
「人って……」
「誰でもいい。もう用は済んだ」

 これ以上ここに残る必要も、匿わられる必要もない。
 ――それに、少し疲れた。
 そのまま腰を下ろし、見えない地面を見下ろしていた。
 ただでさえ寂れた街だ、あの男の死体が見つかるのは朝になる。それまでゆっくりするつもりはない。

 つくづく、相容れない男だと思った。
 嫉妬に狂って、一思いに殺してくるならばそれでもいいと思った。やはり、甘い。
 ――あいつに似ている。
 そしてそんなあの男の甘さに着け込んだ自分にも笑えた。

『知憲、お前少しは笑ったらいいんじゃないか? そしたらすぐモテるぞ、お前愛想以外はいいんだからな』

 ずっと邪魔だった。目障りで、俺の持っていないものを全部持っているあの男が。
 だから、あの男が阿賀松伊織の首をかき切ったとき――その後、病室にやってきたとき、もしかしたらと思ったのだが。
 期待のようなものを抱いていた。あの男が自分と同じならば、自分と同じところまで堕ちればいい。そう思っていた。

 けれど確信した、あの男は自分とは全く別の生き物だと。
 自分ならば、助けなかった。落ちた死体を確認することもしなかっただろう。
 ――あの日と同じように。

 時間が経過し、頭から血が抜けていく。脳内麻薬も切れてきたようだ。両腕の痛みと熱は全身へと回っていた。
 遠くから人の足音が来る。地上の方でもなにやら騒がしい声が聞こえてきた。
 時間が来たようだ。狭く寂れた街に救急車とパトカーのサイレンが木霊する。

 あれほど暗かった空が白ばみ始めていた。
 ――また、朝が来る。

【誰ソ彼】END

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