Open sesame!40



彼女が唱えた魔法の呪文は発動し、既に居心地のいいぬるま湯は指の間からすり抜けた後なのだから。勿論このまま何もしなければ彼女との関係はこのままになる。
まだ何も決められない徳さんだったが、通りすぎていく生徒達の波につられて一歩足を踏み出す。そんな勢い任せの一歩でも彼女の表情がやわらかく染まるから徳さんは背中を押された気分で年上の幼馴染みに近付いていく。それが今後の二人の関係についてのものではなく授業に間に合うかどうかの心配だとしても、徳さんには十分だった。
幼馴染みとの距離が近くなってくると言葉は自然とついて出る。
「そうは言っても、俺にとってさくらちゃんはさくらちゃんだからなぁ」
「……もしかしてあなた、実は自分の名前嫌いだったりします?鶴と亀でおめでたいから私結構好きですのに」
いつのまにか定着した渾名に絡めてそう言われる。その斜め上の深読みに今度は徳さんの顔が綻ぶ。とても穏やかな、親しみのこもった微笑みだった。
名前に関しては面白半分で受け入れているだけで自分の名前に不快感やコンプレックスを覚えたことはない。むしろ自分も鶴と亀でおめでたいから好きだと正直に言ったのに、彼女は納得したようなしていないような微妙な反応をする。
そして幼馴染はまた徳さんを率いて歩き出す。その後ろをついていきながら、徳さんはとりあえず彼女の名前を呼ぶのはこのまま継続していこうと思った。幼馴染みに微妙な思いをさせたいわけではないが、なんとなく譲りたくなかったので。
彼女の名前を呼んで許される人間は一体どれほどいるのだろう。そんなことを考えつつ階段を上っていく。
「しばらくはまだアイツの――付きまとってたやつへの警戒は解かない方がいいと思う」
三階に着くと徳さんはそう幼馴染みに進言する。
そういえばそんなこともありましたわねと悠長に喉元を過ぎれば何とやらになりかけている彼女へ、慢心は駄目だと口を酸っぱくして言い聞かせる。その気を付けてほしい幼馴染み本人からは若干うんざりした返事が戻ってきた。
「分かった、分かりましたわよ。全くもう、あなたときたら一度こうと決めたら聞かないんですから」
それはお互い様だと反論しながら、先を行く幼馴染みの後ろ姿を今までのような姫君のお付きの気分ではなく、騎士役の気持ちで眺める。
自分は彼女と何を見て、何がしたくて、どう歩きたいのか。近い内に答えを出さなければならない問題だが、とりあえず今はこうして見ている方向も、望むものが違っても、同じ速度で歩いていけるならそれで構わないと思う徳さんだった。


