01
九月も半ば。
久し振り俺は外の空気を吸った。夏の暑さも残った初秋。まだ辺りは暗い。深夜、俺は阿佐美が運転する車の後部座席に乗っていた。
Xデーからどれほど経っただろうか。
俺はとうとう最後までサイトウと会うことは許されなかった。恐らく手術後、暫くサイトウはまたあの病室に留まることになるのだろう。
そして裕斗もあの病室に残った。阿佐美に怪しまれないようにするためとは言え、寸前まで裕斗はやっぱり着いていくと言い出して聞かなかったがなんとか落ち着いた。
とにかく、人前で話すな。そう裕斗は最後まで俺に言った。そんなことは無理だとはわかっていたが、それでも「分かりました」と落ち着かせることしかできない。
それから俺とサイトウは病室を交換し、サイトウとして阿佐美に連れ出されるのだ。
向かう先はあの学園だ。
車内に会話はない。
俺の持ち物もない。――いや、あった。
サイトウの病室に残されていたサイトウの煙草の箱とライターだ。中には数本残っていた。サイトウなりの気遣いなのかもしれない。
一度試しに一本吸ってみたがどうにも美味しいとは感じなくてすぐに止めてしまった。……が、残った煙の匂いはサイトウのものだ。俺はお守り代わりにポケットに仕舞ってからそのままになっていた。
「……説明した通り、休暇中に事故があって記憶が混濁してると周りには説明するから。……君も、そのつもりで頼むよ」
不意に、運転席の阿佐美が口を開く。
車の外では小雨が降り出したようだ、雨の音に掻き消されそうな静かな声がやけに大きく響いた。
返事の代わりに頷く。
そこで会話は途切れ、再び沈黙が流れた。
サイトウは阿佐美から『齋藤佑樹』の人となりにまで教え込まれていたらしい。徹底した阿佐美にも驚いたが、今もこうして阿佐美にバレやしないかと手のひらに汗が滲んだ。
……早く、着かないかな。
そんなことを思いながら窓の外を眺めた。
そして、随分と長い間阿佐美と一緒にいた気がする。
朝日が登り始め白ばむ空。雨はいつの間にかに止んでいた。そして、外には見慣れた景色が広がり始めていた。遠くからでも分かる異様に大きな建物――矢追ヵ丘学園だ。その周囲を大きく囲む重々しい校門が見える。
そして阿佐美は校門には入らず、近くのパーキングに停車させた。人に気付かれたくないのだろうか。開く扉、阿佐美は俺が降りたのを確認して続いて車を降りる。
濡れたアスファルトの匂い。生暖かい風が全身を包んだ。
何故だか俺は転校してきた初日のことを思い出した。明日から別人になるのだと、今までの自分を捨てるのだと自分を鼓舞していたときの記憶を。
あのときとは状況も心境もなにもかも違うというのに、おかしなものだと内心自嘲する。
サイトウのこともある、失敗は許されない。俺だとバレれば阿佐美だって、裕斗だってどうなるかは分からない。……失敗などないのだ。
「……行こうか。案内するよ」
確かあのときも阿佐美が拗ねた志摩の代わりに俺を案内してくれた。……たった数ヶ月前のことだというのにえらく昔に感じられたのだ。
俺は返事の代わりに視線を向けた。阿佐美も何も言わずに歩き出す、俺はその後を無言で追い掛けた。
学園は記憶の中となにも変わらない。記憶のままの姿でそこに聳え立っている。
学園裏口前。無言で歩く阿佐美の後を追えば、阿佐美は不意に扉の前で足を止めた。阿佐美は手にしたカードキーで学園の裏口を開ける。
それからのことはよく覚えていない。薄暗い通路を抜け、キーを使ってエレベーターを動かして気付けば見慣れた部屋の前までやってきていた。
学生寮、三階――自室前。
「ゆうき君」
立ち止まった阿佐美がゆっくりとこちらを振り返る。名前を呼ばれて内心ぎくりとした。ここからはもう『俺』なのだ。阿佐美も俺として接しているのだと気付くが、バレたのではないかと心臓は早鐘を打つ。
咄嗟に返事ができず、視線だけ向ければ阿佐美が何かを手渡してきた。
……それはこの部屋の鍵、なのだろう。それを受け取る。開けろということか。
「この部屋は今君の一人部屋だから」
一人部屋、という言葉に胸の奥がざわつく。
俺の記憶が正しければここは壱畝との相部屋のままだったはずだ。けれど、確かに壱畝は阿賀松の部屋にいた。そして、それを最後に声すら聞けていない。……深く考えることが恐ろしかった。
俺は何も考えないようにし、鍵を使って解除した。扉を開けば、僅かな隙間から明かりが漏れ出していることに気付いた。
――誰かいる。
手のひらに汗が滲む。指先が震えた。
玄関口、置かれた黒い革靴には見覚えがあった。
……とにかく、落ち着け。ここで詰まっていては阿佐美に不審がられる。俺は恐怖も不安も顔に出さないようにし、扉を静かに開いた。
