Open sesame!38



「――はい。僕もこれでいいです」
微笑みあい気の抜けた空気が再び彼らの間を流れようとしたが、ここで不満の声をあげた者がいた。未だ怒りが収まらない紅一点の花である。
「もっと痛め付けて差し上げてもよろしいのに」
なんなら今から腕まくりをして追加で制裁を加えかねない幼馴染みの威勢の良さを尾白はさらりと受け流した。
「直接的な手段はもうそっちがやったしな。過剰防衛はよくない」
それでも逆恨みされる場合もあるのだろうが、これもその時はその時と割りきって考える他なかった。
もっともそんなことを言いつつ眼下の三人を見下ろす尾白の視線には一切の油断がない。許したつもりもなければ忘れるつもりもないと、その秀麗な顔は物語っている。
「それに、俺がしなくちゃいけないのは別のことだから」
尾白は三人の男に向けていた厳しさを収めて傍らにいる後輩くんを見下ろした。
尾白の意識が自分に向いたのが嬉しいのだろう。後輩くんは一心に尾白を見返し花が綻ぶような喜色をみせる。ぶんぶん振られる尻尾とピンと立った耳が見えるようだ。尾白もそんな後輩くんに向けてやわらかな雰囲気を出し、見ているこっちが塩っ気が欲しくなる甘ったるさを醸し出してきた。
つまり後輩くんのメンタルケアは自分の領分だと言いたいわけである。不遜な輩にかかずらうよりそちらを優先したいと。
あの尾白にこんなにも気にかける存在ができたことが感慨深くもあり喜ばしくもあったが、正直なところもう満腹だと思わないわけでもなかった。
「……私はまだ物足りないくらいでしてよ」
まだ噴出する感情を抑えかねている徳さんの幼馴染みが腕を組んで斜め下を睨み付けながら拗ねた口調で言い、三人の視線が彼女に集まる。
「でも、実力行使はあなた方のためにとっておくべきでしたわね。そこは反省いたしますわ」
腕を下ろして尾白達に向けて顔をあげ、そう言いつつも消化不良の不満が彼女を取り巻いているのが分かる。
未だ気が立っている猫のような彼女に後輩くんが心配そうにしている。自分のためとはいえ、そしていくら腕っぷしが強いとはいえ危ないことはして欲しくないのだろう。
「過激だな、お前のお姫様」
尾白の端的な感想を徳さんは苦笑いで受け止める。次に、さくらちゃん、と深い声で彼女の名前を呼んだ。幼い頃はこうして彼女の名前を口にする機会が一番多かった。今は減っている。学校など公的な場ではそうした親密さを出すことはフェアではないという彼女の主張から、そうした場では気楽に話しかけるどころか下の名前で呼ぶことを禁じられて久しい。
いつもならすぐさま下の名前で呼ぶなと強気の注意が飛んでくるところだが、彼女とてそろそろ振り上げた拳を収めたいと思っていたのだろう、おずおずと徳さんに気弱な視線を向けてくる。
「落ち着いて。やりすぎはよくない」
穏やかにそう告げると、彼女はぎゅっと眉根を寄せて口を真一文字に結び、ひとしきり悔しそうにした後は深々と溜め息をついた。
「……ええ、分かっています。分かっていますとも。これはあの方達への怒りではなく――いえそれももちろんありますけれど……これは、この気持ちは、私自身への怒りなのです」
そして彼女はそもそもストーカー騒ぎに日向達を巻き込んだのは、自分なら何かあっても日向達を守れる自信があったからなのだと告げる。例え実力行使に出られても大体の相手には勝てる自信があったからだと。
徳さんは彼女の話に自分と彼女の家では代々続く武術の教えがあるのだと補足する。
徳さんの幼馴染みは自らへの叱責を絶えず続けているようだった。
「でも、いくら自信があったとしても肝心な時に側にいられないのでは意味がありません」
徳さんの視界の端で彼女の悔恨の言葉に尾白が深く同意するのが映った。
「私、見誤っていましたわ。驕ってもいました。……日向くん。尾白くんも、ごめんなさいね」
そうして面目なさそうにすっかりしょげ返ってしまった彼女に、徳さんは何と声をかけていいものか迷う。幼い頃から彼女は芯の強い人で落ち込んでも下を向いているばかりではない。だがここで徳さんが彼女に手を差し伸べるべきか、それとも黙って見守っていた方がいいのか、判断がつきかねた。
自分は今まで彼女にどう接してきたのだったのか。そしてこれからどう接していけばいいのだろう。
答えを出せない徳さんを尻目に、恐らくこの場でこのところ一番彼女と親交を深めている後輩くんが動いた。彼は一歩進み出て、幼馴染みに向けて真摯に言い募る。
「先輩は僕達を守ろうとしてくれたんでしょう?でしたらそれは間違いじゃありません。今回はこういう形になってしまいましたけど、先輩方が駆け付けてくれたおかげで僕は助かりましたし、僕は何よりそのことにお礼が言いたい。……何度言っても言い足りないくらいですから」