***


日向と尾白の話し合いは昼休みに行われることになった。それまで日向はそわそわと落ち着かず、そのあからさまな期待と不安にクラスメイトや友人達は苦笑し時に待ち遠しい気分を共有しながらひたすらに待つ。
今朝日向自身に何があったのかを日向はまだ彼らに伝えられていない。後で玉生には報告しておこうと思うが、他の友人達に言うかどうかは決めかねていた。寄ってたかって服を剥かれろくに抵抗できずに恥ずかしい写真を撮られそうになったなどとは、年頃の少女達に言っていいものだろうか。
そうして“待ち”の姿勢を貫く日向の周囲では常にないざわめきが起こっていた。どうやら今朝主だった部活が休みを取ったことに起因しているらしかったが、このとき日向は詳しい事情を知る余裕を持たず、もう少しで解除される“待て”の時間をただ待つことに集中しており周りの者もそんな日向に噂話を振らなかったので、日向がその噂話の内容を知るのはもう少し後のことになる。
そして昼休み。十分に気合いを入れキリッとした表情と戦場にでも赴くかのような足取りで並々ならぬ決意を宿した日向が待ち合わせ場所まで赴くのを、今から行くのって果たし合いだったか?と玉生が疑問の呟きを落として見送った。当の日向は屋上に続く扉の前でばったり尾白と鉢合わせた。昼食は各自で済ませることにしていたので集合の時間は前後するだろうと思っていたが、まさかここで会うとは。
日向も驚いたがそれは尾白も同じだったようで二人はしばし無言で見つめ合った。
「……ええと、朝ぶりですね」
「そうだな、朝ぶりだ」
そんな間の抜けた会話をして、日向はほんのりと笑みを浮かべている自分に気付く。
「僕が先に来て先輩を待ちたかったんですけど、これでは引き分けですね」
「朝は日向の方が早かったから、今度は俺の方が先に来たかったんだけどな」
尾白はいつも通りの、のんべんだらりとした対応でいる。とにもかくにも屋上に行こうということになり日向が屋上への扉に手をかけると、尾白が日向の背ろから腕を伸ばし先に扉を開けてくれた。日向がそちらを振り返ると尾白が悪戯っぽい表情で見返してくる。くすぐったさと、好きだなあと思う気持ちが体の内側で弾けて日向の表情筋をだらしなく緩ませた。この春に出会って間もないのに、既に慣れ親しんだ空気と距離感が温かくも心地良い。尾白も同じことを思っていてくれたらいいと思う。
礼を言ってから日向は先に扉を潜る。扉を抑えて尾白を待った。そうやって尾白も日向に続いて屋上に足を踏み入れ、尾白、日向と順に手を離す。扉はゆっくりと校舎と屋上の空間を隔てて閉まった。
他に人がいる気配はなく、天気も上々。尾白は数歩足を進め、頭上に広がる雲に自然と意識が吸い寄せられた様子だ。日向もその横に並び空を見上げる。今日は雲が多い日で、青の領地に白の軍勢が果敢な進撃を見せている。その様子は空を背景に気儘な雲がのびのびと遊んでいるようでもあった。
くったりと心身共に和らぐ、久しぶりの尾白と共にある時間。思わず日向は今日の目的を忘れそうになるも、しかしすぐに我に返って気を引き締めた。日向は尾白に言わなければならないことがある。
過去の日向は尾白への想いを諦めるでも隠すでもなく、告白を選んだ。表向きただの後輩として傍にいることもできただろう。だが日向はその選択をしなかった。今もあのときもそれが答えだ。
屋上の風が通りすぎるのを待ち日向はおもむろに尾白の名を呼んだ。尾白の方に体を向け、聞いてくれますかと真っ正直に問う。
「前にも言いましたけど、先輩に言いたいことがあります。聞きたいこともあります」
尾白の方も日向の方に体を向け、ただ静かに朝焼けの瞳で日向を見つめる。その無言を了承と受け取った日向はぶり返してきた緊張と戦いながら燻っていた思いを吐き出した。
「今日僕は改めて尾白先輩に告白をしに来ました。ただ、その前に謝らせてください」
そう言って日向は一旦言葉を切り、一呼吸置いてから続ける。
「僕は以前、尾白先輩に告白しました。でもそれはただ自分の気持ちを押し付けたいだけの、先輩の都合も気持ちも無視した告白でした。先輩に意識してほしい気持ちは確かにあったのですが、まず本気で先輩の恋人になりたいとは思っていませんでした」
好きなのは本当だがどうせ駄目だろうとそうした願望を押し込めていた。日向は自分の不誠実だと思われる点をあげ、詫びる。
「僕が考えられるのはそれくらいで、先輩が僕を遠ざけた理由はもっと違うのかもしれません。そうでしたら後で教えてください。もし今言ったことが原因でなくても、僕が先輩に対して失礼な態度を取っていたのは確かなので……その、すみませんでした」
頭を下げた日向は尾白から何も反応がないことに怯みそうになるも、ここで怖じ気づいてどうすると重たくなっていた頭を持ち上げる。すると目の前には変わらず日向に注意を向けてくれる尾白がいて、日向は励まされた気分で再び口を開く。
「僕は意気地無しでした。どんな結果になろうともそれを受け止める覚悟がなかった。勇気もなかった。でもこれからは違います」
日向は強い意思で尾白を見返す。秀麗な相貌に鎮座する朝焼けの瞳は変わらず静かに日向を見つめ凪いでいる。まるで日向を見定めるかのようでもあった。
自分のしたいこと、尾白が望んでいること。どちらもうまく擦り合わせていけたらいいと思う。もし尾白に拒絶されたとしても――相当抵抗はするだろうが――それも受け入れていくつもりだった。
尾白は気の済むまで日向に喋らせるつもりのようで、口を挟む気配はない。日向は震えてきた体に力をいれて、ありったけの思いを目の前の人にぶつけていく。
「僕は先輩が好きです。もうぼんやりとした気持ちじゃなくて、傍にいたいって強く思う。僕がいない方が、他の人と結ばれた方が先輩のためなんじゃないかって考える時もありますけど……それでも、そっちの可能性を捨ててでも僕は先輩に選んで欲しい。僕を、選んで欲しい。だから先輩――」
まだここから続く筈だった日向の告白はそこで途切れた。尾白が自らの掌で日向の口を塞いだからだ。
「悪い、そこから先は俺に言わせてくれ」
駄目だったかと弱気の虫に支配されかけた日向に向けて、尾白が物柔らかな声音で後輩の名を呼ぶ。掌の感触と温度を感じつつ日向の注意と視線がそちらに引き寄せられれば、ほのかな微笑みを湛えた尾白にぶつかった。陽の下で照らされたその優しげな面差しに日向の恋心はここぞとばかりに締め付けられる。一言で言うとかっこいいのだ。日向のなかに発生しかけた暗雲が一瞬で蹴散らされ、それほどの威力を発揮した微笑みの持ち主であるところの尾白は、日向の落ち込みがさほどではないと分かると後輩の顔から手を離した。
「といっても何から話したもんか……」
足元を定めてしっかりと立ち、陽の下でその輪郭を輝かせるその人は、直立不動で“待て”を実行する後輩を見て内容は決まったらしい。尾白の視線が日向の輪郭をじっくりと辿り、しみじみと彼の述懐は始められた。

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