懐かしい匂いだ。香水とそれは自分の部屋の匂いというよりも――。
「よぉ、遅かったじゃねえか」
聞こえてきた地を這うような声に呼吸が浅くなる。血の気が引いていき、指先から熱が抜け落ちていくようだった。
ソファーの上、深く腰を落としたまま阿賀松は俺を出迎えるのだ。こちらを振り返るわけでもなく、その視線だけを投げ掛け。
どうやら続けて部屋に上がってきていたらしい、いつの間にか背後に立っていた阿佐美は「伊織」とその男の名前を呼ぶ。
阿賀松と阿佐美、二人に挟まれ息の仕方すら忘れてしまいそうなほどだった。
それでも、ここで怖気づいては駄目だ。
この男だけは絶対に――。
阿賀松の前まで進む。腹部の傷口が焼けるように疼き始めた。そして、テーブルを挟んで阿賀松と向かい合ったときだ。
阿賀松はゆっくりと立ち上がるのだ。頭一個分ほど高い位置にあるその顔に、向けられた目に、全身に汗が滲むのがわかった。舐めるように向けられる視線。
「お前がユウキ君の代わりねえ?」
そうか、この男だけは俺が別人だと知らされているのだ。自分を演じるよりもよっぽど、この男の目を欺くことの方が俺にとっては恐ろしく思えた。
二つの目が俺を捉えて離さない。
逃げ出したかった。それでもぐっと堪え、俺は目の前の阿賀松を真っ直ぐに見据える。呼吸することすらも忘れていた。一分も経っていないはずなのに、長い間阿賀松と見つめ合っていた気がする。
やがて、無表情だった阿賀松の口元が緩んだ。
「お前、ユウキ君だろ」
息を飲んだ。汗が吹き出す。俺が口を開くよりも先に、背後にいたはずの阿佐美に肩を掴まれ、阿賀松から引き離された。
「違うよ。本人と同じようにホクロも入れて傷も作らせたけどね」
そう答えたのは阿佐美だった。それが本当なのかどうかはしらないが、サイトウは何も言わなかった。
「へえ」と阿賀松は笑う。そして顎を掴まれ、無理矢理上を向かされるのだ。
怖じ気づくな。必死に言い聞かせる。咄嗟に阿賀松の手首を掴めば、その片眉が持ち上がった。そして歪な笑みが浮かぶ。
「名前は?」
試されている。そう肌で感じた。そしてこの男は俺のことを疑っているのだとも。
「伊織」
「自己紹介もできねえのかよ。……それとも、喋れないわけでもあるのか?」
唇を摘まれる。痛みを感じる暇もない。
一気に顔が近付き、咄嗟に離れようと後退ろうとするが乱暴に腰を抱かれてぎょっとした。
「……ッ!」
「っ……伊織……彼は今喉の調子が悪いんだ」
「声くらい出せるだろ。……それとも俺に聞かれちゃまずいのか?」
阿賀松の問に応えられずにいると、首筋、触れていた指が襟を掴み思いっきりシャツの首を開かれる。大きく顕になる鎖骨を撫でられれば意識とは別の部分が反応してしまうのだ。
「っ、……」
「ユウキ君と同じところ弱いんだな、お前」
「面白えな」と笑う阿賀松に血の気が引いた。
バレるわけにはいかない。だめだ、こんな。堪えろ、逃げ出したいのに逃げ場がない。
「伊織」
「お前部屋出ていけよ、詩織」
「……わかった」
一緒にいてもらいたいと思ったわけではない。寧ろ二人を同時に騙せる自信はない。けれどだ、それでも阿賀松の命令に従って部屋から出ていく阿佐美に目の前が真っ暗になっていく。
阿佐美がいなくなった部屋の中、扉が閉まるのを見て阿賀松は再び俺を見下ろした。
「で? 詩織ちゃん騙せて俺まで騙せると思ってんのか? ……――ユウキ君」
やはり、駄目なのか。けど根拠などないはずだ。ただのハッタリだ。認めるな。無言で首を横に振れば、ハッと阿賀松は鼻で笑うのだ。
「まだ認めねえのかよ。……他人の空似ってレベルじゃねえ、顔の造形だけで誤魔化せるもんじゃねえんだよこういうのは」
「言動行動から滲み出る個性までもそう簡単に消せやしねえし真似ることもできねえよ……それこそ一心同体でもなきゃな」詩織ちゃんに死体でも持ってこさせるか?と冷ややかに笑う阿賀松。俺は必死に考えた。どうすればいい。どうすれば俺が別人だと認めてもらえる。回らない頭を必死に動かして答えを探す。
今までの俺なら絶対できない、有り得ないこと。躊躇いはあった、けれど、このままでは同じだ。最悪の結果は免れない。それならば、と思いっきり拳を握り締める。そして、阿賀松を思いっきり殴った。へっぴり腰のパンチだ。重さもスピードもないド素人の拳にも関わらず、阿賀松はそれを避けなかった。拳に当たる感触に恐る恐る目を開けば、ゾッとするような目をした阿賀松がこちらを見下ろしていた。
「……ふーん?」
そして次の瞬間、腹部に重い衝撃が走る。
頭蓋骨から揺さぶられるほどのショックに意識は呆気なく俺の手から離れた。
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