彼は幼馴染みの落ち込んだ気持ちを、その声音とその表情でふんわり包み込むように言う。その言葉に幼馴染みの心が揺れ、後輩くんの真っ直ぐな気持ちが徐々に染み込んでいくのが分かった。
それにこれは僕が勝手に巻き込まれたことでもありますし、と小さい声で付け加えた後輩くんは気分を切り替えるように次に照れくさそうに笑う。
「本当は僕が先輩を守りたかったんですけど、逆になっちゃいましたね。でも、かっこいい先輩が見られて嬉しく思う自分もいるんです。本来なら情けないと思わないといけないんでしょうし、投げられた人達には申し訳ないんですけど」
それでもまだ踏ん切りがつかない様子の幼馴染みに、後輩くんの後を追っていつも通りの気の抜けた様子の尾白が、そうだなと後輩くんの肩に手を置く。
「申し訳ないと思うならこいつに護身術でも教えてやってくれ。なんか狙われやすいんだこいつ」
俺も一応それらしいの習ってるけど教えられるほどじゃないから、と尾白が鶴先輩に提案する。途端に後輩くんは困った顔をした。稽古をつけられるのが嫌というわけではなく、狙われやすいと評されたのが納得いかないのだろう。それに尾白自ら明かした新情報に食いつきたくても場の雰囲気的にそれができないのもあるかもしれない。どちらからというと後者の意味合いの我慢の方が強いと思われた。
徳さんも尾白の提案にそれはいいと後押しする。後輩くんは何かと引き寄せやすいのを自覚しておいた方がいい。
徳さんが加勢したことで場の流れは決まったようだ。幼馴染みも随分とその気になり、彼女の下降していた気分も大分持ち直す。
「私は構いませんけれど、教えるとなったら容赦は致しませんことよ?」
その勝ち気な言葉を受けて、尾白がいつものはぐらかしているのか真面目なのかよく分からない会話のキャッチボールを返す。
「つまりあんたは日向の師匠になるわけだ」
「あら、素敵な響きですこと」
幼馴染みは満更でもなさそうに優雅に頬に手を当てて微笑む。意外に子供っぽいところのある人なのだ。
そんな先輩達の会話を前にこの場でたった一人の後輩くんは徳さんを含めた三人の先輩の真意を確かめるように見回し、それから今の提案を俯いて熟考していたが、さほど時間をかけずに彼の決意は固まったようだ。
「……そうですね。体を鍛えて損はないでしょうし、僕も力をつけなくてはいけません」
そう呟いて面をあげた後輩くんの顔には尾白に迷惑や心配をかけたくないと、もうひとつの理由が分かりやすく書いてあった。この後輩くんは本当にどこまでも尾白尾白で、ここまでくると最早感服するしかない。しかしいくら体を鍛えても落とし穴はあるもので、自分の力を過信せず臨機応変の対応をして欲しい。後でそれも尾白と尾白の大事な後輩くん、そして何より幼馴染みにも伝えておかねばならないと徳さんは思う。
「僕に身を守る術を教えてください、先輩――いえ、師匠」
当の先輩からのにこやかな無言での催促により言い直された後輩くんからのお願いに対し、幼馴染みの返答は迷いもなく電光石火で下された。
「ええ、もちろんですわ。あなたも手伝ってくださいますわね?」
後輩からの師匠呼びに得意そうに胸を張った幼馴染みは、徳さんの方を見ながらそう尋ねてくる。昨日以前から変わらない、微塵も自分の要求が通ると疑っていない瞳の色が妙に懐かしく感じられ、徳さんの口元には自然と小さな笑みが形作られる。
「……了解、お嬢様」
間は空いたものの短く簡潔な返しに幼馴染みは大層満足そうにする。そしてついでに徳さんと鶴先輩からしごかれるのは日向だけでなく尾白も一緒にということになった。その方が日向も身が入るだろうという打算――いや配慮だったが、まさにそれは図に当たっていた。その提案が決定された瞬間の日向の張り切りようときたら、散歩に行きたくてリードをくわえて主人の周りをうろうろする飼い犬のようだった。
そして徳さんはふと、自分と幼馴染み、そして幼馴染みと尾白と後輩くんの距離感の違いを思う。
彼の幼馴染みはいま尾白と日向の近くで談笑している。一方で徳さんはそこから少し離れた位置で三人を見守る構図だ。
立っている物理的な距離、そして精神的な距離さえもきっと今は彼らの方が徳さんより彼女に近い。
彼らが彼女にしたようなことを徳さんはすぐに行動に移せなかった。踏み込むことができなかった自分と、躊躇いなく幼馴染みに関わっていった彼ら。その結果が今のこの距離に表れているのだと思われる。

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