Open sesame!19



日向は代わりに焼きそばパンとメロンパンを一口ずつ尾白に差し出し――焼きそばパンの方は些か大きすぎる一口となってしまったが、サンドイッチ一つとならむしろ妥当かもしれない――どちらも空腹を満たした後は満ち足りた気分で休息を兼ねた空を見る時間に戻る。
特に日向は尾白がくれたものによりとろとろと幸せな気分に浸っており、時間が経つにつれてそれが高まって仕方がなかった。どうにも収まりがつかないので隣をこっそり窺い、好きですと殆ど吐息と変わらない声で囁く。
「……いきなりだな」
時間差で告げられた好意に尾白が遅れて反応する。それでもちゃんとこちらを見て、言葉を返してくれる。日向はますます笑み崩れて、空に視線を戻した。だから日向に尾白は見えなくなった。伝わるのは、聞こえるのは、声だけ。
「尾白先輩が他の人を好きになって、その人と付き合うことになったとしても、僕は先輩のことをずっと好きでいると思います」
多少好意の性質や日向のなかで占める割合は変わるかもしれないが、尾白のこともこの気持ちも、いつまでも日向の一部となって生き続ける。そう思えるほど日向の心と精神には尾白が根深く息づいていた。
「……俺が他のやつとどうにかなってもいいんだ?」
「先輩が自分の意思で選んだ人なら、僕に異論はありません」
今のような関係の維持はできなくなるだろうし、気軽に会うのも難しくなるだろう。時間はかかるだろうが、それでもその時がきたら日向は尾白におめでとうと言いたい。多分、言えると思う。もちろん尾白もその人も幸せな毎日を送ることが絶対条件ではある。
そういったことを日向は尾白への恋心に浸りながら語る。饒舌に舌は動き、恍惚として言葉は途切れなかった。
そうしてひとしきり語ったあと、ふうん、と隣から相槌が返ってくる。日向は――“その時の日向は”、己の幸福に酔うばかりでどこか冷たく白々しさを含んだ尾白のその声音に気付かない。気付こうとしない。
過去の日向が見ようともしないから、今の日向にその時の尾白がどんな表情をしていたか、どんな思いでそんな声音を発していたのか知る由はない。


記憶から覚めた後はどちらも無言だった。鶴先輩は腕を下ろし、手を膝の上で組んで沈黙を守っている。日向も視線を落として物思いに沈んでいた。途方に暮れているというより、もしかしたらと思い当たった可能性を信じきれずに戸惑っている。だってそんなの、あまりにも都合が良すぎる。
何か言いたいような、何も言いたくないような複雑な感情に飲まれている日向に、鶴先輩の凛とした声が響く。
「日向くん、確認させて頂きたいことがございますの」
日向はその声につられるようにして顔をあげる。こちらを見つめてくる鶴先輩の瞳は真っ直ぐで迷いがなく、今の日向には目をそらしてしまいたくなるものだったが、それでも逃げずに踏みとどまった。
高校生ながら威厳すら漂わせる鶴先輩と悄然とした様子の日向。二者の姿は第三者から見れば随分と対照的に映ったことだろう。そんな日向に鶴先輩は遠慮なく切り込んでくる。
「あなたは尾白くんと結ばれる気はないのですか?」
「……はい。僕は先輩に振られています、し」
日向にとって当たり前のその“理由”は、今や空々しい響きで空中に吐き出された。それがまた日向の収まりのつかない胸中に断続的な波紋を投げ掛ける。
「では尾白くんがあなたの知らないところで、あなたの知らない人と付き合うことになっても構わないというのですね?」
イエスと答えるはずだった日向の唇は開いたまま言葉を発することができない。鶴先輩はそんな日向を冷静に見返しながら、問うことを止めなかった。
「もしですよ、もし尾白くんがあなたと恋人になりたいと言ったら……あなたはどうするのです?」
やはり日向は答えられない。
尾白が日向に思いを寄せるなど有り得ないと即座に切り捨てる一方で、今まで見返してきた記憶のなか、そして尾白と共に過ごしてきた時間の中から、恋愛感情でなくとも尾白が何らかの形で日向に情を向けてくれているのは分かっている。それは日向が間近で接してきた尾白の人柄や気性からほぼ間違いないと思われた。
その情が奇跡的な変化を遂げて恋愛感情に発展したとしたら?日向はその先を考えようとして――どうしてもできなかった。そこから先に思考が思うように働かない。ただの仮定の話だ。それなのに脳が、心が、考えることを拒否している。うねる感情が日向の自我をこれでもかと揺さぶってくるのに、心の一部はひどく冷めてそんな自分を見下ろしてくる。
――分かっている。これは日向が見て見ぬふりをしてきたことだ。
傷付きたくないから。自分の弱い心を守りたいから。同性への恋心を怖がる気持ちもあっただろう。
尾白は日向に絶対に振り向かない。その前提があったから日向は安全圏にいられたのだし、そこから好き勝手に無責任に好意を伝えられた。期待しなければ傷付かない。例え日向がこのことで何かを期待したとしても、それは幼子が無邪気にサンタロースや目に見えぬ存在を信じているようなもので、現実的な二人の進展を強く望むものではなかった。
「あなたは好きな人と結ばれなくていいと言う。でも、本当に――本気でそれでいいと思っていますの?」
鶴先輩の言葉は日向の波打つ感情と静かに混乱する思考を容赦なく打ち据える。
尾白への気持ちは本物だ。日向はそう信じているし、尾白への想いが溢れる度にそれを本人に伝えてきた。
しかし日向は日向のために、自らの欲望を満たすために尾白の傍にいたに過ぎない。尾白の都合や気持ちを配慮したものではなかった。
今思えば、神無月と日向の何が違うのかと尾白に尋ねたあの問いかけは実に欺瞞に満ちていた。まず出発点からして誠実とは言えないのに、何を口走っていたのだろう。それも尾白に答えを押し付ける形で。
自らの不甲斐なさや保身を突き付けられるならまだいい。だがこれまで見ていなかった、見ようともしていなかった影で尾白を傷付けていたのではないか。そのことが一番恐ろしかった。日向が尾白から遠ざけられたのもこのことが原因ではあるまいか。
今更の後悔と、鶴先輩の指摘でこれまでできるだけ見ないようにしてきた欲求が飛び出そうとするのを日向は唇を引き結んで堪える。
沈黙は長く、日向も鶴先輩も黙ったままでいると中庭にいる他の生徒達がにわかに騒ぎ出した。
「えっ?嘘、ほんとに?」
「ほんとだって、ほら、あそこ」
「きゃーっ、マジ?どうしよ。ねえ、どうしたらいい?」
そんな黄色い会話を繰り広げつつ、校舎と日向達をちらちらと見比べている。それまでの緊迫した空気が抜けて、目を瞬いた鶴先輩と日向は揃って周囲を見回した。騒いでいた内の一人と日向の視線が合う。すかさずその生徒が校舎の方を指差した。
「――あっち、殿様」
その想い人を形容した呼び名に一際ざわついた胸中を置き去りに、日向は自然とその方向に目を向けていた。日向達から見て正面、二階の窓に人影が立っている。どうやらその人物が尾白であるらしかった。その隣にもう一人立っているが、日向の眼中には入っていない。
嬉しさに恋心が跳ねるも、それまで頭を悩ませていたことが重くのし掛かってきて気軽に浮かれることができない。
「……まだ時間もあるようですから、よろしければ気分転換にそのあたりを歩いてみましょうか」
鶴先輩はいつの間にか取り出した携帯を手に日向に提案する。その表情にも声音にも責める色はなく、むしろ温かく包み込むような優しさがあった。その時日向が先輩に感じたものは叔父さんと似た雰囲気で、日向が了承すると鶴先輩も二階の人影に目を向ける。その横顔は過去を追い求めるような遠い目付きをしていた。


***


「……なんだありゃ」
徳さんが委員会の用事を終えて廊下に出ると、ちょうど鬼気迫る勢いで階段を駆け降りていく生徒がいた。後に続いて廊下に出ようとする生徒達の邪魔にならないよう端に寄り、その旨を携帯に打ち込む。次にそちらには背を向けて反対側の廊下を進んだ。なんとなくその生徒がいた方向に行く気にはなれなかったのだ。彼はこのままぐるりと廊下を回り込んで教室に戻るつもりだった。委員会の集まりに使われた教室は、中庭を挟んで二年の教室の向かいにある。
そしてその道中にまたも彼の注意を引くものがあった。見覚えのある男子生徒が見知らぬ女子生徒と話し込んでいる。親しい雰囲気はそれほど感じられず、男子生徒が一方的に女子生徒に語りかけていた。いつものことと言えばいつものことだが、必要なら間に割り込むつもりで徳さんは足の進みを極力緩めて二人の様子を窺う。会話の内容はどうやら一方的な暑苦しい励ましのエールのようだが、女生徒の方は困惑はしていても今すぐ相手を振り払って逃げ出したいほどではないらしい。むしろ段々乗せられて感化されてきている。別にこれくらいなら放っておいても大丈夫だろうと判断した徳さんは何事もなく二人の横を通りすぎた。
二年の教室が並ぶ廊下にまで戻ってくると、そこには一人で窓辺に立つ男がいた。そうして何気なく立っているだけでも十分に雰囲気を持つ男だ。彼に夢見がちな思いを抱く者なら、この光景を見ただけでうっとりと陶酔した溜め息を吐くに違いない。
そしてその男は片時もぶれることなく窓から中庭を注視している。そのあからさまな意図に徳さんは薄く笑む。クラスメイトへの穏やかな感情が灯った笑みだ。そしてその全身白ずくめの男、尾白の横に徳さんは並んで立った。
隣の男に倣って徳さんも中庭を覗くと、予想した通りそこには団欒に興じる生徒に混じってついこの間まで親鳥についていく雛鳥のように尾白の傍にいた後輩くんの姿があった。そしてその彼の相談に乗っているという女生徒の姿も。
「気になるなら会いに行けばいいのに」
そんな徳さんの呟きに尾白はこちらを一瞥して、それからまた中庭に視線を戻す。

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